見出し画像

私はいらない子だった

#この仕事を選んだわけ

長い沈黙が続いたあと

「つまり、君はうちの社風に合ってないのよ。ほかにも働くところはたくさんあるから次を探したほうがいいわ。」

その言葉に絶句した。

「・・・そうですか。わかりました。・・・今までお世話になりました。」


私がはじめて身体への暴力を受けたのは、小学校3年生の夏の始まり頃でした。夕食の時、私は味噌汁をこぼしてしまったのです。

「詩唯!また仕事増やしてくれたわね!」

次の瞬間、目の前が真っ白になりました。平手打ちってこんなに痛いんだ。私は頬を押さえながら、こぼれた味噌汁を拭こうとしました。

「ごめんなさいの一言もないのね?」

そういってお母さんは私を突き飛ばしました。食器棚の角で頭を打ちました。

「もう今日はご飯なしね!お父さんも今日は帰りがおそいし、もう片付けるから」

そっか、今日もお父さん遅い日ないんだ。じゃあ、今日はお風呂に入っちゃダメな日だ。私は、父がお風呂に入った後にしか、お風呂に入れない。

私はほとんど食べてない夕食を捨てられ、自分の部屋に戻りました。そして、布団を敷いて、電気を消して、タオルケットに身を包みました。

「ご飯の時とお風呂以外は他の部屋に入っちゃに入っちゃダメ!」

母は私のこう命じて、六畳の部屋を私に与えたのでした。扇風機も暖房もない、机とランドセルと布団だけがある部屋で私は今日も眠りにつこうと目を閉じました。なかなか寝付かれない私は、微睡んだ頃に、このまま永遠に眠りたいと思っていました。

その日の夜、大きな音で目が覚めました。

皿が割れる音、お母さんの怒鳴り声、タンスに物がぶつけられる音。私は身を縮めて耳をすましました。

「お前、こんな夜中にあんまりカリカリするなよ」

「何言ってるの!安月給のくせに。もっと金持ちと結婚すればよかったわ。私のイライラが止まらなくなったのは、アナタみたいなダメ親父とその娘のせいよ。」

「一度医者にみてもらったらどうだ?」

もう一枚皿の割れる音が響く。

「なによ、私がオカシイとでもいうの?アンタの方がおかしいわよ!このバカ旦那。」

「あの子が生まれる前までは、お前はこんなじゃなかったじゃないか。」

「そうよ!私はもともとこんなにカリカリしてなかったわ。あの厄介者が生まれるまでは。」

••••••

「じゃあ、詩唯にはわるいけど、あの世に行ってもらうか?」

「なによ。どう言う意味よ。」

「これで湯を沸かして熱湯をかけてあの世に行ってもらうか。」

「やめなさいよ、アンタの方がおかしいんじゃない?」

「やめろ、離せ。殺してやればあの子も幸せだろう。髪を掴むな!湯を沸かせないじゃないか。」

「うるさい!お前なんか、お前なんか。」

私は少し安心して再び眠りにつきました。だって、今寝れば、もう2度と朝は来ないかもしれないから。お父さん、ありがとう。


身体への暴力よりも心への暴力の方が痛いことを私は感覚的に知っていました。心の傷は癒えていくけど、跡が残るから、ずっと痛み続ける。

死にたい、と思うようになったのは、この世に生まれてからそれほど年が経っていない頃からだと思う。だって•••。

「はい、今日の図工の授業では、『みんなの将来なりたい仕事』を絵で描いてみてください。わかりましたか?」

「はーい。」

私の机の前には画用紙と、色鉛筆が置かれている。そっか、みんなには将来があるんだ。きっと普通の人には将来があって、それが人生なんだろうな。私には将来なんて思い描けない。

私は画用紙をみつめ、うつむきました。

「詩唯ちゃん、どう?描けそう?」

気づいたら先生が後ろに立っていました。私は何も答えませんでした。そして小さく頷いて、しばらくして、色鉛筆を取り出した。

赤色の色鉛筆が好きでした。だって、血の色だから。他の色はいりません。血の色は私の生きてる証。私は赤色の色鉛筆で、十字架に縛られて流血している自分の姿を描きました。


中学生に上がると、私はなんとなく気持ちが落ち込んでばかりいるようになりました。小学校よりも生徒の多い中学生の中で、私の存在が一層薄められ、透明人間になったような気がしました。

