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短編小説集【四季の栞】

  


あらすじ


 「貴方あなたのよく私にいう言葉って、世間的にはモラハラっていうんですって、知っていましたか?」と、妻から身に覚えのない言葉を投げかけられる年老いた夫。すべての物語が独立している短編小説を読み進めた先に、妻が語った言葉の謎が明らかになる。


プロローグ 短編小説【老夫婦】上


 
 和室の座卓テーブルに広がる朝食の残りを片付けながら、妻は夫に質問を投げかけた。

 「貴方あなたのよく私にいう言葉って、世間的にはモラハラっていうんですって、知っていましたか?」妻は夫がどんな表情をするか気になったが、視線を向けることができなかった。夫は座卓テーブルの端で、日課となっている新聞のスクラップをする手を止め妻に言った。「モラハラって言葉は知っていますが、私が〝よくいう言葉〟というところがわかりません。そんな言葉をゆきさんに言っていますか?」夫の返答は決して嫌味で答えているのではないことが妻にはよくわかった。
 
 「よく言うじゃないですか、『老けたね』って。しかも貴方はそれを嬉しそうに」妻は重ねた食器をテーブルの端に寄せ終えると、手を止めた。そして口元に微笑みを浮かべながら旦那の方を睨んだ。〝老けたね〟それは、結婚生活が30年を越えた頃から突如言われ始めた言葉であった———
 

短編小説「花の妖精」




 初夏の夕刻、気の早いクマゼミの声が遠くから聞こえる。

 私は和室で夏白菊なつしろぎくが挿してある花瓶に水をあげていると、4歳になったばかりの息子のしょうが、白い肌を見せびらかすように下着姿で現れた。そして、しばし和紙に見られる柔らかな折り目に似た皺を眉間に作り、訥々とつとつと話し始めた。「パパ、あのね、ドライヤー、のときね、きっと、おばけが、いたんです」脱衣場では母親がまだドライヤーをしている音が聞こえる。母親はきっとこれから行う肌の入念なケアの邪魔になると考え、尚を私のもとへ促したのだろう。
 
 「おばけ、見えたの?」私は手に持っていた水差しを机に置き、膝を折って尚の視線の高さへ顔を近づけた。話し方は意図せず尚の舌足らずな口調につられてしまっていたが、この口調で質問したことによって、尚が浴槽から連れてきた不安を少しは拭えたようであった。
 
 「みえたんじゃないんです。かみをね、あらったときに、うしろにね、きっといたんです」尚は近くに置いてあった長座布団に座ると、私も横に座るように隣をポンポンと優しく叩いてみせた。私は仕方なく尚の隣に座った。首を上に傾け私を見上げるその姿は親に餌をねだる雛鳥のように感じた。しかし、尚が父親である私から欲しがっているのは餌ではなく明確な答えであった。
 
 「きっと、それは、きのせい、だったんじゃない?」今度はわざと尚の話し方を模倣した。「ちがうよ、だって、ぞくぞくしたんです」尚は不透明な確信を持ち私に反論する。こういう強情なところはママに良く似ていて涙が出てきそうになる。ママと同じくこうなってしまうと、理論は通じない。仕方なく私はママの真似をすることにした。
 
 「ぞくぞくしたとき、匂いはした?」私は保母さんが話すような柔らかい口調で聞いた。「ううん。あっ、でも、おはなのにおいは、したかも」それは石鹸の匂いだと、伝えたい気持ちをぐっとこらえ、より私は大げさに尚に話しかける。「なんだ、お花の匂いだったならおばけじゃないよ」「だったら、なんだったの?」尚は期待と不安が混じった表情で私を見上げる。私は尚を抱きかかえて膝の上にのせてあげた。
 
 「きっとそれはお花の妖精だったんだよ」「おはなの、ようせい?」尚の口調から不安の感情が薄らいできたのがわかった。「そう、お花の妖精。お花の妖精はきっとね、石鹸が羨ましくてこっそり覗いていたんだよ」「なんでうらやましいの?」
 
 尚の頭の中にあったお化けへの関心は、妖精への興味関心へ移っていくのを感じた。「花の妖精は顔の周りに、きれいな花びらがついているんだよ。ライオンさんみたいに。でも、石鹸をしちゃうと花びらが取れてしまうから——」「石鹸がうらやましいんだ!」尚は私の膝の上で目を細め笑い出した。
 
 ———「あんたがあんなかわいい話をするなんて、驚いたよ」尚を寝室で寝かしつけ、和室に戻ると母親が寝る前の晩酌をしながら待っていた。「なんだ、盗み聞きしてたのかい?……あの話は昔、ママが俺にしてくれたんだよ」私は静かに答えながら、テーブルを挟み母親と対面になるように座り込んだ。
 
 「ママは俺をあやすのが本当に上手かった。最初は近所に住むお姉さんでしかなかったけど、公園で砂山を一緒に作ってくれたり、分校のトイレが暗くて『何かゾクゾクしてお化けが出そう』って俺が言えば、『それは絶対花の妖精だから大丈夫だよ』って教えてくれた」
 
 「そうだね、あんたには勿体無いくらいの優しい子だったね」そう話す母親の目は、少しだけうるんでいた。それは決してアルコールのせいではないのだろう。「だから母さん、悪いけど今回のお見合いの話しはやっぱり断ってくれ。もしママが生きていたら、『私なんか気にしないでさっさと再婚しなさい!』って感情的に諭すんだと思うんだけどさ、俺はまだママがいるって言っていた花の妖精を信じているし、まだ当分は忘れたくないんだ」と、母親に内なる思いを告白し私は席を立った。途中だった夏白菊が挿してある花瓶へ水をあげ、そして夏白菊の横でいつまでも妖精のように優しい笑顔をつくるママの白黒写真に、微笑みを向けたかったのである。
 
 

短編小説「大富豪」


 
 中学校の昼休み、クラスの女子の一人が鞄から新品のトランプを取り出した。トランプの柄は秋になると校庭の花壇でよく見かけるマトリカリアの花のイラストが印刷されていた。「ユキと一緒にトランプする人、こっちにおいでー」と、トランプの持ち主の女子が声を張り上げたが、残念ながら「トランプなんて」といった反応を示す者がほとんどであった。結果的には、女子のもとに2名の友人が集まり、ババ抜きや神経衰弱といった王道のゲームを楽しんだ。
 
 しばらくすると、そのトランプでずっと楽しそうに遊ぶクラスメイトの姿に触発されてか、〝次は俺もまぜてくれ〟〝私も混ぜて〟と参加を申し込む人数が増えていった。そして、昼休みだけではトランプの求心力は収まることを知らず、家のお手伝いや部活動といった制約がない人たちで放課後にまた集まり〝大富豪〟をして遊ぶことになった。
 
 放課後、高さがある程度同じとなる机を六つ合わせ、その周りに7人の男女が集まった。最初にカードを配るのはトランプの持ち主である女子が行ったが、次回からは一番最下位だった人が罰ゲームとしてカードを配るルールとなった。皆がおおよそ八枚のカードをもらい手札を確認したところで、「ハートの3持っているのはだれ?」と男子の一人が声をあげたところで大きな問題に直面した。皆が共通だと認識していたルールに明らかな地域差があったのである。
 
 「最初はスペードの3からだよ」「いや、じゃんけんで勝った人が好きなのを出すんじゃないの?」「そもそも階段はあり?」「階段って何?」「縛りは?」「縛りって何?」「Jバックは?」「7渡しは?」「階段革命は?」———
 
