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分別奮闘記

僕は定期券を買わずに通勤することがよくある。

定期券売り場は通勤圏内から外れた大きな駅にしかないことが多く、わざわざそれを目的にしなければ行く機会がない。そして、たまたま通りがかったときも2〜3人も並んでいれば「また今度でいいか‥」と後回しにしてしまう。

結果2〜3ヶ月は定期なしで週5日通勤するようなこともザラにある。それでどれくらい損しているのか、いちいち計算してはいないけれども、恐らく数千円〜数万円にはなるはずだ。

ちょっとやる気を出せば数千円〜数万円は無駄にならないわけだが、その「ちょっと」が億劫になる。

さて、このようなことを人に話せば真っ先に「もったいない」というご指摘をいただくことになるが、僕は別にもったいないとは思わない。なぜなら、僕はお金にそこまで本気になれないからだ。

そんなことより、僕がもったいないと感じることがある。それはゴミである。ゴミとは文字通りのゴミであり、無駄である。燃やして埋め立てるだなんて、あまりにも人類社会として勿体無いし、非効率すぎると思わないだろうか?

だから僕は究極的にはゴミゼロの生活をしたいと思っている。そのための第一歩として間違いなく有効なのは生ゴミの堆肥化である。

僕は基本的に野菜や果物の皮やヘタ、卵の殻などの生ゴミは捨てずに土と混ぜ込み、発酵させてから堆肥にする。ほんの少しの手間をかけるだけで燃やされるだけのゴミが新たな命の源になるのだ。やらない手はない。

こうしておけば家庭菜園をする際に新たに土や肥料を買う必要がなくなる。自作の堆肥で育てれば野菜はぐんぐん育つ。それに栄養満点の土で育った野菜はファイトケミカルと呼ばれる虫が消化しづらい複雑な成分をたくさん含むので、虫食いが少ない傾向にある。美味しい野菜だから虫に食われるという一般論が間違っていることは、少し野菜を育ててみれば即座に理解できる。

(本当のところを言えばウンコも堆肥化したい。だがまだコンポストトイレを設置するには至っていないし、妻の了承も得ていない。)

生ゴミを堆肥化すると、次はプラスチックゴミが気になってくる。プラスチックゴミは自宅でリサイクルすることも可能で、プレシャスプラスチックという団体が、その方法を公開しているわけだが、まだ僕は自宅に設備を備えるまでには至っていない。

そのため、とりあえず分別してプラスチックゴミを出し、自治体を頼ることになるわけだが、自治体(というか日本)のプラスチックリサイクル体制ははかなり杜撰であることに僕は憤っている。

日本はプラスチックリサイクル率85%という数字を掲げて鼻高々であるが、そのうち60%がサーマルリサイクルと呼ばれる方法で、要するに燃やしてその熱で発電する熱回収というやり方だ。

これはどう考えてもリサイクルしていない。事実他国ではリサイクルとしてはみなされていない。そんな手法を、日本はリサイクルと言い張るという統計マジックを使用しているわけだ。

とはいえ、これもある程度は仕方のない部分はある。プラスチックは基本的に複数種類を混ぜるとリサイクルできないし、異物が入っていた場合は純度が落ちる。

リサイクルされている残りの25%は恐らくペットボトルや塩化ビニル(ダクトや床材に使われるケースが多い)などだろうが、これらは比較的分別や洗浄がやりやすい。しかし、その他の雑多なプラスチック類(ポリプロピレンやポリスチレン、高密度ポリエチレン、低密度ポリエチレンなど)は、どの種類のプラスチックが使われているのかの表示がなく、分別はほぼ不可能だ。仮にするとしても、人件費がかかりすぎる。

(日本では、表示が義務付けられているのは、ペットボトルの原料であるポリエチレンテレフタラートのみである。他のプラスチックの場合、単に「プラ」と書いているだけで判別不能である。)

そのため僕はプラごみをあまり出したくはない。とはいえ、燃えるゴミに出して焼却処分されるくらいなら、サーマルリサイクルの方がまだマシであるという理由で、せっせとプラごみを分別している。

だが、やはり日本の産業界や政府はこの状況に手をこまねいて見ているのに納得できない。まず、ポリエチレンテレフタラート以外のプラスチックの種類も表示を義務付けるべきだろうし、各自治体は種類別のリサイクル施設を整えるべきだろう。SDGsがどうのこうのと口うるさく言うくらいなら。

そして、そもそも論だが、日本はプラスチックを使い過ぎている。その原因の1つは過剰包装だろう。野菜なんて裸で売ればいいし、お菓子も大袋で売ればいい。これは市場というメカニズムの致命的な欠陥だ。確かに顧客は個包装された商品を選ぶ傾向にある。安いプラスチックで包むだけで市場で生き残る可能性が高まるのなら、誰しもそうする。

