我々の言葉は本当に感情を伝えているのか
我々は本当に、言葉が通じているのだろうか?
こういう問自体は普遍的なものだろう。しかし「実際通じているのだからいいじゃないか」といわれると、そんな気もする。
じゃあちょっとその例外を探ってみようではないか。
あなたがその単語で語った感情は、私の感情と同じだろうか。
本題
優秀な友人と飲みに行った
非常に優秀な友人がいる。責任感もあって人当たりもよく、友達も多いし、年収も高い。今度美人の奥さんができるといっていた。
彼は一回転職して、さらに高給取りになった。マンションも買ったらしい。でもそのことについてあっけらかんとしているし、時々飲みに誘ってくれる。どこに行ってもおいしそうに食事をし、何を見ても新鮮に感動する。普段の出来事を面白おかしく話してくれたかと思えば、愚痴を吐いているのにユーモアが利いていて笑ってしまう。秘密の話も安心してできる。話が合う貴重な友人だ。オタクの友達に美人の嫁ができたところで嫌いになんかなれようもない。孫に囲まれて涙ながらにありがとうと呟く妻に手を握られながら老衰で死ねばいいと思う。
彼はまた転職するという。彼は優秀すぎるがゆえに、部署内の仕事をほとんど取り仕切り、あまつさえ別の部署の職域まで担当するようになった。しかも単に他人の仕事を奪うだけではなく、間に人を立てて情報を制御するなど相手のプライドに配慮した方策を自然と身に着けており、とにかくトラブルを未然に防ぐ天才でもある。だから波風も立てず快適に過ごしていると思っていた。問題は、その能力と実績、きめ細かな配慮が蛇口化してしまい、人事評価に全く考慮されないどころか、決して快適とは言えない勤務形態を押し付けられようとしていたことだ。
ーーーこんな会社辞めてやる、俺がいなくても回るんだろ。
と熱燗の作を片手に笑っていた。この会社に限ってはたぶんそうなのだろうし、追放系テンプレが発生するならいい気味だ。
自動思考からの考察ーーこらえ性について
本稿の主題は、この話を聴いていた時に私の心の中に浮き上がってきた思い(自動思考)を端緒とする。
これは自動思考といって、極めて雑な書き方をすると、無意識が勝手に意識に上げたものである。だから、これを考えた原因は自分の歴史にあるが、自由意志が持つべき責任は皆無である。
自由意志が介入するのはここから先だ。自動思考をそのまま口に出すのは舌禍のもとである。酒の席での余計な一言とは、前頭葉の働きが鈍って自動思考が漏れたものだろう。
というわけで、めっぽう酒に強い私はこれをそのまま口にすることはなかった。私は処理しきれなかったので転職の是非に関してはコメントを避け、代わりに職場環境に関する愚痴を喋らせることにした。
で、家に帰ってから考えてみた。この自動思考からは嫉妬心や、会社に不満を覚えながらも転職に踏み切れない自分への嫌気、とはいえ能力に見合わない給料、何年も同じ会社で踏ん張ってきた自分への言い訳など、さまざまな感情が読み取れた。
そのなかで一つ、着目したいものがある。「こらえ性のないやつだな」とはどういうことか。
「こういう理不尽を乗り越えてこそ一人前になれる」という社会的規範が裏側にあるのは確認したが、それはあまり強くない。とすると、この規範の正体は別にある。
色々考えたが結論が出た。すなわち、念頭にある仕事の性質が違う。
何か大きなことを成し遂げたいのであれば、当然時間がかかる。結果がすぐに出なくてもそのことには耐えて、目標にかじりつき、黙って淡々と努力しないと、大きな目標は達成できない。例えば博士論文を執筆して研究職として大成することや、新規製品の提案から研究・開発・上市に至るまで、法学部を出ていない人が司法試験に合格すること、長編の小説を二年半かけて執筆することなど。
振り返るに、どうもわたしは(自認する性質は正反対なのだけど)じっくり腰を据えてコツコツやるタイプの仕事が好きらしく、何かをなすには時間がかかるからじっくり耐えることが大事だ、という仕事観を持っているらしい。
一方で彼は高度事務系である。高効率、スピード感が最重要であり、一個の案件にかかる時間は短い。会社として求めるスキルはある程度均一なため、言ってしまえばいくらでも替えが効く。(私の聞く限りだと彼の非認知能力のお陰で職場が回っている気がするのだが、彼自身も転職組であることを考えると、建前だけでなく実態としてもそれでいいのだろう)
私と彼では仕事の中身が違う。私は彼の職場では一日も持たないという確信がある。仕事観なんて違って当たり前だ。むしろ彼の場合、こらえ性を発揮することで余計な精神的負荷をかけることは、著しく効率を下げ、むしろ会社のためにならない。害のある信念である。
職場におけるハラスメントの問題ーー彼らは何を耐えているのか
ここでいう「こらえ性のない奴だな」は、自分の経験をもとにした仕事観から定着したものである。しかし世の中には無数の仕事があって「こらえ性」など全く必要のない仕事もあるし、むしろ邪魔なものもある。
また私の言うこらえ性には、理不尽に耐え抜いたものが強くなれるという体育会系的意味合いは全くないが、逆に体育会系的な職業(たとえば営業職とか)もあるのだろう。そこには別の「こらえ性」があるはずだ。
「こらえ性」に関する問題はここで終わらない。例えば上司からの罵声、同僚からの嫌がらせ、わいせつなコミュニケーション、無視や陰口やハブリなどは、全く耐える必要のない理不尽である。しかしここに「こらえ性」を発揮している人が多数存在する。
もちろん「こらえ性」というのは私の表現である。しかしこの表現形態とは独立に、本来相反するはずのいくつかの観念が、どうも同じ表現に混在して流通しているように思えるのだ。
つまり、ただ「しんどさに耐えなければならない」、逆に「耐えなくてもいい」という観念だけが流通し、具体的にそのしんどさとはなにか? に関して踏み込んだ話をしている気がしない。
そもそも私が感じているしんどさと、彼が感じているしんどさは、質的に同じものだろうか?
