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もう汚してしまった。

ポカ、ポカ、冬のある日、ぼくの部屋のどこかに消えてしまった『アルジャーノンに花束を』を買い直してきた。

お昼に差しかかり、駅前の「カイザー」で、ハムとエメンタールチーズのバゲットサンドを買う。
三種類あるサンドイッチのなかで、一番シンプルで、一番安価、¥300‐しないが、これが一番焼き立ての麦の味を楽しめる、ような気がするのです。

コーヒーをどこかで、と思ったが、まあ、いいや。

文庫本とバゲットサンドを持って、気持ち良く広がった公園に向かう。

黄色い帽子をかぶった、よちよちさんたちが走り回っています。

すこし離れたベンチに座って、ページを開き読みながら、片手でサンドイッチの包をひらいて端っこにかぶりつく。

チーズとハムがはみ出し、ぼくの指がバゲットに押し込む。
ページをめくるとき、バターのついていない方の指のつもりが、つい…

新装版『アルジャーノンに花束を』の、著者ダニエル・キイスによる<日本語版文庫への序文>に、ぼくの指紋がくっきり刻印されてしまった。

序文に掲載された少女からの手紙へ、著者が返信した文章が胸を打ちます。

”頭が悪い”とさげすまれ、ひどいいじめを受けている少女は、自分のことを「チャーリィ・ゴードンのような気がします」と書き記している。

以下は著者の返信の一部です、ちょっと長くなります。

ー この小説に出てくるあの光景、皿を落として割ってしまった知的障害のある給仕を食堂(ダイナ―)の客たちがあざわらったとき、チャーリィが激昂したあの場面を思い出していただければ、私があのような残酷で無情なひとびとについてどう感じているか、おわかりいただけると思います。
知能というものは、テストの点数だけではありません。他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知能など空しいものです。
この小説に登場する何人かの人物に自分を重ねあわせることができるなら、あなたは、知能ばかりか、深い洞察力と感受性とをそなえています。
私が実はチャーリイではないかというあなたの推測はきわめて鋭い。
あなたの手紙は、あなたがすばらしい人間であることを如実に示している。あなたのような読者をもてた自分はなんてしあわせものかと思いました。
どうかお元気で、そして自分を信じることを忘れないように。ー

錆び付いて、なかなか開いてくれないぼくの「記憶箱」が買ってくれた新版の文庫本と、翻訳者の小尾芙佐(おびふさ)さん、日本の有能で感受性豊かな編集者のお蔭で、小説家ダニエル・キイスと、彼の物語をより深く読み返すことができました。

訳者のあとがきに、小尾さんは、翻訳にあたって一番苦心したのは、冒頭のチャーリィの文章だったと。
原文に忠実に訳すと日本語で読む読者が理解しずらい。
悩む小尾さんの頭に浮かんだのが、放浪の画家、山下清さんのこと。

山下画伯の「放浪日記」などの文章スタイルを取り入れ、ひらがなで構成されたそうです。
初読のぼくは、そのひらがなに戸惑いながらも、世界的な小説なんだから!、と不純に読み進んでいった記憶があります。
何度もページを閉じては、また開き、不純に、辛抱強く読み進んでいくうちに、まるで、ぼくのそばにチャーリィが腰を下ろして、一行、一行、人さし指でなぞるようにしていっしょに読んでくれました。


冬のすき間の、晴れ晴れとした一日です。

よちよちさんたちは、保育士さんがゆっくりと転がすゴムのボールを追いかけて、かわいい声ではしゃいでいます。
保育士さんの「○○ちゃん、ボールが行きましたよ」の声が聞こえないのか、うつむいたままのよちよちさんもいます。
みんな、芝生の広場で、冬の光をいっぱいに浴びています。
みんなが生まれてきた日、お母さんとお父さんはどんなにうれしかったろう。それはもう、お顔も、こころも、これ以上はないってくらいにくしゃくしゃっにしてさ。

ぼくは思うのです。
そして、「BUNP OF CHIKIN」の藤原基央さんは言うのです。
曲や詞は、あらかじめ木や岩のなかに埋もれていて、それが少しずつ周りが削られ、剝がれて行って顔を出してくれるんだって。

ぼくは、ぼくを怪しんでいます。
チャーリィや、レナードや、手紙の少女の今を、なんの根拠もないぼくの物差しを無理やり押し当てて、このひとは、あの子は、なんてことを疑いもせずにやってないかって。
そして救ってあげないと、とか、正常な生活をギフトしてあげないと、とか.…

キイキイ叫びながら走り回るよちよちさんにも、うつむいたままのよちよちさんにも、今は、それはそれは素晴らしいSOMETHING GREATが眠っていて、いつか発露したり、静かに眠ったままだったりするんだろう。
それで、いいのではないか。

赤塚不二夫さんが言い残して行きました。

それでいいのだ!

最後に、物語のすべてがこめられた一行を。

ー ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください。


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