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幸福ってなんなんだろうなぁ【雑記】

この世界を裏側から操って人々を搾取し、酒池肉林の限りを満喫し、極上の幸福を味わう人物がいたのなら、この世界はどんなに簡単だったか。彼にギロチンをかけるだけで、すべては解決したのだから

残念ながら、どうやらこの世界には黒幕は存在しない。いや、誰かにとっての黒幕は常に存在している。それはマルクス主義者にとっての資本家であり、フェミニストにとってのであり、リバタリアンにとっての政治家であり、ネトウヨにとっての外国人だ。

だがどうだろう。資本家や政治家すらも、極上の幸福を味わっているのだろうか? たしかに金は持っている。いいスーツを着て、いい車に乗って、いい時計をつけているかもしいれない。裏で女を侍らせ、満漢全席を平らげ、どてっぱらを肥やしているかもしれない。それをするためには金が必要だ。金は多くの場合ゼロサムゲームで、彼が金を稼いだ分、金を稼げなかった人がいるはずだ。しかし、幸福という意味ではどうだろう。彼は他者を不幸にして、その分の幸福になっているのだろうか? 全体の帳尻はあっているのだろうか?

いや、そんなはずはない。彼が車や時計、スーツを手に入れるために誰かに与えた不幸は、車や時計、スーツごときではほんのわずかしか穴埋めできない。

なら、なんのため、このマネーゲームはやむことなく続いているのか?

金持ちや権力者(両者はほぼ同じ意味である)が幸福とは限らない。本当の幸せは金や権力があっても手に入らない。そんなことは耳が痛くなるほど聞かされてきた。

しかし、その教訓はむなしく響き「とはいえ、安心できるだけの金は必要だ」と人々はあっさり教訓をかなぐり捨てる。誰もがこう思う。「安心できるだけの金を手に入れたら、もうがむしゃらに金を追い求める必要はない。そうなれば趣味や家族との時間をたっぷり味わえるはずだ」と。そしてその日は永遠に訪れることはない。あってもあってもまだ足りないと感じてしまうのだ。

幸福とはなんなのだろうか。それはロレックスの中にみっちみちに詰め込まれていないことは確かである。あるとすればロレックスを手に入れようとマネーゲームを攻略するプロセスにある。マネーゲームの結果に幸福はないとしても、マネーゲームそのものには幸福を感じる余地がある。

僕は、人間の幸福は結果ではなく行為にあると考える。

自らの意志で行為し、自身や他人の感情を含めた世界に変化を起こす。想像した通りの変化が起きなかったり、痛い目を見たりしながら、自らの能力が増大していく手ごたえを感じる。つかまり立ちができるようになったとき。トイレ掃除をしているとき。玉ねぎをみじん切りにしているとき。誰かの荷物を持ってあげたとき。デイトレードを攻略し大儲けしたとき。行為そのものを通じた熱狂と興奮の魅力は誰もが認めるだろう。

これが他者との連携であったなら、さらにいい。ジャズバンドが熱狂のさなかにたどり着いたグルーヴ。互いに求め合う最高のセックス。茶道における一座建立。自らの行為に応答した他者が変化を返し、リアルタイムで相互にフィードバックあう感覚こそが、きっと人生における極上の快楽なのである。

人間は行為によって変化を起こすことでしか、なにかを体感することができない。だから人は行為を欲望する。ベッドに寝っ転がっていることしかできず、ひたすら美食と美女が運ばれてくるような生活はきっと苦痛でしかない。

ここに書いたようなことは、普通に生活をしていれば当たり前に実感することである。しかし、それはどうやら僕たちの社会の価値体系の中には上手くフィットしないように思われる。

というシステム、あるいは労働というシステムは、快楽を味わう側と、苦痛に耐え忍び他者に快楽を提供する側に、人々を分断する。あたかも食事そのものは常に快楽の対象であり、食事をつくって誰かに分け与えることは快楽足りえないかのように、誤った世界認識を形成してしまうのだ。

労働と金は、自らの意志で何かを成し遂げることなく、他者に命じられるがままに、他者に快楽を与えなければならない労働者を膨大に生み出す。そのプロセスには膨大な不幸が存在する。そして、快楽を受け取ることが幸福なのであると信じた権力者は、実際そこに幸福が見いだせずに落胆する。彼はその落胆に気づかないをフリを続けるか、かろうじて富を手に入れるマネーゲームの方に幸福を見出してしまう。現代のビジネスエリートたちがワーカホリックになっていることには理由がないわけではない。人間はシャンパンでおしゃべりするだけの人生に耐えられないのだ。

マネーゲームに熱中することは本人にとっては良いことかもしれない。だが、そのプロセスを別のところに向けていたならどうだろうか。独創的な椅子をつくること。おもしろい漫画を描くこと。困っている年寄りに手を貸すこと。近所の子どもの面倒をみること。そうした方向に向いていたなら、誰かを搾取する必要はなかった。むしろ与えることが、幸福になったはずだ。そして、搾取されなくなった労働者たちもまた、自らの意志で与えることによって幸福を得ることを知るのだ。

これは清貧思想はない。「ボランティア活動は気持ちいいことなのです・・・」と道徳的なお説教をしたいわけでもない。僕が書いてきたのは、おそらく現実から読み取ることができるもっとも妥当な結論なのである。

しかしインターネット掲示板に蔓延る現代の道徳家たちは「結局は金やろwwww」と、教科書に書かれたシニカルなセリフをお行儀よく暗唱する。現実とは乖離しているように見え、古今東西の思想家たちがとっくに嘘だと見破ってきたドグマを、いつまでも唱え続けるのだ。

実際のところ、性善説を唱える世間知らずのお坊ちゃん現実とやらを知らしめようとするそのプロセスすら、彼が自らの意志によって世界に変化をもたらそうとするエネルギーに引き起こされている。彼がそんなことをしたところで一円の得にもならないことは明らかである。しかし、人は目の前に現れた知的障害物を攻略せずにはいられない。それは自らの意志で執り行われ、そのモチベーションたるや、彼が日々取り組む労働とは比べ物にならないほど大きいのだ。

しかし、人間のモチベーションがレスバトルに向けられることがいいことだとは思えない。マネーゲームも同様である。問題があるとすれば、人々がそうせざるを得ない状況にあるということだ。そこが狭苦しい運動場であったとしても、自らの「力への意志」を遊ばせずには人は正気が保てない。もちろん運動場が狭苦しいのは、労働と金のメカニズムが原因である。

だから労働という名の支配を撲滅すべきなのだ。労働をなくせば、人は狭苦しい運動場でレスバトルやマネーゲームに興じることなく、広大な世界で好きなことができるようになる。好きに生きればいいのだ。

その結果起きることなら、たいていのことは受け入れられるだろう。鬼ごっこをして膝を擦りむくのだとしても、鬼ごっこを我慢させられるよりは幸福である。そんなことは子どもの頃から理解していたはずなのに、どうして僕たちは忘れてしまったのだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!