しんどさの分析ーーうつ病を例に
上記の「こらえ性」の観点からは、しんどさを2つみつけることができる。理不尽と、報われなさだ。
個人的には、報われなさはグッと我慢することも大事な時はあるだろうが、理不尽さには耐えなくていいと思っている。冒頭にでてきた優秀な彼であれば「報われないなら戦う場所を変えたほうがいいんじゃないか?」と答えるかもしれない。
いずれにせよ、非常に優秀な友人が抱えていたしんどさとは、そもそも耐えるべき報われなさではない。これだけ頑張ったのに成績や待遇に反映されない理不尽さだろう。
では「しんどい」の理解はこれで十分だろうか。
最近感じたのは「抑うつ状態の人の「しんどい」は健常者に理解されているのか?」という問題である。
私自身、20歳のときに双極性障害2型を発症、いまは寛解しつつあるが、若い時に自殺を図って失敗している。世界が灰色に見えるというのは本当のことだ。このころのことを思い出しながら書いていきたい。
支援者や周りの友人・家族は、患者の苦しむ姿を見ている。想像を絶するしんどさであることは伝わってくるが、彼が「しんどい、死にたい」と言ってもその心中を推し量ることはできていない。
しかし圧倒的多数は、当事者とは接触したことがないが知識だけある人だ。「世の中にはうつ病という深刻な病気があるらしく、自殺してしまうことが多いそうだ」くらいの認識の人が、そうとは知らず当事者に「くじけるな、がんばれ、ここを乗り切れば未来は開ける」と言ってしまうことは容易に想像できる。というか、言われた。そこで絶望して……というストーリーがよく描かれるが、この「しんどい」の共有について分析したい。
まず元当事者として、深刻な抑うつ状態における「しんどい」「苦しい」の意味は、日常的に使われる意味とは質的に全く異なることを記しておく。
私の感覚だと、あのしんどさは溺れているときの感覚に似ている。息ができない苦しさ、もがき苦しむほど状況が暗転していく絶望感、周囲の誰も本質的に助けることはできず、自力で陸に這い上がるしかないことを悟る。
しかもこの症状はきわめてゆっくりと進行していく。最初は単に息がしづらいくらいの違和感だったものが、徐々に空気が薄くなり、吐く息もつらく、呼吸ができない苦しさにのたうちまわる。最後は、水をひたひたに張った洗面台に頭から突っ込まれた状態になる。ずっと拷問人が頭を押さえつけたままだ。唯一理解してくれる精神科の先生に会えるまで一週間もの間、ずっと。
もはや耐える耐えないの問題ではない。首を吊れば救われると考えるのは、実は極めて合理的な発想だと分かっていただけるだろうか。
この感覚はあまりにも共有されていない。当事者はそれどころではなく、元当事者はこの感覚を忘れたから生きていけるのであって、共有しにくいのだろう。
このような「しんどい」の感覚が共有されないままでは、非当事者が「しんどい」と聞いたときに冷たい反応をするのも自然なことである。
というのも、社会通念上流通している「しんどい」は努力の過程で生まれる副産物として捉えられているからである。「筋トレしたら乳酸がたまるのはあたりまえだ」という感覚で話してしまい、耐える耐えないの話をしても嚙み合わない。
まさか「今にも溺れそうで苦しい」という意味で使われているとは思いもしないだろう。そんな観念はないのだから、思いやりは全く関係がない。
「がんばれ」の多義性
この感覚を共有したうえでうつ病に対する対応を考えていこう。
「くじけるな、がんばれ、ここを乗り切れば未来は開ける」
とは、いかに突き放された表現だろうか。当事者が読み取るメッセージは「私は助けない」である。実際に経験しているしんどさとは、まさに溺れかけて助けを求めている状態に他ならない。誰でも鍛えれば水中で呼吸ができるようになるのか?
