言論の場にはそもそも議論する気などない悪意の持ち主も存在することを忘れるな

言論というのは基本的に自由に戦わせようという思想がある。
言いたいことをとりあえずは自由に言わせて戦わせ、誤った言論には言論で対抗させるべきであるという、いわゆる「対抗言論の法理」というのがある。

民主主義の原則は出来る限り自由を認めることであり、自由市場の中で正当なものが劣悪なものを駆逐していき、最終的には正しいものや妥当なものが自然と残っていくというのが基本的な考え方だ。

例えば、ある地域にまずくて体に悪いリンゴと、美味しくて体に良いリンゴが売られていたとする。
体への悪さが致死レベルであれば、規制することによって市場に流通させないようにするべきではあるが、多少体に悪い程度だと、国家が介入して規制をさせると商売が不自由になる弊害の方が大きくなる。
そういう場合は国家に介入させず、ある程度の劣悪さであれば、賢い消費者が美味しくて体に良いリンゴを自然に選ぶようになる消費者を信じようという考え方だ。
まずくて体に悪いリンゴは次第に売れなくなるので、そのようなリンゴを売る業者は廃業に追い込まれ、市場には美味しくて体に良いリンゴがたくさん出回るようになるだろう、というメカニズムを期待するというものだ。

このような自然なメカニズムをできる限り期待したいところだが、実際にそれが期待できない市場が多い。
特に言論の場は正にそうだ。

インターネットで誰かが誹謗中傷にあった時、その誹謗中傷の中身が真実でないとき、先の原理で言えば自然と正しい内容や真実の内容が勝って、真実ではない嘘や誹謗中傷の内容が淘汰されて消えてなくなっていくことが期待される。
しかし、実際はどうだ?
日本人が集まるインターネット掲示板やSNSでさえ、他人を攻撃することだけを目的としたような悪意を持ったものであふれかえっており、一旦誹謗中傷の的にされた者はとことん病んでしまうか、最悪の場合は自殺する者まで存在する。
このような言論の場では、「言論の自由市場」に任せてしまうだけでは秩序は保たれない。
だからと言って、言論の自由を制限してしまっては、もはや民主主義国ではなくなってしまう。

そこで、われわれは出来る限りの言論の自由を主張することを基本とするとともに、言論の自由を悪用したものたちに対する対処を覚えておくべきなのである。
そんな時に知っておくべきなのは、①そもそも議論する気がなく、相手の話を一切聞いていない者、②他人を貶めて批判したいだけの者、③より良い考えを求めるような議論を目的としておらず、論破することだけが目的とする者、などといった、悪意の塊のような者が存在するという現実を知っておくことだ。

われわれは命を懸けて言論の自由を守り、民主主義国家を守らなければならない。
そんな中で、言論を戦わせる相手、自らに反論をしてくる相手の中に、①②③などのような悪意に満ちた者も中にはいるということを知るべきなのである。
敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、という教えがある。
言論で戦うためには、どのような敵がいるかを知っておくことは、必須なのである。

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