「金を払う」という体験に金を払う人間

数年前、結婚指輪に40万円ほど金をかけた。腕利きの職人が丹精を込めて作ったとかなんとか説明を受けたが、僕はその会社の職人が「未経験大歓迎!」と書かれた求人で募集され月給20万円で働いていることを知っている。なぜなら、僕は後にその会社の求人に関わったからだ。

小さな鉄の輪っかだ。恐らく原価は数百円で、人件費もボチボチの指輪。それなのに僕は40万円もの金を払った。

はっきり言って割高だ。しかし、結婚指輪とは割高であることに価値があるのだ。「今回限り特別に99%オフの4000円で!」と言われていたとすれば、僕はきっとその指輪を買わなかった。

4000円の指輪では妻も僕もは納得しない。仮に全く同じ素材で、全く同じ職人が作っていたとしても、だ。

この現象は、一体どういうことなのだろうか?

「大金なのだからいいものに違いない」という思い込みがそこには働いているように見える。普通ならば「良いものだから、大金を払う」と考えるはずのところを、論理が倒錯して「大金を払うのだから、良いものに違いない」と勘違いを起こしている。

これは後件肯定と呼ばれる誤謬の一種で、明らかに間違っている(やくみつるは人間であるが故に、全ての人間はやくみつるだと主張するようなものだ)。しかし、誤謬と名のつくものは「なんとなくそんな気がする」から誤謬なのであって、僕たち人間はどうしようもなく後件肯定を信じがちなのだ。

信じればそこに価値を感じられる。つまり大金を支払うという経験そのものが、価値の根拠になるのだ。これはグロウスパッションの変形バージョンのように思われる。星の王子さまが、水をやり続けた薔薇だけを愛したように、大金を注いだ鉄の輪っかだけを僕は愛する。

もはや金を注いだから良いものなのか、良いものだから金を注いだのか、よくわからないが、実際のところ世界はそんなに論理的にできてはいない。僕たちはそこにコミットすることで、因果関係という幻想を自分の心の中に育てていく。

金を払うという行為は、コミットするための最も手っ取り早い方法だ。だから「金を払う」という行為に、僕たちは金を払う。合理的経済人が聞いて呆れるような、馬鹿みたいな行為だが、そもそも人の動機なんてそんなもので、それは一種の狂気なわけだ。

さて、なぜ40万円も支払ったのかという問題に対して、もう一つの説明方法も考えられる。

以前、祖父と息子の誕生日プレゼントを買いに行ったとき、祖父は「そんな安いのにせんと、もっと高いの買いや」と言った。祖父はお金を払いたくて仕方がなかったのだ。

祖父の主食は納豆とキュウリだ。金がないわけではないが、自分のために金は使わない。しかし、曾孫のためとなると、際限なく金を使う。

僕も同じだ。自分のために使うより、誰かのために金を使う。友達が家に来たら豪華なディナーを振る舞おうとする。金に飢えたパチンカスは、勝った日には友達に盛大に飯を奢る。

心の底から高級フレンチを食べたいと願う人間なんて、果たしてどれくらいいるだろうか? 「誰かのため」にお金は使われて、経済は回っている。

僕は妻のためだから40万円を支払った。40万円もの装飾品を自分のために使うことは、まずあり得ない。自分のために買った中で一番高い買い物は、せいぜいps4くらいだ。

僕たちは誰かのために金を払うことが好きだ。そして、受け取り手にとっては「金を払う」という行為そのものがプレゼントになる。だから僕たちは結局、「金を払うため」に金を払っている。

金を儲けようと思うなら、ここに注目するといいのかもしれないね。金儲けをしたいみなさんは、ぜひ人のこういう矛盾につけ込んでみよう!

そして儲けた金はまた、誰かのために使われる。結果、金なんてなくても人間社会は機能しそうな気がしてくるね。

前澤友作万歳だ。また金配ってくれ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!