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毒の行動心理─負の原動力─

 光陰矢の如し、気が付けば二月を迎えていました。
 今回は主に私の毒祖母を例に挙げながら、毒親や毒家族の行動原理について考察します。


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社会的役割と存在意義への執着

『ようやく毒から逃げまして③』で述べたように、うちの毒祖母は社会的役割や肩書に強い執着を持っていました。 その最たるものは、"子供と孫に恵まれて持ち家があり家事炊事も完璧にこなしながらサークル活動も充実している未亡人"であり、それこそが毒祖母を形容するすべてでした。

 毒祖母のように社会的役割や肩書に固執する人間は、それを失いまいと行動するため一見勤勉で善良に思えますが、ありのままの自分を愛せず自己愛を拗らせています。
 毒祖母の存在意義を構成する要素を整理すると、

①家事炊事を完璧にこなす
②子供、孫に恵まれている
③サークル活動が充実している
④持ち家がある
⑤未亡人

となります。これらが徐々に崩れていったとき、毒祖母はどうなっていったのでしょうか。

 まず、加齢によって「①家事炊事を完璧にこなす」が抜け落ちました。以前ならば手際良くこなせていたのに、数年前ならば献立もすぐに思いついたのに、と自己愛を拗らせた人間は自分の老いや退化を受け容れることができません。
 あれだけ充実していた(と本人は思い込んでいた)サークルでは、役職を罷免させられて居場所がなくなりました。子供と孫に恵まれて幸せだった(これも思い込みですが)のに私たちとは喧騒が絶えず、遂には離別に至りました。こうして「②子供、孫に恵まれている」と「③サークル活動が充実している」を相次いで失いました。
 最後まで残ったのは、「④持ち家がある」と「⑤未亡人」ですが、その家もとうに古びて傷み切っているのが現状です。

 私の母いわく、毒祖母は家を持つことに大変執着したそうです。自分の家を持つことは確かに素晴らしいですが、最も大切なのは家を持つことよりもその家で家族とどんな風に過ごし、いかに信頼関係を築くかです。家屋は雨風は防いでくれますが、励ましたり労ったりはしてくれませんから。 あれほど「私のものだ」と言い張ったあの家で、"子供と孫に見放されて古びた持ち家でただ死を待つだけの未亡人の老婆"となった毒祖母は何を思うのか。今の私に解ることは、その胸の内が不毛地帯のごとく枯れ果てていることだけです。


負の原動力とは

 なぜ毒祖母はあれほどまでに社会的役割や肩書に固執したのでしょうか。
 毒祖母は幼少期に無条件の愛情や人の優しさに触れられず、自己顕示欲と自己承認欲求が肥大化したと予測できます。家の仕事をする代わりに継母の家に置いてもらえたと話していたことから条件付きの愛情しか知り得なかったのでしょう。(詳細は『ようやく毒から逃げまして⑥』をご覧ください)
 
 ありのままの自分を愛せないゆえに、他人からの評価に依存した毒祖母は他人に馬鹿にされたくないという思いを抱えていたことは想像に容易いです。その鬱屈した心情は、相手にマウントを取りたい、他人からチヤホヤされたい、誰よりも目立ちたいというこれまた歪んだ思いを作り出しました。
 祖父と結婚したのも出産したのも子供の世話を蔑ろにしてまで家を買ったのも孫である姉や私の世話をしたのもサークルに参加したのも、そんな下らなく虚しい理由からだったのです。他者を愛す、他者と絆を深める、他者のために尽くす概念は毒祖母の脳内には一切存在しません。

 馬鹿にされたくない、楽して相手にマウントを取りたい、楽してチヤホヤされたい、楽して目立ちたいといった類を"負の原動力"と定義すると、それは幼少期から思春期の子供が抱くものに通じます。

 こんな絵を描いたの、ママ見てよ。
 私ってすごくない? すごいよね?
 僕が一番、僕が最初じゃなきゃヤダ!

