「他者といる技法 コミュニケーションの社会学」読書メモ

X(旧Twitter)で見かけた「他者といる技法 コミュニケーションの社会学」を借りてみた。


普段無意識に行っているふるまい、無意識に抱いている感情について検証されていて、面白かった。

<序章>
タイトルから、『他者といるための方法』についてアドバイスする本だと予想していたが、
「あなたが他者といるときに、例えば表情を浮かべるという「技法」をほぼいつも行っていること、このことは間違いないだろう」「私たちは、相手の話に納得していなくてもうなずき、その場が別に楽しくなくても微笑む。」「そのような技法によって、他者といるということがはじめて可能になるのだし、他者といっしょにいる場は、はじめてありふれたものとして成り立ちつづけることができるのだ」
という提起から始まり、
すいぶんと不気味で疎遠にみえる存在である「他者」といっしょにいるということ、いっしょにいて「社会」を作るという面倒なことをすることは、そこから広がるすばらしい可能性と、それをするために生じる「苦しみ」とを、ほとんどつねに同時に内包するのではないか」
と、続いていく。

他者は『不気味で疎遠』、そのために技法を駆使することには『苦しみ』を伴うというのは、露悪的な小説ではよく読むが、コミュニケーションに関する本ではあまり見かけない。
それも当然で、コミュニケーションノウハウを教える本で、『コミュニケーションしなくていいや』と思われてしまったら、その本が教えていることの価値が下がってしまう。
考えてみれば当たり前だが、この序章を読んで気が付いた。

<第1章>
第1章の『思いやりとかげぐちの体系としての社会』も、無意識に抱いている『思いやり』の良いイメージを裏切るように進んでいく。

『思いやり』に伴う『謙遜』について、
「私たちは、他の人々をほめ、満足する一方で、自分をけなし卑下する。自分をけなすことは、第一に、「他人が自分を満足させ、ほめてくれるであろうと、まず確実に期待できる」技法」、「人にいわれれば痛みを感じる評価を自ら表明しておくとき、同じ評価でも痛みは少なく、それをわざわざ繰り返す他者はそうはいまい」
と気持ちよいほどに身も蓋もない。
「自虐」、「自嘲」を含め、私も恐らく無意識にやっているし、過度に繰り返す友人達に対してこのように思ったこともある。

そして『思いやり』について、
「お互いに敬意をきわめて安全に与えあい、確保しあうことができ、このメリットゆえに私たちはこの営みを繰り返し、繰り返しのゆえに安全というメリットはさらに高まっていく」
と述べられている。
利他的な、美徳的なふるまいのイメージの『思いやり』だが、なるほど利己的な理由もあって行っているなと頷いてしまった。
そして続く、『思いやりのある自分』でいるために『かげぐち』が必要であるということ、『思いやりのある自分』では対応できない相手を排除する技法として『かげぐち』の存在があることは、この2つをセットで考えたことがなかった。

<第2章>
自己のアイデンティティを確立するための『他者からの承認』が「他者からの承認次第」になってしまうために、自己の存在を脅かす危険ともなり得るという関係性が、家庭での例を交えながら語られていく。
私は、これを読みながら、会社というコミュニティでの承認関係を考えた。
上司が上司であるには、部下が部下であるには、互いがいなければならない。
役員とマネージャーだけの関係性では、マネージャーは『部下』となり、シニアコンサルの下に新卒の子がついてやりとりをしている関係性の中では、シニアコンサルが『自分の方が上だ』と感じ、相手に様々なことを教えてあげる。
この本で言及されている家庭の例と異なり、会社の場合には、会社の仕組みとしての『役職』や営業成績、社内外の評判・評価も『承認』となるが、いずれにしても『他者から』の評価には違いない。

「私は、承認されること、知覚されること、単に見られることさえもが生み出すこの危険から、私は存在を守らなければならない」
として、
「他者に知覚されるこの物体は別に「私」ではない」
「「ほんとうの私」は他者に知覚される場所ではなく、誰にも知覚されない場所、私以外の誰も触れない「内面」こそにあるのだ」
となる思考や
「本当の私なんて誰も知らない」
という考え方は、何となく、誰にでもある思春期的、感傷的な発想だと思っていたが、防衛的なメカニズムに思えた。

