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サッカー観て 神社に行きたい。 ー横浜・F・マリノス編/特別編

こんにちは。
かなりサッカー味が減り、ほぼ神社トークじゃないかとセルフ突っ込みしています。かちこです。
今回は豪華で美味しそうなスタグルも多く、オシャレでキレイな女子サポさんが多いイメージの横浜・F・マリノス編……でもって「特別編」仕様です。

横浜は港町。
観光して楽しい、買い物にも便利。横浜駅みなとみらい中華街など都会派ながらに観光も出来る素敵な町ですね。
わたしも彼氏が変わる度に、1度はデートに行く場所です。
近代に埋め立てられた土地も多く、そこまで古い神社は多くなかったりします。

そこで!横浜市内の神社…と言いますと、江戸時代から論争が絶えず、今でも話題になる神社群があります。
延喜式神名帳に名を連ねた式内社「杉山神社」です。

杉山神社は現在、神奈川県宗教法人名簿によると41社(合祀になった八杉神社、鐵神社含む)あります。
横浜市(鶴見区、神奈川区、西区、南区、保土ケ谷区、港北区、緑区、青葉区、都筑区)と川崎市(幸区、高津区、多摩区)に分布。
こんなに一帯地域に密集、と言っても過言ではない数ある杉山神社ですが、何処の杉山神社が延喜式神名帳に記された神社なのか不明です。

朝廷が作った法令集のような延喜式。その中の神名帳は、全国各地の霊験あらたかな神社を調査して記載したもの。
けれど、神名帳には詳しい住所までは記載なし。
「武蔵国 都筑郡 杉山神社」
延喜式の編纂された時代は、その情報だけで恐らく「あの杉山神社ね」と、わかったのでしょうし
詳しく住所などあっても、何せ1000年以上前なので風景なども変わっているでしょう。
杉山神社という名称の神社が2~3社ならまだしも、近い地域内に41社もあると、そりゃ推測しか出来ない。
けど、その推測が研究者にとっては、最高に楽しいのです。

41社中で、「此処が式内社なのではないか?」と推測される所謂、「論社(もしくは比定社)」である有力候補を紹介します。
 「承和五年二月 庚戌  武蔵国都筑郡 枌山神社 預之官幣以霊験也」続日本後記の記載はこうです。さて、どの論社でしょう?

三つの論社

横浜市緑区西八朔町

所謂「西八朔の杉山神社」
この論社を推すのは、大國魂神社の神主で国学者・猿渡盛章《さわたり もりあき》、他資料として神祇志料、大日本史神祇志、大日本地名辞書などが主張。大國魂神社に祀られている六宮杉山神社もこちら。
西八朔は古村で、現在の場所より300mほど西北の山麓(大明神山)にあった。
近郷62町村の総鎮守であり、広大な境内だった可能性が高い。
多数の杉山神社の中でも、「御朱印」があったのはここだけ。
御朱印は幕府から下付される朱印状に捺される印。
幕府から公認されていたというので、西八朔こそが式内社の杉山神社?
江戸末期の国学者・黒川春村は平安朝以前の東海道は矢倉沢往還(足柄道)なので、その近くの神社ではないか?と推測。
該当するのは西八朔、と次に紹介する茅ヶ崎。

横浜市都筑区茅ヶ崎

「茅ヶ崎の杉山神社」
新編武蔵国風土記稿、武蔵演路などが支持する説。
早淵川沿いの丘陵にあり、早い時期に拓けた地域でもある茅ヶ崎。
社伝に「安房国安房神社の社主の忌部氏が茅ヶ崎の土地に入植、天武天皇の頃に神託によって、杉山の丘に神籬ひもろぎをたて、高御産巣日命・天日鷲命・由布津主命を祀ったのが初め」とある。こういった伝説が残るのは此処だけ。
伝わる忌部氏系図は信憑性が低いが、西八朔と同じく昔の東海道に近いという点では可能性もある。

「吉田の杉山神社」
武蔵式内社記、武蔵四十四延喜式社道法命付、幕末国学者・斎藤義彦の支持する説。
小高い山の上にあり、最も古い土地である吉田部落の中に「杉山」の小名がある。(地名由来は不明)
この杉山に旧家である森家があり、かつての氏子総代であった。森家の背後の丘には「浅間塚」と呼ばれる古墳がある。

三つの論社をあげましたが、全てが「これ!」と言った決定的な理由がありません。なので、この論争はしばらく続きそうです。

杉山神社の謎

武蔵国の式内社郡は、河川流域、湖沼、入江の畔にあることが多く、武蔵国式内社四十四社の内三十八社がそれに当たります。大河川の下流は氾濫の危険性があるので上流など河水面より高い土地にあり、それ以外にみられる神社は奈良時代以降に出来たものが多い。

