熊本水俣病の被害と訴訟の歴史

日本の高度経済成長期に代表される四大公害問題のひとつである熊本水俣病の全容や詳細をご存じだろうか。
社会問題となったのは1950年台、60年台で、損害賠償訴訟自体は1973年に決着しており、既に半世紀ほど前の事になってしまっている。
しかし、当時の熊本の水俣病の時に公害が深刻化した状況や被害者の状況、訴訟の流れについては、現代においても学ぶべきことが多い。
そこで、熊本水俣病がどのようにして始まり、被害を受けた人々がどのような苦しみを負い、戦ったかについて記載する。

熊本水俣病の発生源は熊本県水俣市にあったチッソ株式会社水俣工場(有機合成化学工場)であり、公害の原因物質は、その工場から排出されたアセトアルデヒド廃水中に含まれるメチル水銀化合物で、これが海水に排出され、海に住む微生物や魚介類がそれらを摂取し、食物連鎖によって蓄積され、人間が有機水銀中毒となった。
汚染地域は八代海の南北80キロ、東西20キロという広範囲に及び、生活圏影響者は約50万人、患者数は最低でも2万人超と報告されており、報告漏れの被害者はさらに少なく見積もっても数万人以上とされており、実際の被害者は5万人超、場合によっては10万人ほどの被害者を出したともいわれている世界最大の水汚染公害問題が熊本水俣病である。

熊本水俣病が公式に発表されたのは、1956年5月1日にチッソ水俣工場附属病院の病院長が地域の保健所に報告したことが発端となった。
その後の調査で1950年頃から、近隣の海で魚が死んで浮いていたり、鳥が突然落下したり、猫や豚が狂死したり、海中や海底で海藻が枯れるといった被害が報告されていたことが発覚した。
この公式発表の時点で即座に51名の患者が発見され、言語障害、歩行不能、起立不能、飲み込み困難、運動障害、視力障害、めまい、しびれ、けいれんなどの症状が報告され、死亡する者や寝たきりとなる者が続出した。

チッソ水俣工場附属病院長が異変に気付いたきっかけとなったのは、1956年4月12日に、当時5歳の幼児であった田中静子さんがある日突然、目がキョトンとし、口が回らなくなった。
田中静子さんは即座に入院となり、続いて2歳の妹の実子さんも歩行障害が発覚したことから始まったのだ。
このような幼い子らがある日突然、水銀中毒によって将来を奪われたのである。
その後、田中実子さんは熊本水俣病の被害者としての証人として、法廷に出向くのだが、訴訟当時17歳となった田中実子さんは、体が6歳くらいから成長することがなく、17歳になったにも関わらず幼児体形のままで、ベットに横たわったまま、裁判官の前に姿を見せることとなる。
田中実子さんは意識もなく、目も見えない状態で熊本水俣病訴訟の被害者証人として法廷で無言の証言をしたのだ。

熊本水俣病の公害の原因が明らかになったのは、熊本大学が1959年7月に有機水銀説を発表したことによる。
これを契機に、漁民や被害者、患者らはチッソ工場に押しかけて乱闘騒ぎとなり、逮捕者が発生するほどの事態となった。
同年12月にはチッソ社から見舞金契約という形の和解契約を結ばされることとなった。
死者に対してでさえ30万円というわずかな金を握らされることで、実質的に巨大企業チッソ社に黙らされることとなった。
1962年にはチッソ工場の工場内からメチル水銀化合物が検出されたと熊本大学により発表されたが、チッソ社も国も、チッソ工場の排水が原因とは認めなかった。

1965年に新潟大学が第二の水俣病として新潟での被害を発表し、1967年には新潟水俣病の被害患者の13名が昭和電工を相手に損害賠償訴訟を提起した。
それに加えて、富山のイタイイタイ病や、四日市ぜんそくによる被害者らが立ち上がったことが、熊本水俣病の被害者らに転機となった。