 話し合いは長引き、黒板を使用しながらルールの設定を細かく行った。話し合いの途中で男子が一人、急用を思い出したという理由で帰ったが、たまたま廊下を歩いていた数学教師である門崎かどさき先生を強引に勧誘し人数の変動をカバーした。門崎先生は生徒の話し合いには混ざらず、「このトランプはかわいらしくて素敵ですね、誰の持ち物なんですか?」など、関係のない雑談をするばかりであった。そして、あらかた大筋のルールが決まってきたところで、トランプの持ち主である女子が自分の手札を何度も確認した後にこう話し始めた。
 
 「あのー、皆いいかな?誰も話してなかったから一応確認なんだけどさ、〝カードの強さは2が一番弱くて3が一番強い〟で合っているよね?ユキのおうちではそうやって遊んでいたのだけどちがう?」そう話し終えた彼女の顔はいたずらっ子らしい、八重歯を覗かせた微笑みを浮かべていた。そしてその表情の裏に隠してある負けん気の強さに門崎先生だけが気づき、静かに笑い出した。
 
 

短編小説「普段通り」


 
 
 「部活をがんばるしかない理由って欲しくない?」と、ゆきは後ろを歩く部長のまことと、その隣を歩く副部長の浩司こうじに胸の内に秘めていた感情を打ち明けた。二人は雪の言葉を聞くと同時に、歩調を早め、あっという間に雪のことを抜き去り、そして歩を止めて振り返り雪の表情を確認した。二人の目には、日が沈み街灯がしっかりと働き始める時間帯も手伝い、雪の顔が普段より影を落としているように感じてならなかった。
 
 「高体連優勝目指してやってるじゃん」真が端的に答えた。続けて「最低でも去年の先輩の成績も超えたいよな」と、頷きながら浩司が付け加えた。
 
 「違うよ、馬鹿。そういう目標とかリベンジ的なものじゃなくてさ……。なんかユキから伝えるのは難しいんだけどさ、『大病のため大会に出られない友達に優勝旗を届ける』とか『手術を受けるか迷っている許嫁を勇気づけるために』みたいな、ほかの人や学校にはない理由って憧れない?」雪は一度も二人の方は見ず、恥ずかしそうに視線は歩道の側溝に落としていた。二人は雪の話しを最後まで聞き終わると、溜め込んでいた空気が意図せず口から漏れたといった具合に大声で笑い出した。
 
 笑いながら真は、「『われら青春!』でも見たのかよ。そんな奴の為にがんばるとか現実にはそうそうないって」と、雪の頭に手を置き、優しく諭した。その光景が父と娘のワンシーンの様でもあり、浩司は更に吹き出してしまった。
 
 雪は真の手を払うと「ユキは結構本気なんだけど、それにそういう理由がある人って、勝っても負けてもよくない?その理由のためにがんばる姿がもう立派だと思わない?」と少しむきになって反論した。先ほどの恥ずかしそうな表情は消え、視線もしっかり二人を見据えていた。笑える雰囲気ではなくなったことを察し、真が神妙な顔で答えた。
 
 「立派って誰目線だよ」声は普段より低かった。「勝負が始まる前から『勝っても負けても立派だ』なんて感じる奴の為に、一生懸命頑張るのは馬鹿らしくないか?それなら普通にチームメイトのために俺は勝ちたい」「確かにそうだな」と浩司も真の意見に同意した。そして更に続けて、「何ならさ、そのチームメイトはむさ苦しい男じゃなくて、可愛い女子マネージャーって方がよくない?『がんばって』とか健気に応援してくれたほうが力出るよな?ピンチの時に手を合わせて胸の前にもってきてさ、祈ってくれたりなんかしたら燃えない?」「それは、確かに燃えるな」と今度は真が浩司の意見に同意した。
 
 「いや、それならここに実在しているじゃん?」雪は左手を申し訳なさそうに上げ、少し照れながら言った。
 
 「いやだから話聞いていたか?可愛くなきゃダメなんだぞ?」と、浩司が答えた。「それに性別は女子だぞ」と、真が眉間に皺を寄せながら付け加えた。「ユキは正真正銘女性です!」と、声を荒げながら、雪が右手に持つロフトトランドクラッチ型の杖で真の左足を叩いた。真は大げさに痛がり、大怪我したとアピールするように地面を座り込んだ。浩司は痛がる真を見て笑っていたが、雪が「お前も同罪だからな」という言葉を添え、真と同じ左足を叩いた。浩司は大げさな症状を訴え、痛がりながら地面に座り込んだ。
 
 「ほら、ウソ泣きはやめてさっさと立ち上がれ。さっさと帰るぞ!」と、雪は吐き捨てると先に歩き始めた。真と浩司はぶつくさと雪に対する不満を言いながら立ち上がり、雪の背を追いかけた。そして勿論すぐに追いついた。
 
 三人の歩幅は本来全く異なるはずだが、不思議なことに誰が先に行きすぎるでもなく、誰が遅れるわけでもない。いつも通り不思議と歩くペースは揃う。既にほかの下校中の高校生達には抜かされており、彼らの前後には通行人の姿すらない。いつも通りの光景が広がっていた。
 
 そんな特別でもない、いつもと変わらないバカ話をしながら三人は帰路に就く。
 
 

短編小説「辛い」


 

 玄関の鍵を乱雑に扱う音が、リビングに微かに届いた。私を今まで楽しませてくれた小説を閉じ、暖をとっていたコタツの上に置いた。そして急いでキッチンへと向かった。間もなくして玄関の扉が開き、「ただいま」という短いながらも、疲労を隠しきれてない声が聞こえた。妻が仕事から帰ってきたのである。

 コツ……コツ……と、床を鳴らしながら妻はリビングに着くとゆっくりした歩調でジャージ姿のまま座椅子に腰掛け、足をコタツへと滑り込ませた。私が準備していた夕食をコタツの上に並べ終える頃には、自宅に帰ってきた安心感とコタツの助力もあり、疲労の色も少しは影を隠していた。しかし夕食を食べはじめてすぐに妻は、「やっぱり辛いよ」とポツリとこぼした。
 
 妻の発言は、彼女の視線の先にあるテレビが映している映像と、相容れない内容であった。つまり、その言葉の真意は妻の現状を指して出た言葉である。「そんなに辛いなら、どうします?もう、やめますか?」妻の横に座り、夕飯の感想を聞こうとしていた私はその気持ちをこらえ、彼女をおもんばかった。
 
 「いや、やめないけどさ……。本当に辛すぎるんだよ……。|貴方あなたに向かってこんな事本当は言いたくないんだけど、でも、ごめん。やっぱり辛すぎるんだよ」妻はそこまで話すと、咳き込んだ。その様子を見て私はすぐに立ち上がり、急いでキッチンへと向かった。そして食器棚から使い込まれたプラスチック製のコップを一つ取り出すと蛇口を捻り、水を注いだ。
 
 私はコップを持ちリビングに戻ると、「落ち着いてからでいいから、一旦これを飲んだほうがいいですよ」と妻に伝えコップをこたつの上に置き、少し濡れている左手で妻の背中を優しくさすってあげた。妻は短い感謝を私に伝えると、自分の右手で目を擦った。妻の涙を見て私は何も声をかけることができなかった。そして、そんな自分は夫として失格だと恥じた。
 
 (同棲をはじめてまだ1カ月も経ってないが、ゆきさんがこんなにも「辛い」と漏らすのは初めて見た。これから先、どうしたものか———)脳裏にそんな愚痴とも思える考えが浮かんでしまった。どうしたもこうしたもない。妻の現状から考えて今の状況が好転することはとてもじゃないが考えにくい。
 
