音楽の楽しみ方を緑黄色社会から考える
人間は思春期に聞いていた音楽を永遠に擦り続けるという法則に抗って、最近は緑黄色社会にハマっている。
とは言え、緑黄色社会のことはこれまで全く知らなかったわけでもない。何度もテレビで見かけていた。しかし、その度に「ボーカル美人のくせになんでバンドなんかやってんねんやろ?」とか「お飾りの歌うま美人さんと、音楽マニアの男たちという男女混合にありがちな構成ね」とか「なんか毒にも薬にもならんバンドやなー」と斜に構えてテレビに毒を吐くというオッサンムーブを繰り返していて、ファンになるつもりはさらさらなかった。
ではなぜ今さらハマり出したのか? アニメの主題歌きっかけである。
毒にも薬にもならないバンドと思っていたら、毒っ気たっぷりの妖艶さを見せつけてくれて「お、ええ曲やん」となったわけだ。
そして気になったのでちょっくらリサーチしてみる。そういえば緑黄色社会って誰が作詞作曲してるんだろうか?
『花になって』の作曲を調べるとベースの穴見で、作詞はボーカルの長屋。じゃあ全部の楽曲が同じ布陣なのか?と思って調べるとそうではなく、メンバー4人全員が作曲に関わっていた。リード曲もそうでない曲も、割と満遍なく。
しかも『Mela!』や『キャラクター』といった代表曲をみてみると、作詞がボーカル長屋とギター小林、作曲がベース穴見とキーボードpeppeという珍しい布陣。このようにクレジットが連名の場合も混ざっている。
この時点で僕は「お飾りの歌うま美人さんと、音楽マニアの男たち」という先入観がどうにも間違っていることに気づいていた。となると次に気になるのはボーカル長屋のパーソナルな部分である。たまたま歌がうまくて美人だった彼女が大人たちにチヤホヤされながらボーカルに祭り上げられているのでなければ、彼女はなぜ音楽をやっているのか?
それを知るには長屋の作詞作曲の楽曲を聴くのが手っ取り早い。適当にこれを聴いてみる。
もしテレビから流れてきたのなら、シティポップブームに乗っかっただけのミーハー曲という印象を抱いただろう。しかし、この曲は歌詞を追いながら注意深く聴いてみると全く味わいがちがった。
この曲にはなんの解決も希望もなく、ただひたすらパーソナルな倦怠感を描きだしていて、結果としてそれが普遍的な時代の心理を象徴している。美しいレトリックで飾り立てないというレトリックで、ずはりとど真ん中を言い当てられるような感覚で、歌詞の通り「うざったくないように」なっている。
ふむ。長屋晴子、どうやらただの美人ではなさそうだ。なんだかよくわからないが、なんだかよくわからない内面世界が渦巻いた、一歩間違えればニートになり、一歩間違えれば芥川賞作家にでもなりそうな人物がたまたま音楽に救いを見出してバンドマンになった。そんな印象を抱く。
そう考えると、もしかすると長屋の美人というステータスは逆にマイナスに働いているような気がしてきた。美人は自動的に鼻につく。しかも長屋の場合、得しそうな美人というより、鼻につきそうな美人なのだ。恐らく私生活においてもマイナスの影響をかなり被ってきたのではないかと思う。
そして鼻につく美人が『Mela!』とか『キャラクター』みたいなキラキラした歌を歌っていれば、「あーはいはい世界は美しいよね、そりゃあお前みたいな美人の周りはそうだろうね」となるのが普通だ。
だが、実際はこれらの音楽は、ドロドロした内面世界から震える声で叫ばれた強がりだったのではないだろうか? 理解されず、孤独を感じて内面世界に引きこもっていた彼女が、それでも音楽とバンドという喜びに少しずつ薪をくべるように、メラメラと燃えたぎってきた情熱を、世界に向けて解き放ったのがこれらの楽曲だったのではないだろうか?
そう考えると、美人が歌った綺麗事ではなく、僕たちの心とリンクする応援歌になる。
さて、ここまでくるともう後戻りはできない。僕は緑黄色社会の曲を聴いてはWikipediaで調べてインタビューを読み漁る日々を送ることになった。なんとなくバンドメンバーのキャラクターも見えてきて、それぞれの楽曲の癖も把握してきた(ような気がする)。
潔癖症なミュージシャンはよく、音楽だけで評価してほしいなんてことを言う。実際ほとんどそんなケースはありえない。ライブにはMCがあり、音楽雑誌にはインタビューが載り、ラジオでは雑談をするのはなんのためか?
音楽には作り手のパーソナルな部分やビジュアル、バンドの歴史、あらゆる物語が折り重なっている。もちろんそうでない音楽の楽しみ方があっても良いし、実際にあるわけだが、だからと言って音楽以外の部分を含めて楽しむことは悪いことではない。
その点を全肯定したのがヒップホップだ。T-pabllowのラップは彼にしか歌えないし、彼のキャラクターを知らなければ意味がわからないが、それを楽しむことが文化として定着している。
本来、音楽っていうのはそれくらいのラフなものだったはずだ。誰にでも伝わる普遍的なポップソングっていうのも良いけれど、音楽の歴史は間違いなく友達同士しか意味がわからないような歌から始まったはずだ。それは別に否定する必要はない。
アーティストとはアイドルで、アイドルはアーティストなのだ。そしてアイドルもアーティストも友達みたいなものだ。「あー、あいつならこういうこと言いがちだよね」とかなんとか言いながらわかったつもりで酒を飲みながら音楽を楽しむのがいい。向こうはこっちを知らないのだけれど、こっちは知っているつもりでいい。どうせ素顔なんて自分でもわからない。
というわけで僕はもう気持ちは緑黄色社会の友達である。そしてファンでもある。
おまけ
思春期に聴いた音楽を永遠に擦り続けるのはなぜなのかを考えていた。
音楽というのは聴けば聴くほど好きになる。調べれば調べるほど好きになる。学生は放課後の無限とも思える時間になってなけなしの小遣いで買ったCDが擦れるまでループしていたわけだが、大人になればそんな時間はないし少ない休みはゴルフに行く。というわけで第一の理由は「音楽を聴く時間がないから」である。
第二の理由はトレンドがループしているからである。例えば以下の楽曲。
僕のような30代の男からすればチャットモンチーやSHISHAMOのジェネリック医薬品にしか見えない。だが、バンド冬の時代を経て、 NiziUとTWICEにそろそろ飽きてきて、かつチャットモンチーやSHISHAMOを通ってきていない中高生には新鮮に響くのだろう。
もちろん僕たちはしたり顔で「いやチャットモンチー聴けよ」などと言うのであるが、それはSnowManが好きな女子に「いやV6聴けよ」と言うようなものであり、あまり意味のない言説なのだ。
とは言え、トレンドは円ではなく螺旋を描く場合もある。過去のあれこれの要素を詰め込みながらも、オリジナル感がある音楽もこの世界にはたくさんある。米津玄師は最初はBUMP OF CHICKENという雨の後に現れた筍、つまり前髪長めのストーリーテイストチャカチャカギターロックそのものだったが、EDMやクラシックを取り入れながら独自のスタイルを築いた。
緑黄色社会も、メンバーの音楽的ルーツが多様で、さまざまな大河から枝分かれしてきた支流が合流したような印象で、王道でありながらトレンドループ感はない。
こういうアーティストを探してきて、時間をかけて味わえば、思春期の熱中を取り戻すことができる。僕のようにね。音楽のない人生は退屈だ。楽しければいい人生だ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!