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全体と個人

「一人はみんなのために みんなは一人のために」

大学の購買部の前にこの言葉が刻まれていた。それがアレクサンドル・デュマの「三銃士」の中のセリフであるらしいことは、ずっと後になって知る。この時はまだ知らない。

この言葉を見るたびに「みんなのために」我慢したり働いたりはしたけれど、自分(一人)のためにみんなが何かしてくれたことあったかなぁ、と思っていた。

今思えばずいぶん傲慢な考え方だ。とはいうものの、親なり友人なり個人がなんらかの有り難い行動をしてくれたのは思い出すが「みんな」が直接的に自分に何らかの手助けをしてくれたか、というと思い出せない。

してくれなかった、というと語弊がある。してくれない、と言うのもいやらしい。「全体」にはなんらかの形で助けてもらってはいるものの、記憶に残るのはそのなかの「個人」であって「全体」的ななにがしかではない。その中でも関係性がつよい「個人」に限られてしまう。「みんな」が一人のために何かするとすれば、共済やらなんやらしか思い浮かばない。

こんなことがあった。

全然知らない人が妻子を残して亡くなったため、その生活のためにカンパをしてくれという要請が組合からあったことがある。一度も一緒に働いたことも面識もない赤の他人の話だ。その頃組合の役員をしていた者が発起人で、亡くなった人の友人らしかった。

見舞金なら組合費を払っているからそこから規定額を出せば済む話だ。それ以上にカンパしろというのも不思議だ。額も少なかったし残された遺族が気の毒と思った。言われるがままに金を出した。それがどのくらいになったのか覚えていない。総額は知らされた気はする。

亡くなった方の奥さんからのお礼の言葉をいただいたかどうかはわからない。その後、働き手が亡くなり家族が残された例は他にもあったはずだが、同様なカンパ要請は二度となかった。

「一人のためにみんなが」という精神は素晴らしい。けれども、その美しい言葉にまつわる有無を言わせぬ強制力に違和感はある。

「全体」という言葉は抽象的だ。これを「組織」「会社」と変換すると少しは理解しやすくなるような気がする。

「組織」と「個人」

「組織」は「個人」に奉仕を求めるが「個人」のためにはない。むしろ対立することが多い。

芦原妃名子先生がお亡くなりになったのはショックだった。その死を悼む声も多く、何故このような痛ましいことが起きてしまったのかずっと気になって、その後の報道や発言に注目してきた。

漫画家という「個人(事業主)」と出版社、テレビ局という「組織」。様々な発言から透けて見える原作者軽視の風潮。書面を通さない契約という悪しき慣習の横行。法律的に原作者の権利は守られているにも関わらず、だ。

「組織」の中で各個人は守られるが「個人」は矢面に立つしかない。しんどかったことだろう。このしんどさを思うと辛くて安易なことは言えない。

SNSでのコメントは、感情的だったり皮肉混じりだったりするものもあるが、筋道を立てた意見も多かった。すべてが誹謗中傷に満ちたものではない。恐ろしいのはその膨大な量が一度に押し寄せるところだと思う。一つの意見が千にも万にも押し寄せたらそれは恐怖である。

芦原妃名子先生のご冥福をお祈りします。その余波を見届けていくつもりです。







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