ここまではいいだろう。
じゃあ「うつ病の患者に対してがんばれは禁句です」というのはどうだろうか?
私にとっては、どうしても違和感が拭えない。
例えばこういう症例を考えたい。仮想事例であるが、モデルはいる。
私が思うに、彼にかけるべき言葉は「いままでたくさん頑張ってきましたね」とか「これからも十全に頑張っていけるように支えていきますね」であり、むしろ「あなた頑張りすぎなんですよ」「もう頑張らなくていいんですよ」はタイミングとシチュエーションによっては「わたしにはもう価値がないのか」と認知されることが容易に想像され、逆効果になりえる。
彼がいままで築き上げてきたものはすべて努力の結晶である。頑張ることの価値を毀損するような発言は彼の自尊心を傷つけることになり、治療の妨げになる。ここでテンプレ的に「あなたはもうがんばらなくていいんですよ」と告げるのは大変酷なことだ。
これは誰が言うかによっても変わってくる。例えば、この後奥さんと腹を割って話せるようになり、奥さんから「会社辞めたってなんとかなるわ、私もそろそろ現場に戻ろうかな」とか「若いころの趣味は最近どうしているの?もっと自分のしたいことを優先してもいいのよ」と言われれば大変大きな救いになるだろう。
これは極めて大事なことだが「あなたはもうがんばらなくていいんですよ」と言っただけで「そうか、わたしはもうがんばらなくていいんだ」と悟ることは、皆無である。
精神科の病室からカウンセリングルームに治療の場を移したとしよう。
その結果、クライアントが何のために頑張ってきたかが判明すると、実はクライアントの「がんばり」とは、利他的かつ自己犠牲を伴う過剰な努力に達したもののみを指していることが明らかになったとする。
「その努力方策は、その時は大変機能したが、いまはもう時代遅れになっている」ことに気づく。クライアントがどうなりたいかを真剣に考える過程で、患者が考えている「がんばる」とは別の方法で努力したほうがいいこと、そうすれば別にがんばらなくても今得ている果実は逃げていかないこと、などを悟る。
ここでカウンセラーとこんな会話をするかもしれない。
「あなたはもうがんばらなくていいんですよ」
「そうか、わたしはもうがんばらなくていいんだ」
様相が全く異なることに気づいていただけただろうか。そもそも「がんばる」の意味がかなり個別化されており、辞書的な意味では使われていない。というか、クライアントの中の「がんばる」の観念が辞書的な意味や社会通念上流通している意味とはかけ離れていることは、彼がうつ病を発症した原因をよく反映している。
だから、単に「あなたはもうがんばらなくていいんですよ」と言っても効果がないどころか反感を買うのは、そもそも発言者が使っている「がんばる」の意味と、患者が受け取る「がんばる」の意味が極めてかけ離れていることが原因の一つにある。
カウンセリングルームで起きたことは、「がんばる」の繊細な意味のすり合わせができているからこそである。
総括
こう考えてみると、私たちは同じ言葉を発しているようで、その意味のすり合わせは全くしていない。コミュニケーションの問題は言葉の裏側にある感情を読み違えることから起きている。言葉に付着した感情は個々人に特有であり、言語運用上は常にそのへんの微妙な差異を適当に吸収しているのだろう。(このあたりは、言語学の人に話を聞いてみたい)
問題が析出するのは、言葉に付着した感情が全く違うのに同じ言葉で運用しているときではないだろうか。もう一つは、その感情を知らない場合も挙げられるだろう。後者については本人の優しさや思いやりとは全く無関係である。
だからコミュニケーションがうまくいかないときには、性格や資質を疑う前にやることがあるように思えるのだ。彼はどういう意味で使っているのだろうか?どんな感情が付着しているのだろうか?
