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綴じる熱

常に胸の底に停滞する懊悩の粒を少し拾い上げてみようと思う。

情熱を捧げて応援する選手が活躍している時にはやった!良かった!という安堵感に目を潤ませて、選手本人の嬉しそうな表情が心の中を喜びで満たす。その幸福感たるや。

そもそも、他人を応援するということは「自分の力ではどうにもならないことを、本人自身の力で成し遂げて欲しいという願い」を「声援」などを主体に選手に向けて表すこと、だとわたしは思う。

無論、応援する側の力でどうにもならないこととは、応援される側の選手が試合で結果を残し、自身でも納得のゆくサッカー人生を歩むことだ。

応援する側のたった一人の人間の力では、どうにもならないかもしれないけれど、それが数人数十人、数百人と増えて束になり、大きな大きな声援となって、それは選手自身に響くこともあると思う。より努力や希望を産み出す力になれば、サポーター冥利に尽きるというもの。

そして、その逆で選手の調子がイマイチ上がらないなどで出番も少なく、燻っているような状況に陥っている時だ。

白熱の展開が続くピッチをアップゾーンで足を止めて見据える背中を喟然と眺めてしまう時、個サポは己の業の深さにもまた息苦しさを覚える。

チームは好調なのに、其処に自分が立てていないことの歯痒さの牙をとれだけ自分に向けているのだろうかと懸念ばかり繰り返しながら、チームの勝利の味わい尽くせない。

どんな大勝や劇的逆転勝利でも、勝利の美酒は圭勺苦いものになる。

それでいて、サッカーは11人で戦う競技で誰かが選ばれれば、誰かが零れ落ちる。チームの選手が全員参加なんていうのは到底叶わない。当たり前だがそれ故の葛藤がサポーターとしてもあったりするのだ。

屈強で我の強いストライカーが、自分が点を決めなければチームが勝利しても嬉しくない、というような開き直りが出来れば、もう少し気楽なのかもしれないが、そうも簡単にはいかない。

揺(あゆ)く喜びと刹那さの間で曖昧な表情を浮かべてしまうのである。

写真で小さく写る姿にすら無駄に哀愁を想像しては心配して、SNSでは機微を憶測してはまた憂慮の渦。その暗涙を介心するばかり。

なにかできることはないか、と思い付いても無力なだけで、ただ写真を眺めるに留まるのである。

応援のかたち、というのは様々で現在はコロナ禍により練習場に足を運ぶことは叶わないが、SNSが発展した現在はそれを使用するのも応援のひとつだと思う。

SNSというツールは諸刃の剣で応援が届くこともあれば、批判も目に触れてしまうこともあるが、それでも前者はとても有効というか選手の励みになれば、こちらも喜ばしいことだ。

わたしもTwitterでは個サポを自覚しつつ、大きな愛を叫んでいる。

けれど、それは直接選手に向けてではない。

わたしを見てくれている、もしくは偶然見掛けただけの閲覧者たち、そしてチームに向けてだ。

こんなにも、あの選手を熱く応援しているファンがいるんだな、という印象付け。自分のアイデンティティというのも無きにしも有らずだが、それよりもあの選手は人気者だと、たくさんの期待を背負っている選手だとより沢山の人々に思われたいのだ。

それ故、練習場やチームのイベントなどで選手本人に対面することがあっても、なにか話をする訳でもなく(そもそも緊張し過ぎて、顔を瞥見するだけで精一杯なのだが)、一言、応援してます、などと伝えるだけである。

選手本人に関する情報は取材などでお話される程度で満足であるし、特にもっと知りたい!という強い感情もなく、対個人としては、ただただ今現在同じ時間に存在していただいているだけで満足である。

自分の存在に気づいて欲しいとか、覚えて欲しいとか、認知欲求の気持ちは沸いてこない。

幸せな人生を歩んでて欲しい、ただそれだけなのだ。

それでいてボールを追う美しい姿を眺めているだけで、わたしは幸せなのだ。

全身に塗りたくった「あなたを応援するサポーターです」という色だけ届けばよくて、性別ですら認識されなくて良いのだ。


そんな私が逡巡することがある。

選手に向けての応援アピールである。

具体的に言うとSNSでタグをつけたりメンションをつけての発信のことだ。

ユニフォームを買いました!グッズを買いました!という内容と写真と共にアップする。

いいねをつけたりリポスト投稿したりする選手もいる。

選手本人が喜んでくれるのは嬉しいことだ。少しでも喜んでもらえるなら自分もしたい。

けれど、逆にリポストやいいねを期待していると思われるのでは、それが負担になってはならないと自戒する。決して、投稿している方を批判しているのではなく、真っ直ぐな気持ちの表現は素敵だと思う。それに返す選手もまた、とても素敵だ。

委蛇とした文章の通り、わたしは考え込む性質で単なる考えすぎなのも自覚しているし、単に勇気がないということもある。認知されたいのか、と思われるのも怖い。

そんなことを述べながら、移籍に関する情報があった際に、皆様から協力をあおぎ集めたメッセージを巻物にしてお渡しするという何とも酔狂なことを肆行したと言われてしまうと黙るしかないけれど。

あの時は買い物がてらの散歩中に思い付き、帰り道に迷いに迷いながら提案のツイートをした。

選手に想いを届けたい気持ちもだが、企画を成し遂げたい気持ちと協力していただいた皆にも感謝の念も大きく勇気が出せたのだった。

その癖に出番も少なく辛い想いをされているのでは、と想い

どんな状況であろうと応援しつづけるという気持ちをしたためて手紙でも送ろうとしたが、わたしの一葉の手紙などは奮起するような効力もないだろうし、わたしの心配など露ほども影響されないだろう、むしろ、そんなもの必要なく、苦境を乗り越える力を持っているのだろうと躊躇いに飲み込まれて、筆をとることを辞めた。

サポーターという立場上、選手が本当に喜ぶかなど直接聞くわけにも行かないし、聞いたところで選手も本音を明かすとも思えない。

通常の人間関係とも同じだが、相手の立場を慮ることの大切さ。難しさ。

単純に相手を自分に置き換えてではなく、つまり

自分がされて嬉しいかという単純な推測だけではなく、自分と境遇も天地の差のある相手の立場を想って考えるということ。

人間は複雑な思考や感情の持ち主だから、それらを丁寧に憶測したところですべてわかる訳ではない。

内に秘めているものは全て曝す必要もない。

勇気もなく、向ける視線の帯びる熱だけ温度が上がる。

鼎沸する中で、ほんの少し綺麗に響くように磨く。

堆く重なる想いをそっと綴じる。

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