 幼い子供が無邪気に言うのならばそれは成長過程であり健全な行動ですが、ある程度年齢を重ねた成年が同等のことをしたらどうでしょう。

子供染みてるなぁ。
あの人ってなんか面倒くさいね。
あいつはかまってちゃんだよ。

 といった具合に、たちまち目の上のたん瘤扱いされます。負の原動力によって行動しても得るものはなく、徒に時間は過ぎていきます。つまり自己愛を拗らせた人間は、精神が子供のまま止まっているとも言えます。

 負の原動力と対極をなす正の原動力は、心の底から溢れる情熱、強い向上心、習慣する努力によって成立します。負の原動力を以てしていくら行動したところで、正の原動力による努力の結晶に勝てるはずがありません。何よりも自分以外の他者のために尽くすという徳の高い行動は、正の原動力によって成し得ることです。
 負の原動力しか持たない人間は誰かのために努力することなどできませんし、それの連続である他者との健全な共同生活ひいては結婚、子育てなど到底不可能です。同様に他者との共同作業とその継続、組織や人材の管理、経営、運用も困難を極めます。

負の原動力による行動─毒祖母の事例から─

・身の程も弁えずに他人と張り合う
 毒祖母が参加していたサークルに素晴らしい学歴と職歴、豊かな教養を持ち合わせたAさんがいましたが、毒祖母は彼女のことを羨むと同時に妬んでいました。毒祖母はただただ目立ちたい、チヤホヤされたい一心からサークルに参加していましたが、向上心がないためスキルは上達しませんでした。そこで役職を持つことで少しでも地位を向上させようとしましたが、最後はその役職も失いました。一方Aさんは純粋にサークル活動を愛しており、その人望から自然と役員に選出されました。これが負の原動力と正の原動力の歴然とした差です。

・ネームバリューや肩書を過信する
 毒祖母は以前某大手企業系列の飲食系の職に就いていました。それでも彼女はまったくの嘘ではないが誤解を招くような言い方を繰り返しました。実情を知らない人ならば大手企業の名前を聞けば、社交辞令の一つや二つくらい返してくれますからね。毒祖母は自分を肯定してさえくれれば、お世辞でも社交辞令でも嘘でも何でも構わないのです。

他にも
・他人を下げて自分を上げようとする(悪口や粗探しばかりする)
・作話や嘘を厭わない
・他人の話や成果を盗む(盗作、盗用、剽窃、トレパク=トレースしてパクる、パクツイ=ツイートをパクる)
・他者への配慮や配慮に基づいた創意工夫が皆無

といった行動が挙げられます。

負の原動力の果てには

 負の原動力しか持たない人間には、向上心が皆無なので必ずどこかで頭打ちになります。しかしひとたび負の原動力が稼働してしまうと止めることは難く、常に馬鹿にされたくない、目立ちたい、チヤホヤされたいという欲がついて回ります。
 一方で正の原動力で行動している人間は強い向上心によって努力を継続できますので、その差は時間の経過ともに広がっていくばかりです。
  人はある程度の年齢と正の原動力に基づく努力を重ねていくと、強固な"軸"ができあがります。その軸さえあれば他人の評価など気にならないし、逆に目立つことで生じるリスクを恐れるようになります。 やがて老齢の自分は立場を退いてより若い世代に席を譲ろうと思えるのは、心身ともに成長した大人にのみ許された行為なのです。

 繰り返しになりますが、負の原動力は一度動き出すと原子力発電のごとく簡単に止めることはできません。毒祖母は散々毒をまき散らした末に、寂れた環境で無為な日々を過ごすのみとなりました。まるで自分自身がメルトダウンしてしまったかのように。
 
 障害や生きづらさを抱えていてもパートナーや周囲に恵まれれば、負の原動力を捨て去って正の原動力を手に入れることもできたはずです。残念なことに毒祖母にはそのような機会がなかった、あるいはその貴重な機会を彼女自身が無碍にしたのかもしれません。
 
 すべては毒祖母の自業自得であり、同情の余地は一切ないと私は思います。

 誰しも幼い頃は負の原動力を持っていますが、心身の成長とともにそれを正の原動力へ変えていきます。それこそがまさに大人への成長過程であり、その後は大人としての振る舞いができるようになります。

 自己愛を拗らせた人間は、今日も周囲に毒を散布しては平然としています。それが原因で大切なものを失うことになると一切疑うことなく。その果てには、孤独な最期のみが待っていることも知らずに。


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 今回も拙文をご覧いただきありがとうございました。

 次回は作品の感想文か毒親考察を予定しています。


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