また、過剰包装の役割は輸送時のダメージを抑えることもあるわけだが、そうなると解決策は地産地消である。グローバル資本主義の悪いところは、食材の保存のための冷凍や乾燥、加工、密封という手間が余計にかかり、そのくせ不味くなるし、人の手が何倍もかかるし石油も燃える。地産地消はあらゆる問題の解決策になりうる。採れたて野菜を食べるとき、プラスチックで包装してほしいなどと文句を言う人はいない。

とは言え市場は、石油を燃やし、地球の裏側にいる奴隷同然の人々をこき使うように企業に発破をかける。困った、困った。利潤追求動機による競争が悪い結果を及ぼす。資本主義ではよくある話だ。

話が逸れた。ゴミの話であった。

プラスチックの次に目立つのは紙ごみである。生ゴミを堆肥化していると、もはや燃えるゴミよりも紙ごみの方がたくさん出るんじゃないかと感じるレベルだ。

チラシや雑誌、新聞だけではなく、食品や衛生用品などの箱、ティッシュの箱、トイレットペーパーやキッチンペーパーの芯など、思っているより紙の消費量は多い。

日本の紙ごみのリサイクル率は80%らしい。だが、これは絶対になんらかの統計マジックを使っているはずだ。嘘に決まっている。みんなマーガリンの箱とか、ピノの箱とか、普通ゴミで捨てているのではないだろうか?

さて、紙ごみとプラごみをきちんと分別し、生ゴミの大半を堆肥化すれば、普通ゴミの9割はティッシュと紙おむつである。

ティッシュは工夫すれば使用量を減らせるはずだし、紙おむつは布おむつという手もあるが、そもそも子どもが大きくなれば使わない。

※一応、紙おむつのリサイクル技術自体はあるらしいがほぼ普及していない。

つまり、プラごみと紙ごみを完全にリサイクルできる能力を自治体が備えてくれれば、生ゴミを堆肥化し、コンポストトイレを備えるだけで、ほとんどゴミゼロの暮らしが可能になる。

なんと効率的で無駄のない暮らしだろうか。

ついでに完成した堆肥を家庭菜園に使えば食糧自給率も上がり、生産や梱包、輸送の無駄も削減される。日当たりが悪い家でも、野菜が育てられる押し入れ農園というスタイルを採用し、その電力を太陽光で賄えば、さらに効率は高まる。

あとはこれでヴィーガンになれば、家庭菜園と生ゴミ&ウンコ堆肥の無限ループを成立させることができる。それはほぼ太陽光を食って生活するようなものだろう。

現代人は石油を食って生きている。1キロカロリーの飯を食うのに10キロカロリーの石油を燃やしているからだ。もちろん、そこに至るまでに地球の裏側から作物や肥料、農薬を運んできているわけで、膨大な無駄が生じている。しかも食べ残したり、捨てたりする。世界はゴミだらけになる。

僕が定期券を買わないことに対して「いや勿体無いやろ!」とツッコミを入れた人は、それとは比べ物にならないほどの大規模な「勿体無い」がこの世界を覆い尽くしていることにツッコミを入れようとしない。これは明らかに倒錯している。金など所詮は幻想に過ぎないわけだが、僕が問題視しているのは現実の資源であり、現実の労力なのだ。

堆肥作りは歯磨きみたいなもので、小さい頃から練習すれば誰でもできるし、習慣化すればめんどくさいとも思わない。むしろ歯磨きをしないと気持ち悪いと感じるような感覚で、生ゴミを捨てると気持ち悪いのだ。ゴミの分別も同様だ。

つまり教育でなんとかなるレベルである。ところが学校や親たちはSDGsがどうのこうのというクセにそういうことは教えようともせずに、プログラミングだとか、英語だとか、投資だとか、役に立たなさそうなことを教えている。僕からすれば定期代が勿体無いと言ってタクシーに乗っているようにしか見えない。

正直なところ、僕は環境保護にさほど関心があるわけではない。別にどんな環境でも人は生きていけると思っている。ただ、自分が非効率なことをやっていると感じながら生きていくのは耐え難いし、年老いた自分や子どもたちには、生命の枯れた砂漠よりも豊かな森を残したい。この感覚は何もおかしなモノではないはずだ。

石油をドバドバ使ったらその分だけ僕たちが幸福になるのであれば、喜んで石油を燃やそう。でも実際はそうならないどころか、恐らく逆である。

あぁ、この社会は効率が悪い。そんな風にブツクサと文句を言いながら、僕は今日もゴミを分別するのだ。

僕が少し変わった人物に見えるかもしれないが、そんなことはない。僕は分別をわきまえた、普通の人間である。ただ、社会の方が狂っているだけだ。狂った社会に合わせていると、普通の人も狂ってしまう。僕はたまたま狂わなかっただけなのだ。

僕は普通に暮らしたい。ただそれだけなのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!