 「ごめんね、どうか泣かないでください。全部私が悪いんですね。私が好きにやってしまっているから、君を泣かせる様なことになってしまった。辛いよね。本当にごめん」私は妻の背中をさする左手に、強い後悔の気持ちを込めながら、ただ、静かに謝るしかできなかった。その後、リビングはテレビから流れる空気の読めない笑い声に支配されていった。暫くすると、まるでその支配を断ち切るかの様に、妻がふいにコタツの上に置いたコップを手に取ると、喉をゴキュゴキュと鳴らしながら飲み干した。
 
 「謝らなくていいから、次からはユキのカレーは甘口にしてちょうだい。いつも言っているけど、本当に貴方の作るカレーは私にはからすぎるの!」まだ少し涙目である妻は、少し微笑みながら私に空のコップを差し出した。どうやらもう一杯のおかわりという意味らしい。しかし本場の味をもっと堪能してほしい私としては、水をあまり飲んで欲しくないので、どうしたものかと少しばかり悩んだ。
 
 

短編小説「大人らしさ」


 
 
 大人の嗜みなんて枚挙まいきょいとまがないが、〝大人らしく見えるための嗜み〟として挙げるのならネクタイをおいて他にはないと私は思う。仕事前の締まりのない顔もネクタイを締めビシッとスーツを着こなすことで仕事のスイッチが入る気がする。具体的に説明すると、夜中に家で首元がよれたスウェットの上下を着て、横になりながら村上春樹という方が書いた「風の歌を聴け」という小説を読んでいようが、次の日ネクタイを締めさえすれば〝大人らしく〟見えるものである。
 
 
 だからこそネクタイは上手に締めなければいけないのだが、私は正直うまくできない。今朝もネクタイを結んでみると大剣より小剣のほうが大きくなってしまったり、ノットの部分を締めすぎてしまい奇麗な三角ができなかったりした。なんとかそれらしく完成した時には出勤時間ぎりぎりになってしまい、このままではいけないと再認識した。
 
 夕食後、一人ネクタイの結び方の練習をしていると、小学生のころ初めて紐靴を買ってもらった日のことを思い出した。蝶結びが縦結びにならないように玄関で何度も練習した。次の日の朝、玄関で綺麗に結べた靴ひもを見て嬉しさよりも誇らしさがこみ上げたことを覚えている。(きっと明日は上手にできるだろう)確信はないがそんな気がしてきた。
 
 「どう?少しは大人らしく見えるんじゃない?」私は姿見でネクタイの出来をチェックする旦那に聞いた。自分が締めるネクタイではなく相手、つまり旦那の首に締めるネクタイはやはりまだ慣れないが、昨日より格段にうまくそして早く結んであげることができた。
 
 旦那は今日のネクタイの出来に満足して私に視線を向けると、「大人らしいというか、たぶん夫婦らしいんだと思いますよ。ゆきさん」と、癖毛の髪を左手で搔きながら大人の顔つきで答えてくれた。 
 
 

短編小説「満月制作」


 
 
  「あの、まこと先生、聞こえてないんですか?これ見てくださいよ」
 
 「ゆき先生声が大きいんですよ、今行きますから待っていてください」俺はしぶしぶ立ち上がり雪先生の元へ急いだ。上下ピンクのラインが入った紺のジャージ、作業がしやすいように長い髪をヘアゴムで一本に結っている雪先生は、額にうっすらと汗をかいていた。この資料室には空調がないため汗が嫌でも吹き出てくる。もしこの部屋に俺一人しかいなければ、すぐにでも最近見た映画に出演していたハリソン・フォードという俳優のように胸までワイシャツを開いていたに違いない。そんな気持ちを隠しながら、雪先生の近くに着くと俺は腕時計をちらりと確認した。片付けを始めてもう既に一時間も経っている。
 
 「これ、何なのかはわからないんですが、きっと昔の学芸会のものだと思うんですよ。私たちの学年の小道具にある月の上に貼れば、クレーターみたいになると思いませんか?」雪先生は両手に車のホイール位に切りそろえたダンボールを三枚、扇子のように広げて私に見せた。私の方に向けた段ボール面は白い画用紙が貼ってあり、その上から蓄光性の夜光塗料が塗ってあった。私たちの作業時間ずっと蛍光灯の光を受けていたのだろう、久しぶりの仕事に張り切ってかぼんやりと光っていた。
 
 「クレーターにするのはいい考えだと思います。でもそれを作ったのは、そんな昔じゃありません。去年の学習発表会のトチの木に飾るために俺が作ったんです。でも結局使う機会はなくここに仕舞っておいたんです」去年、本校の学芸会は感染症の影響により中止となった。生徒の保護者に中止となる旨を伝えるため連絡網順に電話を掛けたのは、学芸会の前日となる土曜日だった。そのためほとんどは家族が在宅中であり、学芸会の中止の件をスムーズに伝えることができた。しかしタイミングが悪く電話口に生徒が立ったこともあった。「あんなに練習したのに……」生徒の姿は見えずとも、電話から聞こえる声色から落胆している姿は容易に想像できた。その出来事だけが理由ではないが、俺は連絡網での伝達を終えると体育館に向っていた。そして体育館の舞台袖に隠してあった学芸会の小道具を手に持つと資料室に運び込んだ。あの日、体育館と資料室を何往復したかは覚えていないが、学芸会の小道具を運んでいる途中、廊下の窓からちらりと満月が見えたことだけは鮮明に覚えている。きれいな満月であった。今考えると、そんなぼんやりとした思いも一緒に資料室にしまい込んでいたのかもしれない。
 
 きっと全国にある小学校の資料室にはそんな〝もしかしたら〟を待ち望んでいる備品が溢れているのだろう。
 
 「そっか、真先生が作ったやつなら主任や教頭先生への確認もいらないですね。私これを持ってプレイルームに先に行きますね。そして置いてある小道具の月に貼るので、残りの掃除が終わったら教頭先生に報告よろしくお願いします」そう俺に告げると雪先生は右手に三つのダンボールを持ち、業務の優先順位を無視して資料室から逃げ出した。楽しくなりそうなことを見つけると、居ても立っても居られなくなるその姿はよく知っている。資料室から雪先生が鳴らしているコツコツという音が結構な速さで遠ざかる。今はきっと、小学生の頃と変わることのないにやけ顔を作っているのだろうと思うと、気は進まないが残りの業務を私一人で終わらせることにした。
 
 教職という仕事に就いてまだ短いが、他人の目を気にして行動する必要性はすぐに身についた。言動や行動がすぐ生徒を通して噂になり、保護者へ伝わり町中に広まるからだ。年の離れた兄と町中を少し歩いているだけで、翌日には学校で「昨日の男の人はだれなんですか?」なんて聞かれることはよくある。だからこそ、俺と雪先生の気兼ねない会話が発端となり変な噂が流れてはいけない。俺は資料室の掃除を終え、雪先生の進捗状況を確認するためプレイルームへ行く道すがらそんなことを考えていた。 
 
 プレイルームの扉を開け、中に入るとそこには満足げな表情の雪先生とその横にはベランダ側の窓に立てかけられた満月があった。プレイルームの窓からは曇りによる暗がりがすぐそこまできている。そのため満月が暗がりに映えていた。黒板の半分ほどある満月は、ダンボールと黄色い厚紙で構成され、二つのクレーター部分は厚紙と違った淡さをかすかに持ち息づく光を放っていた。 
 