※本はこのあと、「第三のコミュニケーション」である「ダブル・バインド」、未知で異質な存在に対して「怖い」と感じ排除することにより、「どのような人か」さらにわからなくなるという悪循環、「同情」や「共感」はそれを抱く人たちの「主体的」な感情にすぎないこと等について詳しく言及されていてどれも参考になったが、長くなりそうなので割愛。

<第4章>
この章では、上流階級、中間階級、庶民階級が登場する。
私は『勝ち組』『負け組』という言葉がどうにも苦手だ。それは立場が違う(と見做した)相手への揶揄を含んでいることが多いからでもあり、この本でも触れられている過度な自嘲の中で使われることも多いからだ。
この本では、それぞれの階級について以下の特徴が述べられている。

支配階級(上流階級)→マナーを身に着けており、「あるべきふるまい」をしている。

庶民階級→マナーや文化的ふるまいを身に着ける余裕が(資本的にも)ないが、それ故に、それらからの「自由」を持っている。

中間階級→上流階級のマナー等を知っており、自分がそれを身に着けていないことも知っているため、「気おくれ」する。そして「他者の視線への敏感さ」や努力をしても「上流階級の姿(あるべき姿)」になれない不十分さを感じる。「あるがままのココロ」とは異なる「あるべきふるまい」をする「感情管理」を求められる。

率直な感想を言うと、この定義には『そうかな?』と疑問を抱いた。
『自分は底辺』という方の話を聞くと、『上(と見做している人たち)』を比較対象とし、自身が持っていない点・相手の恵まれている点が大きく見えがちであり、「自由」を持っているか……と考えると疑問が残る。
では、その方たちは自身を『庶民階級(底辺)』と考えているが、実は中間階級なのだろうか? そう考えてもみたが、それはそれで疑念が生じる。
もし「あなたも中間階級ですよ」と伝えたら気分を害しそうな人(「庶民階級」を称することがアイデンティティとなっている人)がそれなりにいる。(だからこそ、私は底辺を自称する人に否定も肯定も出来ずにいる)

階級の特徴には少し首をかしげたが、「あるがままのココロ」とは異なる「あるべきふるまい」を求められた人が、時に「ほんとうの私」「管理されない感情」を探し続けるという記載に、『嫌われる勇気』の本が頭を過ぎった。
嫌われることよりも「ほんとうの私」「管理されない感情」が求められているため、あの本はベストセラーになっているのだろうか。

<第6章(最終章)>
「他者は、いつも「理解」では到達できない「過剰さ」を持っている」
「自分に対する他者の「理解」が過少であることにいつも敏感」
であり、これによる「苦しみ」について述べられていく。

「私が他者を「理解」するために開発して在庫している「類型」と、他者の「こころ」でじっさいに起こっていることそれ自体は、その精緻さにおいていつもずれる可能性をもつ」という流れに頷いていると、「完全に他者の「こころ」が「理解」できたとしたら、どうなるだろう」
「「私」のすべてが、他者にわかってしまう!」
「なんという恐怖だろう」
と続き、はっとした。

「完全に理解されてしまうことによる苦しみ」
考えてみると、こちらの方が私は無理だ。
私は本棚を見られるのが苦手だ。ブクログを利用してはいるが本棚は全て非公開にしている。読んだ本を相手に勧めるのは好きだけれど、本棚を覗かれるのは心や思考を覗かれるようで、どうしても苦手だ。
本棚でも無理なのに、誰かに「完全に理解」されるーー相手が肉親でも抵抗がある。

「どうやら私たちは「理解」のすばらしさはよく知っているが、「理解」が生む苦しみはあまり論じていないのではないか」
という一文に、はいと頷く以外にない。
そして「完全な理解」と「適切な理解」を取り違えているという指摘にも、はいと頷く以外にない。

「「わからなさ」にこそつきあう」
「「わかりあわない」時間が「他者といる」ということだと思ってしまえば、これはそう苦痛ではないかもしれない」
「「わかりあわない」ということは、そのような「他者」を「他者」のまま発見する回路を開いているということだ。それは居心地が悪いが、でもたくさんの発見や驚きがある


最後まで読んで、他者とのコミュニケーションっていいなと思った。

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