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毒育ちが考える「家に居たくない」という感情

(画像はいらすとや様よりお借りしました)

 気がつけば2022年の1月も半分を過ぎてしまいました。大変遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。本年も小生の拙文にお付き合いいただけましたらと幸いです。今年こそ毒祖母の死によって喪中の身になっていたいと願うばかりです。

 さて、皆様は年末年始いかがお過ごしでしたでしょうか。私は各行事の料理を適当に作って大掃除も適当に済ませまして、空いた時間にはNetflixで『イカゲーム』を一気見、ドラマ『最愛』をもう一周、ほかにも録画していた映画や積読していた本などを堪能しました。インドア万歳な家大好き人間としてはそれはそれは至福の時間でした、はい。
 
 ただこんな風に自由気ままに年末年始を過ごせたのも毒祖母と別居してからの話。

 野菜炒め定食に添えられた申し訳程度のクリスマスケーキ、無駄に多い年越しそば、三が日が過ぎても残るお節料理……あ、残ったらすべて廃棄ですよ、廃棄。

 お節料理に手を付けなかった姉や私に恨み節を呟きながら当てつけのように捨てるんですわ。その時の顔と言ったらこの世のもんとは思えんでしたよ。

 前置きが長くなりましたが、当時の姉や私が自宅ではない場所で年末年始を過ごしていたのは紛れもなく「家に居たくない」という感情からですよ。もし今もなお毒祖母と同居していて、この「家に居たくない」という感情に悩まされていたら今頃どうなっていたのか……今回はその感情について深く考えてみました。

なぜ「家に居たくない」のか

1)毒親/毒家族と同居しているケース

 毒親や毒家族と同居していれば、家の居心地が悪いのは当たり前。その原因としては、暴言やモラハラが酷い、家が乱雑で汚い、食事が美味しくない、過干渉/過保護である、プライバシーが皆無、家族間の争いが絶えない、などが挙げられる。我が家は複数個該当したが、もし原因が一つだったとしても「家に居たくない」と感じてしまうこともあるだろう。

 その典型が食事が美味しくない、俗に言う「メシマズ」と呼ばれる現象である。我が家の場合はこの「メシマズ」現象こそほとんど無かったが、冒頭で述べたような食事に関する嫌な思い出は後を絶たない。決して食事自体は不味くはない、むしろ美味しい方なのだが、それに伴うはずの感謝の気持ちや思い出というものが今となってはほとんど消え失せている。仮にいくら衣食住が立派だったとしても先に上げたような“負の事象”が頻発すれば、「家に居たくない」と感じるのは必然である。

 詰まるところ衣食住を含めて、家の居心地の良さを保障できない親や家族は毒親/毒家族だと言っても過言ではないと私は思う。そして子供や家族が「家に居たくない」と感じてしまった時点で、そこには信頼もクソも無いのである。

 

2)本人の自己愛が強いケース

 与太話の一つとして聞いてほしいのだが、以前友人が「やたら会社に早く出社するオジサン社員」(以下早出オジサン)について愚痴をこぼしていた。私が「仕事熱心なだけじゃないの?」と問えば、友人は「とんでもない!」と顔をしかめるや否や「誰よりも一番早く来てデスクで朝ご飯食べてビルのトイレで洗顔、歯磨き、髭剃りまで済ませて始業までは呑気にコーヒー片手に新聞か雑誌を読んでるんだよ!?」と一気にまくし立てた。そして「仕事は遅い上に無駄に残業までしてるし」と最後を締めくくった。

 別の与太話だが、私は以前にこんなツイートをした。

 確かに今振り返ると、学生時代のアルバイト先でもこのようなおしゃべりオバサンは多数存在したし、今の職場でも数名ほど心当たりがある。以前noteで記した発達障害の傾向があったと思われるPさんも「家に居たくない」という感情を抱いていたのかもしれない。

 確かに早出オジサンにしてもおしゃべりオバサンにしても多大なる迷惑をかけている訳ではない。ただ彼ら彼女らの共通点とは、大なり小なり「家に居たくない」という感情を持っている(いた)ことではなかろうか。

 その原因としては、例えば同居人との仲が険悪である、家の居心地の良さを感じらない、一人暮らしの孤独感に耐えられない、といったところか。あるいは「早出して評価を上げたい」「とにかく家族以外の誰かと話がしたい」といった“下心”もあったのかもしれない。いずれも私のクダラナイ妄想に過ぎないが、少なくとも「家に居たくない」という感情が職場や社会においてヘイトを集めてしまう原因の一端を担う可能性は確かに存在するということだ。

