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翻訳ってむずいわ【雑記】

『労働廃絶論』の翻訳を一旦最後まで終わらせた。Discordのメンバーの方にチェックしてもらっているのだが、改めて客観的な目線で見てもらうと、僕の翻訳は粗削りであり、かつ、自己流が過ぎるのだとわかった。

そんなことを反省していると、そもそも翻訳とはなんなのかを考えさせられてしまう。

おそらく翻訳には大きく分けて2つの方向性がある。原文をできるだけ忠実に再現する原文派と、必ずしも原文にこだわらないアレンジ派である(当然のことながら、多くの翻訳者は両者の中間のどこかにいる)。

おそらく、原文派とアレンジ派の違いは、言葉に意図が表出されていると考えるか、言葉の裏に意図が存在すると考えるのかという点に集約されると思われる。

原文派は、次のように考える。著者は意図を概ね正確に表現するテキストを既に作成しているのだから、翻訳者はそのテキストを正確に邦訳することに徹すべきである(あるいはヴィトゲンシュタインよろしく、言葉の裏側の意図なるものは、それを書いた本人すら認識していない。つまり存在しないも同然である)と。もちろん、まるっきり辞書通りに訳すと不自然な日本語になるため、多少の意訳は必要なものの、それは最小限にとどめるべきだ。

一方でアレンジ派は次のように考える。著者の意図がまず存在していて、原文のテキストすら既にそれが翻訳されたものである。そもそもそれ自体が完全な翻訳であるとは限らないので、翻訳をさらにそのまま日本語翻訳するだけでは、作者の意図がさらに取りこぼされて劣化していく可能性が高い。そのため、翻訳者は、原文から作者の意図を推測し、それを直接邦訳することに努めるべきである。

もちろん、一長一短である。原文派は極端に的外れな翻訳が生じるリスクは減る一方で、日本語としての読みにくさが伴う可能性がある。対するアレンジ派は、日本語として完成度の高い文章に仕上がる可能性が高まるが、翻訳者の意図の推測が誤りであった場合、もはや翻訳とは呼べない別ものに仕上がってしまう。

ただし、どちらの場合でもまずは丹念に原文を読み解く作業は欠かせないだろう。著者はなにが言いたいのか? なぜこの単語を選んだのか? なぜこの構文を選んだのか? その意図を読み取ったうえで、ストレートに訳すのか、アレンジを挟むのかは好みが分かれるものの、まず読み解こうとする努力を怠ることは原書に対する冒とくになるだろう。一流の翻訳者はまずはそれをしたうえで、状況に合わせて2つの翻訳スタイルを行き来するはずだ。だから僕も、もう少し丹念に読み解く作業をやり直そうと思う。

とはいえ、僕がやりたいことはそもそもなんなのかを改めて考えなおす必要もある。要するにそれは超訳なのか、翻訳なのかという問題だ。僕は文化遺産を保存するために『労働廃絶論』を翻訳しているわけではない。『労働廃絶論』が夢見ていた労働なき世界を実現するための手段としてこの本を翻訳をしている。

もちろん『労働廃絶論』が分かりやすく翻訳されなければ話にならない。しかし、わかりやすく翻訳されたとしても、わかりにくいことは間違いないので、いずれにせよ解説文はつける予定だ。

となると、である。自分の解釈は解説で表現するなら、本文の方はできるだけ忠実に行った方がいい。自己流の解釈をふんだんに交えた超訳でいくなら、解説文と役割が被ってしまってクドクドしくなるだろう。

一方で、僕はボブ・ブラックの原文を超えたいとも思っている。『労働廃絶論』はもともと演説文だったし、さほど推敲されているようにも見えない。ブラックが自分の意図をドンピシャで表現しているようには感じない場面もあるのだ。だからこそ僕がその意図をドンピシャに日本語化し、ブラックに「そうそう、それが言いたかったんだよ!」と言わせたいのである。これは「翻訳」と呼べるのか、僕にはわからない。

どうなのだろうか。僕がやりたいのは翻訳なのか、それとも超訳なのか。誰か教えてくれないかい?

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!