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再び「平和とは」を考えてみる

平和とは何かを考える時、ロシアの子供たちが「戦争反対」のプラカードを掲げただけで、護送車に押し込まれたことを思い出す。子供が当たり前の願いを表示しただけで犯罪者と同等の扱いを受けるこのシーンはかなりショックだった。今考えると、それは非常に「戦争」とはいかなることかを象徴する出来事であったように思う。

どこで読んだのか忘れてしまったのだが、ウクライナでも「戦争反対」を表明する人はいたらしい。しかし、その声は封じられてしまった。一枚岩でないと戦えないからだ。士気を下げるようなことは許されない。それが戦争というものだろう。

戦争は起こらない方がいい。しかし、起こってしまえば反対する声などかき消されてしまうだろう。そう表明することも憚られるようになるだろうことは予想できる。多様性、自由な言論、平和への希求といった耳触りの良い言葉は簡単に消滅してしまうような気がする。

ヒトラーがこの世に蘇り人心をつかむ映画を見たことがある。「帰ってきたヒトラー」だったと思う。映画の最後に彼はこう言う。

「わたしは皆の心の中にいる。皆が私を呼ぶときわたしはいつでも蘇る。」

彼を支持する実際のインタビューの映像を交えてのものだったため、余計このセリフはゾッとした。

「皆が望むから」ヒトラーは誕生した。戦争もそうなのかもしれない。熱狂的ななにものかに突き動かされての選択とは一体どういうものなのか、予測できない。しかし、自分の中に簡単にそうなってしまうものが絶対ないか?と言われると否定できない。状況によっていとも簡単に人は変わる。戦争反対を訴える大手のマスメディアでさえ、戦時下は戦意を鼓舞する記事を書いていたではないか。大勢の感情的な熱狂の元、客観的な意見、個人などいとも容易く踏み潰され飲み込まれてしまうように思える。

平和とは戦争に反対である、と言えることである。戦時下で果たしてこの言葉は言えるかどうか、自国がウクライナのように当事国となった場合、その言葉は果たして言えるのか疑問だ。だからこそ、今のうちに言っておこうという気になる。今のうちに。

できれば、こんなことは考えずのんべんだらりと過ごしていたい、というのが本音。平和ボケと言われているうちが平和なんである。











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