だが、熊本水俣病が他の四大公害問題と異なって事態が深刻化した要因は、熊本水俣病という公害の加害者であるチッソ社は、熊本県水俣市に企業城下町として誕生したことにある。
つまり、熊本県水俣市には産業がなかったため、水俣の町に企業誘致運動を行い、それを受けてチッソ社が水俣市に進出したのだ。
熊本県水俣市は「チッソ社あっての水俣」であり、チッソ社が存在していなければ経済が成り立たないという状態であった。
水俣市の住民はチッソ社のおかげで生活ができ、チッソ社がなければ生きていけないという状況であったため、チッソ社にたてつくことなどできない状況であった。
実際に、チッソ社に対する不平不満を主張する漁民や患者/被害者らは「チッソ社あっての水俣」という秩序を破壊する無法者として地域住民から迫害されていたのだ。
それくらい、水俣市ではチッソ社はありがたい存在であったのだ。

そのため、チッソ社を相手取った弁護士団や被害者団を結成しても、熊本行政やチッソ社などから妨害を受けたり、脅迫を受けたため、訴訟を断念する者が続出した。
弁護団は当初、9名で結成され、全国の弁護士に声掛けをした結果、熊本県内から23名、その他の地域からは200名を超える弁護士が名を挙げたものの、国や熊本行政および巨大企業チッソ社による圧力や訴訟資金の枯渇などにより、実質的に弁護団は7名にまで縮小した。
国家権力と癒着した巨大企業と戦うことが如何に難しいかがわかるだろう。

公害問題や環境問題における訴訟において被害者が原告となり、加害企業を被告として訴訟するとき、多くの場合、企業側の過失や責任を原告側が立証しなければならないという問題がある。
これは、企業側の責任を企業が国や地方行政と一緒になって隠蔽し、そのような中で被害者たる原告が「加害企業が①公害問題を引き起こし、②公害被害が発生していて、③さらに加害企業の行動が原因で被害者らが被害を受けた」ということを全て立証しなければならないのである。

最終的に熊本水俣病においては、原告被害者は被告チッソ社に対して全面勝訴したのだが、それは徐々にチッソ社の従業員や住民がチッソ社に対する態度が180度変わったおかげであった。
それまでは「お殿様のチッソ社様に歯向かうと仕事がクビになったり、水俣の町での生活ができなくなる」ことを恐れて被害や実態を訴えることが出来なかったのだ。
しかし、チッソ社の安全性無視の実態や、ずさんな管理体制が徐々に明らかにされ、有害物質がそのまま垂れ流しにされ、多くの被害者が明らかにされることによって、徐々にチッソ社に対する風向きが変わったのである。
これらの多くの住民や従業員たちが立ち上がらなければ、チッソ社に勝訴することはできなかったであろう。

熊本水俣病はチッソ工場の近海で漁業被害が顕著に発生し始めたのは1920年頃の事であり、漁業関係者らがチッソ社に説明や要求を開始したのは1925年が最初であった。
チッソ社との裁判は第一審が1973年3月20日に出され、原告側の全面勝訴となり、被告のチッソ社が控訴しなかったため、この判決をもって確定した。
1925年の訴えからすると、約50年もかかったのである。

国と癒着した巨大企業と公害問題に関して戦うことが如何に難しいことであるのかということを熊本水俣病は教えてくれているのである。
公害問題が起こってしまったら、多くの人々の人生が奪われてしまい、その家族は一生悲しみに暮れるのである。
しかも、国や企業に訴えをして認められるのは早くて50年という歳月がかかったというのが熊本水俣病なのである。
最悪の場合には、訴訟などで50年やさらにそれ以上の長い年月をかけた結果、訴えは認められず、泣き寝入りすることになるのが公害問題なのである。

裁判というのは最終的に訴えが認められたとしても、返ってくるのは金だけであり、失われた健康や家族との幸せな時間は帰ってこないのである。
だからこそ、熊本水俣病のような公害問題を二度と起こさないことが重要であり、過去の事として忘れ去ってはならないのである。


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