見出し画像

茶人の手から受け継がれるもの

さる日、茶道人生の大恩人であり師匠たるお方との永訣の日を迎えた。さすが先生、牡丹のようなきっぱりとした去り際であられたそうだ。

そして残された末の弟子の手のひらに、託されたものが一つ。

「黄瀬戸の虎香合」

そう、黄色くなった包装紙には書いてあった。

茶道の楽しいところと聞かれた時にベスト3に入る気がするのが、茶会を彩る芸術品ー茶道具を鑑賞すること。
お茶会では一期一会を大切に演出するため、四季折々、その時にちなんだ演出を茶室にちりばめる。そして演出にはさまざまな茶道具が欠かせない。
茶碗はいうまでもなく、
茶杓、お茶を入れる茶入れや棗、水差しーetc.
道具の種類の多さに、始めたばかりの頃は圧倒されたっけ。
だから茶人の箪笥は、一期一会が積み重なって茶道具でぎゅうぎゅうだ。ひとりの茶人がこの世を去るときには、それら茶道具が次のあるじのもとへ譲り渡されるドラマが自然と発生する。利休さんも切腹の前に茶杓を削って、特に大事だった縁のある方に譲ったそうな。そのうち一つの銘は「泪」。聞いてるこっちが泣きそうになってくる。

さて、話は令和の今に戻ってきて、
私の手のひらに託されたものをもう一度見てみる。

500円玉をひと回り大きくしたくらい。
小ぶりでまあるい姿。
秋の木枯らしにふかれる草のような黄色地に緑の釉薬がかかっている。
蓋には虎が印されている。
控えめで、物静かだ。

私の干支ー寅年を覚えててくださったのかしらとしみじみ余韻に浸る。
同時に、「何で香合?」という思いも頭をよぎった。なぜなら香合を使うお手前(茶道の作法のこと)は私には難しいから。

香合はその名の通り、お香を入れておく器だ。
炭をたっぷり組んで炉に火を起こした後、恭しく香合を手にとって中からお香を取り出し、炉の一角にぽとりと置く。
するとお香が熱で暖められて、雅な香りが茶室いっぱいに広がる。

これはお茶会の始まりを告げる儀式で、炭手前という。抹茶を点てるのはその後のこと。

なぜこれが私にはまだ難しいかというと、ぶっちゃけ練習が足りてないから。
習いはじめはふくさを捌く、抹茶を点てるといった「お茶」に近いところから習うから、炭手前はその次のステップにいう感じ。
それに炭手前は家での復習が難しい。
だいいち道具が全然揃えられない。
賃貸マンション住まいには見渡しても炉を置くスペースが見当たらない。炭も結構場所を取る。なので私が家でお茶を点てるときは電熱コンロを使っている。炭を使えるって、現代には贅沢な話だ。

先生も私がまだ炭をうまく扱えてないことは当然ご存じだった、と思うのだけど…。
そんな私に香合を送ってくださるとは、
一体どうしたことだろう。

なんとなくしっくりこないまま日々を過ごしていたけれど、
そのうち、一つの可能性に思い至った。

もしかして、
これって先生の最後のご指導なのかな。
炭手前を披露できるようになりなさいってことなのかな。

だとしたらえらい大変なものを頂いてしまったぞ…?
炭手前を披露するには、
お茶会をやるしかないじゃないか…!

私は、自分がお茶会をやるというイメージがまだなかった。
足は途中で痺れてしまうし、
よく着物の裾を踏んでしまうし、
手順だって、先生の掛け声がなかったら迷子になってしまう。
こんな自分にはお茶会は無理。
そう無意識に思っていたのに。

先生はもう現し世にはおられない。
だけれど託した品を通して、未熟な弟子を鼓舞してくださっている。

''あなたにもいつかできるわよ''

その声を香合から感じ取りお稽古に励んでいるうちは、先生は私のなかに「いる」。
ずっといてくださるように、拙いながらもこれからも頑張っていくつもりだ。



これが茶人の生き方であるらしい。