 雪先生は満月に手を添えて、にやりと俺に微笑んだ。そしてちらりと八重歯が口元から覗いていた。この微笑みは社交的な場では決して見せることのない、雪の本当のほほえみであることを俺はよく知っている。
 
 「これすごくない?去年の真に感謝だね」満月が完成した興奮からだろうか、口調がプライベート用にシフトされていた。満月の横で話す雪先生を前にし、ここまで来る道すがら俺が大切にしていた世間体は飛散し満月の横にいる暗がりに飲み込まれた。「確かにすごいよ、まるで本物の満月を雪が捕まえたみたいだ。今日みたいな曇り空の時はこれを見ながらお月見できるな」俺の言葉を受けて雪はまた楽しいことを見つけた表情をした。
 
 「いいね、なら今日は余ったこれを持ち帰ってユキの家で月見酒をしよう」そういうと雪は床に置いてあったものを拾った。去年俺が作ったトチの木の装飾部分——いや、雪の拾ったものもまぎれもなく小さな満月だった。「そうと決まれば早く帰ろう」と雪は張り切ってプレイルームの片づけを始めた。
 
 俺はもう一度窓に立て掛けてある満月を見て「月がきれいだ」雪に聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
 
 しかし、雪は耳聡く私のつぶやきを捉えていたようで、片付けていた手を止め笑いながら、「それユキに言っているの?」と私の背中に聞いてきた。私は雪に顔を向けることはせず満月を見ながら答えた。
 
 「馬鹿、誰がお義姉ねえさんにそんなこというかよ」
 
 

短編小説「富裕層」


 
 
 (欲しいものが必ず高価である必要はないのではないだろうか?)私はふいに浮かんだ考えに身体は硬直し、思考の世界にトリップしてしまった。 男はすぐにリッチマン——いや、富裕層と称される人々を想像した。週末には高級車のカスタムカーにハイブランドの服で乗り込みドライブを楽しむ。そして自宅に戻ったあとは高価なレコードを何十枚も貯蔵してある部屋で優雅に音楽鑑賞をたしなんでいる。
 
  私の想像から生まれた彼らは自ら富裕であることを誇示し、カテゴライズされることを望んでいるようであった。彼らは学校の教科書には決して載っていなかった、乗るべき車や着るべき服を、いったいどのタイミングで誰から教授されるのだろうか。人間が一日で生きる為に最低限必要なお金というのは存外安いものだ。その上に更にお金を積み上げることにより、満たしたい欲求の穴を埋める。その欲求に対し、富裕層は高額であるものを敢えて選択している節があるのではないだろうか。
 
  〝これには財布の紐が緩んでしまいます〟というものに対し、生活水準が上がるにつれ比例してグレードが上昇するのは理解しやすい。しかし、〝これにはお金をかけなくて十分である〟という優先度の低いものに対しても、富裕層の彼らは敢えてグレードが上がるのはなぜだろうか。
 
  (いや、これは私の富裕層に対する偏見なのかもしれませんね、もう少し考えを続けてみましょう)
 
  彼らは金銭の余裕があるから全ての物、全ての物事のグレードを上げる。その結果の行き着く先は、自我の崩壊、つまり個人の死ではないだろうか。自分らしさが失われ、型にはまった富裕層らしき者になっているのである。
 
  「危ないところでした……」軽はずみな行動により、私は私自身を消失してしまう所であった。有限である時間を少々使いはしたが、どうやら間違った選択をしないで済みそうである————
 
  男は考えることをやめ、目の前の自販機の中では一番安価な炭酸飲料のボタンを押した。そしてそれは妻がいている飲み物であった。しかし、いくら待っても自販機から炭酸飲料が出てくることはなかった。男は不審に思い自販機の電光パネルを見た。すると先ほどまで点灯していた〝あたり〟の文字が消えていることにようやく気付いた。そして電光パネルの下に書いてある小さな説明書きに気がつき、それを一読して小さく吹き出した。
 
  〝商品を購入し、『あたり』表示が出た場合30秒以内に好きな商品の選択してください。選択されえない場合は、キャンセル扱いとさせていただきます〟男はそもそも、富裕層は小さなチャンスも逃しはしないことを失念していたのである。
 
 
 

短編小説「嫌いなところ」


 
 
 「うん、今日もとてもおいしいですよ。ゆきさんの作るグラタンはやっぱり絶品ですね。それに私の好きなブロッコリーも入れてくれているし、ありがとうございます。仕事終わりにこんな贅沢ができて私は幸せ者ですね」旦那はリビングで夕食を食べながら、いつもの様に私の手料理を褒めてくれた。私はそんな旦那の言葉を、キッチンで洗い物をしながら背中で受け止める。そして、私はシンクの蛇口を止めて布巾で手を拭き、旦那に気づかれない様にエプロンのポケットに忍ばせていたメモ帳を取り出し、走り書きでこう書き綴った。  
 
 〝わかりやすいお世辞ばかりを言ってご機嫌を取ろうとしている〟
  
 書き終えると私は満足して「いつも残さず食べてくれてありがとうね」と旦那に声をかけた。出来る限り優しい声色で。
 
 旦那とは結婚して3年が経つが、知り合ってからの期間は15年以上になる。旦那のいいところはいっぱいある。歩道を一緒に歩くと、必ず車道側を歩いてくれる。買い出しのときはかごに入れた商品の合計金額をいつも教えてくれる。勿論、消費税の面倒な計算も済ませてである。それらは小さなことかもしれないが、私を気遣ってくれている気持ちが伝わりいつも私をお姫様の様な気持ちにさせてくれる。旦那の優しさがとても心地よく好きだ。でも、旦那が好きという気持ちだけで、毎日を過ごせるわけではない。
 
 日本の四季ははっきりしている、と日本を誉める時の言葉としてラジオで耳にする。日本人だからだろうか、日本の四季と同じように、夫婦間にもはっきりとした春夏秋冬があると最近考えてしまうようになった。多くのものが芽吹く春を経験し、見つめるだけで体温が上がるような夏を経て、落ち着きのある緩やかな実り秋を堪能し、そして——
 
 「ごちそうさまでした。洗い物まだありますか?残りは私が今食べ終わった食器と合わせて洗いますね」旦那はいつの間にか食べ終えた食器類を持ち、私の隣まできていた。私はシンク脇に置きっぱなしにしていたメモ帳を手に取り、〝考え事をしているときに急に話しかけてくる。察しが悪い。〟と先ほどの文章の後に付け加えた。その様子を旦那は横で眺めていたが、私は気にしない。
 
 「——それでは、続きまして『女もつらいよ』さんからのお便りです。『旦那の飲み会帰りに買ってくるお寿司が許せません。好き勝手飲み歩ったあとに、申し訳程度に私の溜飲りゅういんを下げる目的で買ってきます。君が食べたいと思って買ってきたんだよ。と、私のために買ってきたというスタンスを繕ってるところもより腹が立ちます』あー、これはでも、旦那さんの気持ちわかるなー。これ——」そこで、私はラジオを聴く気持ちが途切れラジカセの電源を切ってしまった。
 
 「どうしたんですか?」私の不貞腐れた態度に気づき読書をしていた旦那が声をかけてきた。「……今日は珍しく読み上げてもらえなかった」私は力無く旦那の質問に答えた。「そもそも今回のお題は難しすぎ。だって『主人やボーイフレンドの嫌いな所』だよ。頑張って想像して書いたものを葉書に書いて送ってみたけど手応え全くなかったもん」嫌いなところのない旦那に対し私は正直に告白した。ラジオへの投稿は私の旦那以外の生きがいと言える、唯一の趣味である。
 