彫刻刀。小学校の時から使っていたものの中で、中学生になっても残しておいたものでした。、それをお部屋の引き出し奥に隠すしていました。大事な宝物。

お父さんもお母さんもいない冬休みの昼下がり、私は自分の机に向かって座り頬杖をついていました。何も考えることはありません。ただ、もし考えるとしたら、死についてだけでした。

私は机の引き出しの奥にある彫刻刀を取り出しました。刃先に目をやると、彫刻刀は鋭く銀色に微笑みました。私は胸が締め付けられるような苦しく心地よい感覚を感じています。

そっと、私の真っ白な左手首に、彫刻刀の鋭い刃を当てました。少し力を入れると、左手首の皮膚の中に彫刻刀がわずかに沈みます。そしてそのままゆっくりと彫刻刀を持った手を引くと、鮮やかな赤い液体が白い手首ににじむように出てきました。

私、生きてるんだ。

手を止めると胸の鼓動が耳に聞こえるくらい、心臓が踊っていました。私は手を震わせて、もう一度白い手首に彫刻刀を当てました。

この先に、死があるんだ。

包帯を巻いた左手首が、私の存在を少しだけでも彩り、私は彫刻刀という親友とともに中学生活を終えました。母も父も、私の左手の傷に気づくことはありませんでした。ただ、相変わらず私は母の怒りの的になって、それを見て見ぬふりする父がいる。そんな生活が当たり前でした。でも、それでいいのです。お母さんが私を殴って罵って、それで気持ちが落ち着くなら私は体も心もどれだけ傷ついてもかまいませんでした。

高校生にあがると、私はますます落ち込むようになりました。朝起きるのが本当につらく、満員電車の中で立ったまま眠り、寝過ごし、遅刻ばかりしていました。頭痛が毎日のように私を襲います。

熱が出て学校に行けなかった雪のちらつく朝、母も父も何事もなかったかのように出かけていきました。私は少し手も熱を下げたくて、お昼ご飯代としてもらっていたお金を集めて、歩いて近くの病院に行きました。

「きょうはどうされましたか?」病院の看護師さんが私にそう言いました。私、人に話しかけられたのってどれくらいぶりだろう。もうろうとする意識の中で、その人の声は暖炉のように暖かく感じました。

「じゃあ、ちょっと熱を測ってみましょうか。」私は手渡された体温計をわきに挟みました。「そんな薄着じゃ寒いでしょ。靴下も履いてないのね。あら、足がしもやけになってるわね。」その言葉が嬉しかったのを覚えています。人間って、関心を持ってもらえると嬉しいんだ、って気づいた。

「血圧もはかるわね。」看護師さんはそういって、私の左腕に触れ、そっと血圧計を私の腕に巻きました。「あら、この傷はどうしたのかしら?」手首の傷を見られて、はじめて『恥ずかしい』とおもいました。私はわざとらしく咳払いをして、答えられないふりをしました。こんな優しい人に私の汚らしい血の色をした傷を見られるなんて、私は涙をこらえてその場をやり過ごしました。

「私を見つけてくれてありがとう、看護師さん。」


高校の卒業式に親が参加しなかったのは、クラスの中で私のうちだけでした。でも、私は落ち込んだりしませんでした。それよりも、高校生活を終えてからの私に自分自身で期待をしていたからです。4月からは看護学校に行ける。そう思うと、これまで生きていて失われていた元気が少し取り戻されるようでした。

看護学校では寮に入ることができました。そして学費も、看護師になってから働いて返すことができるというシステムでしたので、私は母の暴力や父の無関心と離れ、お金にもそれほど困らずに学校生活を送りました。

看護学校の勉強は、中学高校で全く勉強に手を付けられなかった私には、厳しくつらいものでした。しかし、看護学校には実際に患者さんにケアをする実習がたくさんありました。

私は実習の時、病棟に入ると、思いました。「こんなにも苦しんでいる人がいるんだ」と。私は担当になった患者さんのために、夜も寝ずに勉強して、どんなケアをしたら患者さんの病気が少しでも良くなるだろう、と日々考えていました。そうするうちに、学習することが患者さんのためになると気づいて、勉強も楽しくなりました。

「そばにいてくれるだけで、安心するよ」

患者さんからいただいた言葉です。私は看護師の大きな役目の一つとして、患者さんの心に寄り添うことが大事だと考えるようになりました。

看護師になるためには国家試験に合格する必要があります。勉強のできなかった私を、勉強のできる私に変えてくれたのは、数々の患者さんたちです。患者さんたちに後押しされて受けた国家試験だったから、私は奇跡的に合格しました。