 

孤独に耐えられない人々

 孤独であることは別に悪いことではない、と私は常日頃から感じている。そのような環境や時間だからこそ楽しめること、発見できることが必ずあるからだ。ちなみにこの孤独とは何も独身・単身世帯に限ったことではない。同居人が居てもあまり会話を交わさない家庭や育児などで社会的に孤立しているという状況もある意味孤独に該当する。

 ただ孤独な環境を心から謳歌できるのは、「いざという時に頼れる相手が居て一人でも衣食住や趣味を楽しめる」という前提があってのことかもしれない。さらに踏み込めば、一人でも何でも楽しめる人は孤独ではなく「孤高」と表せ、一人では何も楽しめない人はどこまでも孤独のままとも言える。

 このひとりでいられる能力が欠落している人の多くは、比較的自己愛が強いと私は認識している。その自己愛の強さから本当は家族、恋人、友人といった他者と時間を共にしたいのにもかかわらず、やたら“大げさに強がる”傾向にある。しかしその実は寂しくて寂しくてたまらなくて、その孤独感をどうにか他人で埋めようとする。それが依存やマウント、誇大妄想、ハラスメント、周囲からのヘイト感情といったものを引き起こすのである。そう、先ほど述べた早出オジサンやおしゃべりオバサンたちのように。

 かくいう私の毒祖母も典型的なおしゃべりオバサンの一人である。おそらく彼女も「とにかく家族以外の誰かと話したい≒家に居たくない」という下心からサークル活動(昔なら仕事)に赴いていた。やがてその下心が仇となってサークル活動でトラブルを起こすようになった上に、家庭内でも母、姉、私と折り合いが悪くなる一方だった。ここ数年の毒祖母は口でこそやたらと充足アピールをすれど、その内心は強い孤独感に苛まれていたはずだ。

 

「家に居たくない」という感情の最果て

 現実、インターネット上問わず私が個人的に“毒祖母と同列だと捉えている人々”は、遅かれ早かれ毒祖母のように周囲から見捨てられて孤独に苛まれる運命なのかもしれない。そのような不穏な未来が待ち受けているとも知らずに、孤独をこの世で一番恐れているくせに、なぜ彼らは今日も今日とて傲慢かつ自己中心的な言動を繰り返すのだろうか。

 何よりも「家に居たくない」からと言って、SNSや信頼関係の無い人間に対して何かを求めたところで何も得られないし満たされるはずがないと私は思うのだ。万一満たされたとしても、それは刹那的なものに過ぎない。だから彼らはますます縁もゆかりも無いような他者にのめり込んでいく。少しでも孤独を忘れるために、である。

 現実問題として孤独から逃れるには、段階的に誰かとそれに値する信頼関係を築くか、「家の居心地が良い」という感情を身に着けるために工夫するほかない。要は単身世帯だろうと、誰かと同居していようが、黙って淡々と自分自身の生活を営むしかないんじゃなかろうか。

 冒頭でも述べたが、インドア万歳家大好き人間な私からすると、早出オジサンやおしゃべりオバサン、そして毒祖母が抱いていた心情を今一つ理解することができない。もしかすると、彼らって家で楽しめる趣味や嗜好がないのかな……?(すっとぼけ)


「家に居たくない」という感情の最果ては、私の毒祖母のように徐々に居場所を失うことだ。居場所を失えば、また別のコミュニティへ……といったように彼らは浮遊し続ける。それで満たされれば構わないが、年老いた時にどうなるのかは若輩者の私でも容易に想像できる。もっとも自分自身も含めて家族が「家に居たい」と思えるような家庭を築けない人間が、他人との信頼関係を確立できるとは到底思えないのだが。


 毒祖母が長い長い人生の中で知りえなかった「家の居心地、最高!」という感情を、私は今思う存分味わっている。この良さが分からないなんて、ほんま可哀そうやなと思いながら(まあすべては毒祖母の自業自得であるが)

 そして毒祖母がもっとも恐れているはずの孤独感を骨の髄の髄まで味わいながら、長らく「居たくない」と感じていた自宅で息を引き取ってほしいと願って止まない。あ、自宅だと色々面倒くさいからやっぱり入院した直後に死んでほしいかも(笑)




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