 アパートの窓が夜のとばりはしる冬風を受け、少しばかり叫んでいる。冬はまた巡る春に向けて準備の期間である。そして来春はもっと旦那を好きになる。
 
 
 

短編小説「クローバー」


 

 草木が朝露を蓄える早朝より、週末の時雨しぐれ明けの草木の色合いの方が美しいと感じる。普段はすすけた印象を受ける公園が妙に愛おしい。それはきっと、4歳になった息子が遊具には目もくれず、縦横無尽に走り回っている姿が目の端に映るのも関係しているのだろう。履き慣れた青い長靴を、まるで地面に見せびらかす様に駆けている。お気に入りの茶色のダウンジャケットに袖を通し、腕は水風船をつなげた様にパンパンの綿が彼を包んでいる。子どもらしくとてもかわいらしい。
 
 この公園の対象年齢は幼稚園生では決してない。設置されている鉄棒の高さや、滑り台の階段の高さなどで小学生以上を対象にしているのが伝わってくる。息子も無意識に公園の意図を察してか、いつもこの公園に来ると芝生の上を走る。そして、いつも疲れると私の元へ帰ってきて「もう帰る」と駄々をこねる。今日もそうなることを見越して来たのだが、私の元へ息子は来ると唐突に驚くことを話し始めた。
 
 「ねえママ、四葉のクローバー探したい。もし見つけたらね、明日幼稚園に持っていってね、僕を嫌いって言う女の子にあげるの」
 
 息子の言葉に健気さを感じると同時に、こんな思いやりのある息子をないがしろにしている、その女の子に少しだけ腹が立っていた。私は息子の気持ちを尊重してあげたいが、素直に応援できる気持ちになれず、意地悪な質問をしてしまった。
 
 「四葉のクローバーをその女の子にあげたからと言って、好きっていってくれるかはわからないよ?それでもあげるの?」私の質問の意味が正しく伝わらなかったのか、息子は目を輝かせて私の質問に答えた。「そんなことないよ。ぜったい好きっていってくれるよ。それは決まっているもの」
 
 息子の言葉を受けて私たちは四葉のクローバーを探すことにした。正直あまり気乗りはしなかったが、息子のやりたいという言葉を尊重することにした。公園の外周、等間隔で植えられている銀杏の木の下にお目当てのものはあった。もともとそこにクローバーが群生してあることを息子は知っており、二人で腰を屈ませながら探した。そして先に四つ葉を見つけたのは息子だった。小さな手で茎の根元からその小さな宝物をちぎり取り、「これで、好きって言ってくれる」と頬を少し高揚させ笑った。
 
 翌日の夕方過ぎに幼稚園に息子を迎えに行った。息子の帰り支度を玄関で待っていると、担任の先生が息子より早く玄関に登場した。そして、「今日は四葉のクローバーをわざわざ持って登園してくださり、ありがとうございました。裕太ゆうたくんとっても優しいですよね」とよくわからない賛辞の言葉を私に伝えた。「なんか、息子がどうしても四葉のクローバーを幼稚園に持っていって女の子にあげる……とか言っていたのは聞いていたのですが、なにかあったんですか?」と素直に聞いた。すると、先生は「あっ、裕太くんお母さんには話してなかったんですね」と答え、続けて詳細を説明してくれた。
 
 「先週の金曜日、裕太くんのことが好きな女の子がのクローバーで裕太くんの気持ちを花占いしたんです。『私のことが、きらい、すき、きらい…』と。その後も何度かやったみたいなんですが、なんせ三つ葉ですから……。結果は変わらず。そして、その子は悲しくなって泣いちゃったんです。裕太くん、それを友達から聞いたのか、どこからか見ていたのかはわからないんですが、今日になって裕太くんがその女の子に『これで花占いしなよ』って四つ葉のクローバーを渡してくれたんです」その瞬間を思い出したのか、担任の先生の表情はとてもにこやかであった。私はというと、息子のそんなキザな対応が照れ臭いやら微笑ましいやらで少し恥ずかしかった。
 
 「その女の子は、息子からの四葉のクローバーを貰ってちゃんと『好き』と占うことはできたんですか?」先生のにこやかな表情をこれ以上向けられるのに耐えられなくなった私は、質問によって打ち消すことを試みた。しかし、先生のにこやかさは陰りを見せることなく、むしろ数割増しとなり答えてくれた。
 
 「いいえ、女の子の方は四葉のクローバーを受け取ると『これ二人の結婚式のときに頭に飾る』って言い出して、結局お持ち帰りしちゃったんです」タイミングよく先生の背後から通学リュックを背負った息子が歩いてくるのが見えた。その普段と同じ姿が何だか少し旦那に似た大人びた雰囲気を纏っており、私はたいへん困惑した。
 
 

短編小説「宝探し」


 
 
 「——ルールは簡単で宝物の入ったカプセルがイベント会場のどこかに埋まっています。貸し出し用のスコップを使い、がんばって探してみてください。また、もしゴミやよくわからないものを掘り起こしてしまったら、埋めることはせず近くにある透明なゴミ袋にお入れください。係員が後で処分いたします。最後に、イベント終了の合図はことらでホイッスルを鳴らしお知らせいたします。それでは説明は以上となります。では宝探しスタートです」と、白髭で眼鏡を掛けた博士みたいなおじいさんが、拡声器を使い話していた内容を思い出しながら僕は掘り進めた。妹がやりたいということで一緒に参加したイベントだったが、始まると妹より真剣に宝物を探していた。
 
 スコップで掘り出した土が今まで掘っていた土と違う固さに変わった。色も少し薄くなり僕は宝物がきっとここにあると確信した。スコップの先が何か固いものに当たって〝カンッ〟と音をたてた。僕はそれが何なのか確認するため掘り進めようとしたが、掘り返した土の中に光るものを見つけ手を止めた。
 
 見つけたのは消しゴム位の大きさの白い石だった。でも形が普通の石とは違って水滴を少し曲げたような見た目をしていた。そしてそれは、テレビでしか見たことがない〝勾玉まがたま〟というものであることにすぐに気がついた。指でこの勾玉を撫でるとまるで川で拾った小石のようにすべすべしていて気持ちよかった。僕は、すごい物を見つけてしまった興奮を感じながら誰か大人の人に言うべきか考えた。
 
 考えている途中も指ではずっと勾玉を撫で続けた。そして、この勾玉は僕だけの宝物ということにしてズボンのポケットにしまった。宝探しゲームで見つけた本物のお宝だ。確か博士みたいな人が言っていた〝よくわからないもの〟でもないから、ゴミ袋に入れる必要もないはずだ。悪いことをしたわけじゃない。僕は急いで掘った穴を埋め妹の方を手伝ってあげることにした。足が悪くしゃがんで土を掘るのが難しいお母さんの代わりに、今日はこれから僕が妹の面倒をみてイベントを楽しませてあげようと思った。
 
 ——日もどっぷりと暮れ、イベントの参加者が誰も残っていないことを男性は再度確認し、車のライトを頼りにゴミ袋の中を全て地面にひっくり返した。そして中身を確認し目当てのものが無いことがわかると車の助手席を開け、先ほどまでイベントの中心として話していた老人に報告した。
 