私が精神科に就職したのは、様々な病を抱える患者さんのなかでも、こころを病んだ患者さんのそばにいたいと思ったからでした。ズタボロだった私の心を癒してくれた、冬の日の病院の看護師さん。私もその看護師さんのようにただそばにいるだけで患者さんの力になれる看護師になりたいと思っていました。

しかし、精神科病棟というところは、私の思っていたものとはかけ離れていました。

「すみません看護師さん、気持ちが落ち込むので頓服くださいませんか。」詰め所にそう言いに来た患者さん。私はそれは大変だと思って、まず患者さんのそばに行こうとしました。すると、後ろの方から先輩の声が聞こえました。「さっきお昼の薬飲んだばっかりでしょ?もうちょっと待ってください!部屋で寝ててください!」

お昼ご飯の時、先輩ナースが言いました。「ホント、かまってちゃんばっかりで困るよね~。」別の先輩ナースが言います。「精神科の患者ってそういうの多いからねぇ」「相手にしないでほっとけばいいのよ」「あ、そう新人のアナタ、名前忘れたけど、患者さんに近づきすぎよ。依存されるだけだから。最近の新人は何も知らないわね。」

私は患者さんの心のそばにいたい。きっとそれは間違ってないと思う。だってあの冬の寒い日、看護師さんは私の心のそばにいてくれた。そして私は癒されたんだもん。私は悔しくて泣きそうなのをこらえながら、休憩室を出ました。

「すみません、ちょっと話聞いてほしいんですけど。」そう言ってきた患者さんには、しっかり時間を取ってお話を聞かせてもらいました。「気持ちが沈んでつらい、死にたいよ・・・。」そう言いながら泣いている患者さんのそばで私は手を握り、背中をさすりました。言葉はいらない。患者さんたちのこころのできるだけそばに立ちたい。

「ちょっと君」看護師長さんが私を呼びました。「あなた、患者さんと仲良くなりすぎじゃない?ともだちじゃないんだよ?わかってるの?」「あ、はい、すみません」というと「何度もほかの先輩から注意されてるでしょ?あなたのは患者さんを癒しているのではなくて、雑談してるだけ。これ以上こんなことを続けると、あなたに患者を担当させられなくなるわね。」

私は友達になってるんじゃない。孤独で傷だらけの患者さんのそばにいるだけだよ。私は患者さんの心に寄り添うのを病めませんでした。

そうしているうちに1年経ちました。桜が散り始めたとき、私の宝物はあの彫刻刀から、患者さんたちからもらった手紙にかわりました。「私の話を聞いてくれてありがとう。」「あなたのおかげ手渡しは立ち直れました。どうぞあなたもお体をお大事にしてください。」多くの患者さんが退院間際に手紙をくれるようになりました。私は、精神科を選んで本当に良かったと思っています。

「ちょっと詩唯さん」看護師長がいいました。「はい。」「看護部長さんが呼んでいるから、行ってきて。話があるみたいよ。看護部長は病院で一番偉い看護師だからくれぐれも失礼のないようにしてください。」そう言って私は、恐る恐る看護部長の部屋に行きました。

「どうもあなた、報告によると、患者さんと友達になることを看護と思っているようね」鋭く私を切りつけました。「あ、いえ、そうはおもっておりませんが・・・」そういうと「あなたの周りの先輩たちは、あなたがうちの看護の方針に従ってない、と評価しているわ。」私はうつむいて「すみません・・・。」すると「さいさんの注意にもかかわらず看護の仕方を修正しないということは大目には見れないね。」「でも」私は言いました。「患者さんの中には喜んでくれる方も見えるのですが。」

長い沈黙が続いたあと

「つまり、君はうちの社風に合ってないのよ。ほかにも働くところはたくさんあるから次を探したほうがいいわ。」

その言葉に絶句した。

「・・・そうですか。わかりました。・・・今までお世話になりました。」


私は精神科看護師として、私と同じように心を病んだ人を救いたい。その気持ちは変わりません。私は負けないつもりです。今日も、こころを病んで苦しんでいる人がたくさんいる。私はその人のもとに行かなければならないのです。私は左腕の傷をじっと見つめて、空を見上げました。桜吹雪が私を応援してくれいるかのように舞い散りました。













3

.




もしもよろしければ、記事を書くモチベーションが上がり、より良い記事を書くために、わずかで結構ですので、サポートしていただければとてもうれしいです。