杉山神社群は一部地域に密集的にあるものの、北の多摩川を越えた地にはありません。
杉山神社氏子である一族が領土を広げようとしなかった結果、都筑郡内で血族が増え、神社も増えて行ったのかもしれません。一族の支配領土の拡大よりも、その土地やその土地の神と一族を守るとなったのでしょうか。

では、土地の神とは?
延喜式神名帳に名を連ねる神社は、その当時(平安時代)に既に霊験あらたかである神社だったので、中央政権である朝廷の力が及ぶ前から、土着の人々に信仰されていた神様だと思います。
武蔵国一宮氷川神社も「氷川神」を祀り、相模国一宮寒川神社も「寒川神」を祀ります。
けれど、杉山神社は延喜式神名帳に記載されるほど歴史がありながら、主祭神が不明です。
現在は41社中多くの社が「五十猛命」「日本武尊」を祀っていますが、恐らく明治の神仏分離の際に改められたもの。
五十猛命は林業の神様として、祀られることが多いです。
きっと、杉山神が昔は祀られていたのではないかな?と思います。

続日本後記に、杉山神社は「枌山神社」と記載されています。
「枌」は杉の旧字体とされますが、杉の旧字体は「椙」で、あまり「枌」は使われません。
読み方は「須岐夜萬」という記載あるので、恐らく「スギヤマ」でしょう。これが、「ギ」が、濁らず「スキヤマ」と読むとして、「スキ」とは何か。
考えてみると、天皇の行う新嘗祭の際に供物を採る選ばれた田圃、悠基(東国)と主基(西国)。
「主基」は「次」「継ぐ」の意味なので、山を継ぐ。
御神体を山だった、祭司はそれを守り継ぐ一族、かもしれません。
スギの語源は「真っ直ぐな木」という説があります。
そして古名は「まき」とも言われますが、これも語源は同じのように思えます。
「枌」という漢字は「楡」という他の樹木を示す意味もありますが、もう1つ「薄い木の板」という意味もあります。
今も古い形で残る「追儺」の神事(節分会の元になったもの)で、厄を払う方相氏が矛で盾を叩き魔を祓います。
その原型なのか、板を叩き厄払いとする神事が昔はありました。音を出して厄を払うのは、梓弓なども同じですね。

「枌」の字を分解して見てみましょう。
「木」と「分」。
「分」は、古は「別」と同義で、「わける」の意味よりも「別」と同じ「もうひとつの」の意味だったようです。
祭神としても祀られる応神天皇の別称は「誉田別命ほむたわけのみこと」。ここにも「別」が使われています。
この「わけ」は「継」という意味合いのようです。

ちなみに「水分」を「みくまり」と読み、水神を指します。
「木分」だと「きくまり」……
キクマリィ~~~~~~!!?キックオフマリノス~!?
偶然に取り乱しました。

気を取り直し、「杉」に関わる神社を調べたところ、静岡県にある「川津来宮神社かわづくるみやじんじゃ」は元は「杉鉾別命神社すぎほこわけのみこと神社」といい、主祭神は「杉鉾別命」名前の通りに樹木に関わる。
「杉」だけでなく「枌」の意味合いにある「分(別)」も共通しているので、何か関わりあるのか?と思い、調査中です。
来宮神社の名前の神社は、「キノミヤ信仰」と言われ、御神木を神体とする信仰で、祭神は五十猛命であることが多く、そこも杉山神社郡に共通してます。

ただ、数ある杉山神社の中で別当寺(神仏分離の前、その神社とセットになっていたお寺)で、ご本尊が「不動明王」な杉山神社もあり、不動明王を本地仏とする神様は天手力男命、菅原道真、エビスなどで、天手力男命を祀る神社で社名に「山」がつく神社は御神体が神体山(山)であり、杉山神社も山の神の可能性もありますね。

杉は、全国に御神木、神の依代として存在し、さまざまな物を作る素材としても最適だった。
よく、船の素材にも使用され、葉山にある杉山神社は「船舶の守護神」とされている。
船舶の守護神だと、港町横浜っぽくて素敵だなぁ、、
と思いますが、「枌」が別の字の書き間違えの可能性もあり、もしその節をとると、また妄想が膨らんでしまうので今回はやめておきます!笑

近い内に論社である三社は参拝しに行きたいなぁ、と思います。

長々とサッカーに程遠くなってゆく、文章お付き合いありがとうございました。読み切ったあなたはマニアック。
調べたり書いていて、とても楽しかった~~サッカー観るのと同じくらい楽しい。




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