 「やっぱり今日も何も出ませんでしたね」男性から報告を受けた老人は少し落胆したように見えた。「今回もやはりそうか、銅鏡や銅鐸といわないまでも勾玉の一つでもこの土地で見つかれば、協賛金出資者への説得力が増すんだが上手くはいかないな」「いい考えなんですけどね、宝探しのイベントと称して各地で人を集め、運がよく何か出土品なんか見つかれば教授の悲願達成に一歩前進する。どうします、次は東北地方とかにしますか?」男の熱意に後押しされ老人は、そうだな、と小さくつぶやくと続けて語った。「まあ、今度イベント実施する場所は前回と同じ九州に戻そう。やはり邪馬台国は日本国民の宝だからな、諦めたくはない」「どこまでも教授についていきますよ。僕らの宝探しはまだまだ終わりませんからね」男性は年老いた教授に手を差し伸べ力強い握手を交わした。
 
 ——実はあの少年のスコップが鳴らした〝カンッ〟という甲高い音こそ、彼ら二人の宝探しの終わりを告げる音であったが、残念ながら気付くことはできなかった。
 
 

短編小説「魔女かり」


 
 〝おばあちゃんは野菜作りが上手で、そして魔女かりはもっと上手だった〟
 
 おばあちゃんはよく私の寝る前に絵本を読み聞かせてくれた。両親が教師という仕事柄、深夜に帰ってくることも多く、おばあちゃんの読み聞かせてくれる絵本は、寝る前にふと湧き上がる(パパとママにもう会えないかもしれない)という、根拠のない不安を忘れさせてくれた。そんな絵本の読み聞かせ中に時々魔女が出てくる。魔女はお姫様にイジワルをする悪い魔法使いの時もあれば、王子様を助ける心優しい魔女の時もあった。しかし、どんな魔女が出てきてもおばあちゃんは決まって、魔女がどれ程悪さをするか話し、どうやったら魔女を狩ることができるか細かく教えてくれた。
 
 ある夜、魔女の説明を終えたおばあちゃんに、「おばあちゃんは魔女がり大変じゃない?」と聞いた。それはふと湧き上がった疑問だった。絵本を持つおばあちゃんの皺の多い手を見て、そんなことを思ったのは覚えている。「大変だけど、誰かがやらないとね」笑顔で話すおばあちゃんの横顔を見て、私は眠りについた。今思い返すとこの会話がきっかけだったのだろう。 
 
 私が小学校に入学した年の春先に、「私もおばあちゃんの手伝いをしたい。魔女を一緒にかりたい」と相談した。私の気持ちがうれしかったのだろう。おばあちゃんの顔はほころんだが、すぐに真剣な表情を作り直し、「おばあちゃんと一緒にやるのはとても大変だよ。いつでもやめていいからね」と私の気持がいつでも変わっていいことを伝えてくれた。「いいの。私も魔女がりをするおばあちゃんみたいになりたい」その日から私はおばあちゃんの弟子になった。
 
 次の週末から私の魔女がりは始まった。朝早くおばあちゃんの畑について行き、色々なことを教わった。魔女を倒すためには体力が必要で、畑を走り回るように教えられた。時には大きな声を出すこともいいらしく私は山の頂上でもないのに「やっほー」などよく叫んだ。そんな私の姿をみておばあちゃんは「さすが私の孫だ」と褒めて頭を撫でてくれた。
 
 週末になる度、私は弟子としての修業に真剣に取り組んだ。畑では魔女についての色々なことを教わった。魔女は姿を変えていつも私たちを見ていること、魔女がりの道具の使い方も教わった。おばあちゃんの魔法の力で作ったという強い光を放つお皿、鬼ヶ島から持ち帰ったという鬼の目、子どもの私は触るのも怖いものばかりだった。
 
 九月の残暑も陰りを見せた頃になると、針で指すとはち切れてしましそうなトマトや、太陽の光をため込んだ人参、魔女が着ているローブの色をしたナスの収穫を終え、私の初めての魔女がりは終わりを迎えた。
 
 ——「それがこの大学に来た理由?わけわからない。それに結局魔女狩りはしてないじゃない?」椅子に座り、テーブルの上にある学食のパスタをフォークで延々くるくるしながら、友達が私に聞いてきた。きっとまた三限目の授業をさぼる気なのだろう、ゆったりとしたその動きからそんな彼女の気持ちが透けて見えた。
 
 対面する私は落ち着いて、「私はずっと〝魔女かり〟をしていたよ。農家の天敵の魔女、いやおばあちゃんの言葉を借りるなら魔女が化けているカラスをずっと〝カって〟いた」彼女は今まで頭の中に思い描いていた黒い服に、黒い帽子と手には竹ぼうき姿の魔女をカラスに変えて私の話しを反芻したのだろう。なるほどね、と含み笑いながらつぶやいた。
 
 「おもしろいおばあちゃんだったんだね。でも狩ってはいないんじゃない?狩るって言葉はやっぱり殺すとか駆除ってイメージがあるんだけど?」彼女は昔私も抱いていた同じ疑問を口にした。私はトートバックから筆記用具を取り出し中から付箋とシャーペンを出した。そして付箋に〝り〟と書いて友人に見せた。
 
 「『駆り』読み方はカリ。走るって意味で使われる漢字だけど、追い払うって意味でも使われるの。それにおばあちゃんは『魔女カリ』ってずっと私に言っていたの。普通は濁って『魔女ガリ』って言うのに」
 
 〝魔女駆り〟の漢字は、おばあちゃんの遺品の日記帳を読んで初めて知った。日記には、魔女駆りの内容と私とやった魔女駆りの感想が丁寧な文章で添えられていた。しかし月日が進むと魔女駆りの言葉はほとんど出ることはなくなっていった。魔女駆りの言葉の代わりに、野菜の育て方や土に混ぜる肥料の割合など、日記というよりは誰かに向けて書いているような細かいメモが目立ってきた。
 
 「——魔女はおばあちゃんだった。なんでもお見通しの魔女。そして私はそんなおばあちゃんの弟子。だから私はこの大学に来たの。はい、質問の答え終わり、私はもう授業行くね」私は筆記用具に付箋とシャーペンをトートバックに仕舞い、三限目の講義へ行く準備をする。トートバッグの中に今日提出期限である食料生産のレポートも入っていることも確認した。おばあちゃんを超える魔女に私も早くなるため、私は講義室へ向かって駆けていく。
 
 

短編小説「トレーニング」


 
 
 その映像は年末に行われた格闘技番組の勝利者インタビューであったが、男にとってはこれ以上ない衝撃的なものであった。「僕が勝てたのは、練習のおかげです。強敵と戦うため2か月以上前から日々自分を超えるトレーニングを実施してきました」試合に勝利したその男性は元来泣き虫であり、いじめられっ子であったと試合前に紹介されていた。そんな男性が試合に勝ち、リング中央でインタビュアーの質問に堂々と答える。表情に嬉し涙などはなく、終始笑顔であった。
 
 男は感銘を受けた。明日からトレーニングによる肉体改造を行い、あの勝者のような笑顔を身につけることを強く誓った。男は静かに椅子から立ち上がり、リビングの窓を遮る厚手のカーテンを開け、ガラス越しに外を確認した。年末の風景にふさわしい粉雪が舞っている。しかし、その程度の季節の障害によって男の決心が変わることはなかった。
 
 「雪は好きですが、今日からは少しだけ嫌いになるかもしれませんね」と、キッチンで年越しそばの用意をしている妻に聞こえないように囁いた。
 
 早朝、普段より1時間半も早く目覚まし時計の力を借り、溶接されているような両の目を何とかこじ開けた。男は幼児の着替えのようにゆっくりと時間をかけジャージに着替えると、ランニングを行うため家をあとにした。昨夜の粉雪がアスファルトに薄いレースのカーテンのような装飾を施していた。男は転倒に気を付けながら歩き出す。そしてまずは近所の公園を目指すことにした。そこは遊具が設置されているエリアとは別にグラウンドが隣接されており、運動にはもってこいの場所である。公園に着くと入念なストレッチを行い、グランドを30分以上ゆっくりと走った。その後腕立て伏せや腹筋などの筋トレもできる限り努力し久方ぶりに気持ちのよい汗をかいた。
 
 トレーニングを開始し1か月が経った。年が明けても身に突き刺さるような外気が和らぐことはなかった。しかし、三日坊主とならずに済んだのは男の強い意志によるものである。(このトレーニングできっと私はあのインタビューを受けた男性のようになれるはずだ)男はその気持ち一つで毎朝のランニングや筋トレをその後も続けた。
 
 トレーニングを始めて約3か月が過ぎた。夕食後の風呂上り、男性は鏡の前で自身の身体をまじまじと観察した。運動をはじめる前に比べ、加齢により下腹部に現れかけていた丘陵きゅうりょうは姿をくらまし、少しばかり顔の輪郭もシャープになっていた。(小さな変化ですが、これなら気持ちの変化も期待できそうです。そして明日、私の目標が無事達成出来ればいいのですが……。笑って一日を過ごせますように)
 
 ——体育館から聞こえる校歌斉唱は微かに、すすり泣きのような声が混じっている。合唱が終わり司会の教頭先生の掛け声により卒業生、在校生が同時に着席する。「続きまして、卒業証書授与」教頭先生の練習通りの落ち着いた声が響くと、男性は教職員の座る席から立ち上がり、マイクの前まで進んだ。「卒業証書を授与される者、3年1く、み……」生徒の名前を呼ぶ前に男性は、両目から流れる涙を止めることがどうしても叶わなかった。トレーニングにより余分な水分を少しでも絞り出し、あの日見た勇敢な彼のように笑って教え子達を送り出そうとした思惑は全くもって無意味であった。
 
 しかし、そんな泣き虫で心優しい数学教師の姿は、卒業生たちの眼には何よりの贈り物であるようにえていた。
  
 

短編小説「そういう名の料理」


 
 
 熟れたトマト色のシーリングファンが、私の頭上で休むことなく回っている。その速度はまるで、幼児が跨って漕ぐ三輪車の車輪のように危険性を感じさせないものであった。私は白い丸型のカフェテーブルに向かい、膝をつきながらファンを注視した。もし、あのファンに目があるのなら、私の鋭い三白眼に震えたかもしれない。私は苛立っているのである。その感情の理由は、就職はおろか嫁にも行かず家で過ごす娘や、旦那が発症したC型肝炎の原因などではなく、このカフェで食べた〝サラダ〟ただ一つである。しかしそこは私も還暦を迎えた大人の女性である。穏便にこのカフェのシェフと話す前に、ファンを眺め気持ちの昂りを落ち着かせているのである。
 
 「すみません、少しよろしいですか?」私は気持ちの落ち着きを感じると、隣のテーブルを拭いている男性スタッフに声をかけた。このタイミングになってはじめてカフェにいる客は私1人であることに気づいた。それは大変幸運であった。これから話す内容は、このカフェに通う多くの人に聞かせるべき内容ではないからだ。「はい、どうかなさいましたか?」と、男性スタッフは言うと、すぐに私のテーブルに駆け寄ってくれた。しかし、彼の表情は少し不安げであった。きっと私から発せられる次の言葉がクレームであることを察しているのであろう。
 
 「お忙しいところごめんなさいね、でも、どうしてもこのサラダを作ったシェフを呼んでいただきたいの」私は出来る限り微笑みを含ませ、彼にお願いした。「承知いたしました。しかし、提供したサラダに何か不手際があったのなら、私がお伺いすることも可能ですが?」彼は若者らしい凛々しい眉を眉間に寄せ、恐る恐る私に聞いてきた。「ありがとうね、でも、私はどうしてもシェフにお会いしたいの。早く呼んできてくださらないかしら?幸いにもこのカフェにお客は私1人。お忙しいと言うことはないと思いますし」私の言葉の端々には苛立ちが滲んでいた。しかし、なだめることは叶わず何の非のない彼に浴びせてしまった。
 
 「大変お待たせ致しました」「あら、随分若い方なのですね」厨房へ彼が姿を消してから間もなくして、先ほどの男性スタッフより若いと思われる女性が、私のテーブルの向かいに立ち声をかけた。「対応が遅くなり申し訳ありませんでした。本日、こちらのカフェのオーナーシェフはお休みをいただいており、お客さまが召し上がったサラダを提供したのは私となります」「そうだったの、だからかしらね……」私は素直な感想を、目の前の女性に伝えるか迷い言葉を詰まらせた。
 
 「なにか不手際がありましたでしょうか?」沈黙に耐えきれなかったのか、女性が神妙な顔つきで質問してきた。その質問に私は答えず彼女の目をじっと見つめた。(この子のためにも話すべきだろうか、それとも今日のところはこの感情を胸にしまい大人しく帰るのが正解だろうか……)私の考えはなかなかまとまらなかった。私の一言で彼女の人生を変えてしまうかもしれない。そんな感情が行うべき判断を迷わせた。
 
 「このサラダなんだけど、気を悪くしないで聞いてくださる?」私は微笑みを絶やさぬように努め、意を決し話しはじめた。
 
 「メニュー表には〝シェフの気まぐれサラダ〟という名目で載っているのだけど、このサラダは絶品だったわ。その日の気まぐれで作るのではなく、固定のメニューにするべきよ。でも、あなたはここのオーナーシェフじゃないのよね?もし、レシピをオーナーシェフに教えるのが嫌なら、今すぐここを辞めるべきね」私は言葉の最後に八重歯を覗かせた微笑みを添えた。彼女はきっと将来素晴らしいシェフになる。気まぐれで作れるサラダが絶品レベルであり、なんとエプロンに留められたネームクリップには〝研修中〟と書いてあるのだから。
 
 

短編小説「仕事」


 

 (仕事なんて大嫌いだ)私はタクシーの後部座席に座り、手帳を確認しながら心底そんなことを考えていた。つい最近まで就労をしていなかった私にとって、仕事のための移動というのはいつまで経っても慣れることはなく、大変心苦しいものであった。
 
 大学卒業後すぐに就職しなかったのは、家族の帰るべき家の快適性の維持に費やしたかったからである。しかし、そんな家族思いの私を両親はあろうことか実家から昨年の夏の終わりに追い出した。理由は両親が兄夫婦との同居を決めたためである。
 
 あの日、内服薬を貰いに通院している病院から帰宅した父は、私の自室の扉を勢いよくノックした。私は軽く返事をし、相手が父であることが分かると快く部屋へ招き入れた。そして父は部屋に入って早々、「前からお母さんを交えて話し合ってきたことなんだけど、裕太ゆうたの夫婦とこれから一緒にこの家で住もうと思うんだ。お父さんはもういい年だからね」と淡々と告げたのだ。その言葉が意味する内容はあまりにも冷たく、実の娘に対し話すべき言葉では決してなかった。その父の言葉を聞いた私はというと、身動きが出来ず一言も発することができなかった。
 
 私が大学卒業をしてからの夏は、自室のクーラーを全力で働かせ、冬用の毛布にくるまりながら部屋のテレビを見る業務に従事していることが多く、その時も毛布にくるまりながらベッドに横になっていた。私の背中に鳥肌が立っていたが、クーラーのせいではないのは間違いなかった。その鳥肌を右手で掻くことで、漸く体全体を動かすことができた。ゆっくりではあるが体から毛布をはがしベッドの上で姿勢を正した。その姿はパジャマに正座という、今思えばなんともおかしな組み合わせであった。
 
 「お父さん、兄さん達と一緒に住むのは私も大賛成だよ。でも、だからってなんで私は家を出ないといけないの?」私は素直な意見を父にぶつけた。兄夫婦と私は一緒に映画に行ったこともある。2人の結婚式にも参加したし、仲は悪くない。そんな私をまるで邪魔者みたいに追い出す、その意味を知りたかった。
 
 「はな、お父さんだって、こんな事はしたくない。でもわかってくれ」父の答えは俺私が想像していたよりも短く、簡潔であった。それ故、私の心を深く傷つけた。「私がこの数年間、家に居たのは何のためだと思うの?大好きなお父さんとお母さんのためだよ。押入れから毎朝毎晩2人の布団の出し入れをしているのは私だよ?お母さんと買出しに行って籠を持つのも私だよ?お父さんができなくなったこと私がお母さんにしてあげたいんだよ!」私は2人にいつも抱いていた感情を乱暴に父にぶつけた。その途中、頬をつたう涙のせいで少しばかりの嗚咽が混じってしまっていた。
 
 「もちろんお前には大変感謝している、それにお父さんだってこんな別れは辛い。でも、お前は若いじゃないか。実家でくすぶってばかりいてはいけない。お前にはお前の未来のために残りの人生を生きてほしい」父はそういうと、ベッドに腰掛け私の左隣に座った。そして遥か昔によくしてくれた抱擁と、右手で頭を優しく撫でてくれた。
 
 父の懐かしさと安心感を与えてくれるその行動により、私の嗚咽は次第に落ち着いていった。そして父はさらに私を元気付けるための頭を撫でてくれた。
 
 「お前はまだ30歳だ。兄夫婦や私たちの事はあまり気にしないで、その歳まで学んできた事を世のために使いなさい」父の言葉にはある種の覚悟が感じられた。辞世の句、いや今生の別れを想起してしまった言葉に私は押し黙り、父の胸に顔を埋め静かに泣いた。
 
 ————「高速を使ったから、長距離値引きするね」私はタクシーの運転手に提示された金額を払い、領収書をもらい短いお礼の言葉を伝えタクシーを降りた。「今日の仕事はここか」私が呟きながら目を向けた場所は、広大な敷地を有する農研機構である。私が今いる職員駐車場と言われる場所から見える、白い3階建ての建物が本日の仕事場である。私が昨年の初秋に選んだ職種はこういった出張が時々ある。しかし殆どは実家近くのアパートで行うこともできる。
 
 「父の言葉通り、私の蓄えた知識をこうやって世のために使うんだからこれ以上の贅沢はできないよね……。仕事は嫌いだけど、〝魔女かり〟の様な害虫駆除の研究なら私は昔から大好きだし」私の呟いた独り言は、宣誓みたいなものである。好きなことを全うするための宣誓だ。赤色のLEDを使い、アザミウマの防除の確立を目指す研究なんて、天国のおばあちゃんが聞いたらどんな表情をするだろうか。おばあちゃんの反応を想像し、母親ゆずりの八重歯を少し口元からのぞかせる微笑みを持って私は歩き出した。
 
 
  
 

エピローグ 短編小説【老夫婦】下


 
 
 「ああ、なるほど。確かに世間的にはモラハラですね、ならゆきさんは私からその言葉を言われるのは嫌——」「いいえ、勿論うれしいわ」雪は夫のしょうからの質問が言い終わる前に答えた。夫から言われる〝老けたね〟という言葉は妻にとって何年も待ち望んだ未来を言い表すピッタリの言葉だった。
 
 中学生のころから憧れだった夫。字がきれいで、誰にでも腰が低い。黒板へ文字式による計算を書いた後、チョークが付いたままの指で後ろ髪をさわり、フケをつけているような姿で廊下を歩いていたこともあった。
 
 結婚してからの生活は、年齢差なんて気にしなかったと言えば噓になる。雪は尚と共に道を歩いても恥ずかしくないようにと、大人びた服装をよく選んだ。月日を重ね、年月を待ちわびた。少しでも早く夫の隣を歩いても恥ずかしくない姿になりたかった。そして——
 
 「貴方はいつまでも若いわ」もうチョークで髪を白くしても気付かれない夫を、優しく見つめ雪が言った。
 
 「君は老けましたね」尚は雪が喜ぶと知っていて思ってもいない嘘を、今日もまた気恥ずかしそうに答えた。昔の教え子の考えていることなんて、尚には手に取るようにわかった。
 
 
 


 

結びの短編小説「財産」


 
 私は医者から余命宣告をされ、病室に入院してから影のように離れることのない距離に死を感じるようになった。日に日に身体はやせ衰え私と機械を繋ぐ管の数が多くなり、死への恐怖が粉雪のように少しずつ積み重なってきた。どうしても死にたくない。明日も生きていたい。理由は簡単である。死地への旅路には私の財産を持ってはいけないからだ。
 
 私の財産は生まれた時からあったものでは勿論ない。人生の途中から手に入れたものだ。だからこそ人生にとってその財産の大切さもよく理解している。来世、もしもう一度人に生れ落ちることができたとしても、財産のない生活だったらと考えるだけで心が身体より先に枯れてしまいそうな錯覚に陥る。財産が私の人生を豊かにしたのは間違いない。学や容姿といった部分で私を優良か測定すると、かなりの不良品だろう。しかし私には身に余る財産があった、その一点の後押しのおかげで私は優れた人間であると自信をもっていえることができる。
 
 これは財産がある人間しかわからないことだが、一般的に財産を持ってからの記憶は色艶が増している。はるか昔、財産を持たなかった頃を思い返すと、(ああ、確かにこんな風だったな) と古い雑誌の切り抜きを見ているかのように感じる。どこか他人事であり、映画の人物の回想を見ている感覚に近い。しかし財産ができてからの記憶は生けすに飼っている魚のように鮮度が落ちることは決してない。
 
 病室で横たわり、骨と少しばかりの肉だけになった身体は楽しいといえば噓になる。しかし、財産があった記憶を思い返すと笑顔がこぼれ、迎えることの叶わない未来の動向まで思いを馳せてしまう。財産があるからこそ実りある人生を送ることができた。そのような思い出が私を病魔と戦う戦場へ焚きつける。そして財産があるからこそ死ねないと再確認するのだ。
 
 
 ————夫が今晩峠であるとの連絡が入り急ぎタクシーに乗り込み、病院に駆けこんだ。玄関から病室までの道のりは長く、右手に持つロフトトランドクラッチ型の杖が今ほど憎らしく感じたことはなかった。病室の扉を開けると、ベッドに横たわる夫は私が部屋に入ってきたことに気付いたようで、首を少しドアのほうにむけると目じりに皺を寄せ、乾いた唇を微かに動かした。 
 
 私は急いで夫のベッドに近寄り、唇の近くに耳を寄せた。夫はゆっくりと、しかしどうしても伝えるという強い意志を感じる声で話してくれた。「ゆきさん……、君というかけがえのない財産を……一人置いて逝くのが……とても悔しい」
 
 その言葉を聞き、私は床に膝を付けるとベッドの中にある夫の左手を両の手で優しく握った。夫が薬指にはめている指輪がやけに大きく感じる。「馬鹿な事言わないでよ。これから財産の無くなってしまう私よりはマシじゃない」
 
 私の言葉を聞き終え、私のかけがえのない財産は笑顔で旅立って逝った。
 


よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは創作費として新しいパソコン購入に充てさせていただきます…。すみません。