こういうことを考えていると、心理学にいくら科学的手法が導入されようと、いくら神経科学が解明されようと、心理の問題が本質的に文学であることは未来永劫変わりないという確信が強まってくる。
私達はもしかしたら、本当は何も読めていないのかもしれない。
ただわかった気になっているだけなのかもしれない、と。
じゃあどうするか。わかんないけど、困ってから考えればいいことではあるから、そのときにちゃんと話が聞ければそれで十分だと思うよ。
おまけだよ
パワハラでやめた人向け
著作権は主張しますが、これは勝手に転載されるのはいやだなあという意味であって、これを読んだ人が面接で使ってくれるのはとても嬉しいです。というか権利主張できないと思うし。
言い回しを変えるとか自分にあった文章にするとかの面接に受かるための工夫は自分でしてね。そのへんがうまくいかなければ相談してください。正規料金でお受けします。
ちなみにパワハラでやめた友人の場合は、マイナー言語の四技能を獲得するなど本当に根気のいる偉業を成し遂げている。そういう根気とパワハラに耐えるのは質的に違うことをよく表していると思う。記事中での扱いは小さくなったが、実をいうとここが本稿の本当の出発点だった。
「それは言葉の使い方がおかしいのでは?」
ここで「間違った意味で使っているほうがおかしい」と感じるのは自然な感情だと思う。そう思った方を私は祝福したい。決して嫌味ではない。
これまでしんどいことはたくさんあっただろうけど、認知的問題を起こさず、精神的に健全であり、周囲にも社会生活が送れないほど参っている人がいない、健全な議論以前の普通の会話で解決することが可能なはずだ。問題としてぴんと来ないだろう。
これは境界例の時代において大変幸運なことであり、喜ばしいことだ。なにしろ、自身が健康であり周囲も健康なのだから。
日本に住んでいる限り、明日のごはんがなく、水を飲むと腹を下し、風邪で死に、空襲警報におびえ、同胞をやむなく殺し、意見をすれば逮捕されるような事態は一応気にせずに生きていくことができる。もちろんそういう世界がすぐ隣にあって、実は日本にも迫ってきているかもしれないことは明らかになりつつあるが、そのことばかりに囚われるより前に考えることがある。まずはいただきます、ごちそうさまということだ。この平和な時代に対する感謝と喜びさえあれば、ヒトは十分豊かに生きていける。水と食べ物さえあれば、ヒトは夕日の美しさだけでも生きていけるのだ。
日本は水と安全を手に入れた代わりに、精神的な息苦しさを副作用として生んだように思える。それでもコミュニケーションの問題に上記のようなアンビバレンスに深刻な疑問を覚えないということは、それは十分な教育を受け、丁寧な議論をしつつ相手を思いやり、そして精神的に問題のない人たちに囲まれていることの証左である。これは単なる運の良さだけでは形成できない。自分の情動をコントロールしつつも自然な欲求に従うバランスのいい意思と行動が生活環境を構築した。この側面が大きいだろう。むしろ自分がこれまでコツコツと築き上げてきた環境の果実を正当に受け取っているのだ。
これは祝福すべきことである。彼らに問題意識を植え付ける行為は偽善としか言いようがない。だから、この記事は意味不明だと思ってもらって一向に構わない。
まあ、レスバしかけてきたらどうしようかな。問題意識がない人のレスバには一切応じないほうがいい気がする。本人の幸福や社会全体の厚生を損ねると感じているからだ。
臨床においては「うまくいっているなら続けろ、うまくいかなければ変えろ」という大きな方針がある。うまくいっているのなら、それでいいじゃないか。それ以上に、いままでうまくいっている人に「実は問題なんです」と言い募ることはヒポクラテスの誓いを破ることになるが、そっちのほうが咎められて然るべきではなかろうか?
「至極めんどくさい、関わりたくない」
私は完璧な言葉かけをしろと言っているのではない。むしろ、いくら患者側が繊細になっているからと言って、発言者が過度に責められる風潮には疑問を覚えている。発言者の意図に配慮不足があったとしても、上記のようにそれが発言者の責めに帰することのできないものもあるし、また受け取り側が全く責任を負わないのも自立的生活を目指す段階においては治療の妨げである。(この観点からも言いたいことがあるが、この記事の三倍くらいになるので割愛する)
しかし発言者が過度に責められる風潮は確かにある。この結果として起きることは明白だ。社会からの弱者排除である。完璧な対応をしなければ無制限の責任を問われるとなれば、最初から関わらないほうが合理的だ。
それ以上に問題なのは、その「完璧な対応」を身に着けるためのコスト、難易度、そして適性が全く考慮されておらず、また対応者のキャパシティが有限であること、現場で適切な判断を下すまでにかけられる時間が極めて短いことが都合よく無視されていることだ。だからダークインターネッツでそういうやりとりが晒されると 「完全な適性をもち、高難易度のスキルを獲得した人が、その場面を時間停止して無限の検討時間を設け、本質的問題を特定し、そこにエネルギーを100%注力する」というおおよそ非現実的な前提で検討を始める。しかもそれを「普通は」などと言って当然視している。
これがいわゆる事後諸葛亮である。
だから私は「完璧な言葉がけをしろ」というつもりは全くない。むしろ、実際に遭遇する日常的環境においてそんなことは絶対に不可能であることを強調したい。ほとんどの人は文学の適性を欠き、臨床心理学とかいう特殊なスキルは全くないか付け焼刃であり、問題は複雑多岐、正しい問いを立てられることはなく、検討時間は0.1秒、何よりその場において10%も心を割ければずいぶん優しい人だと思う。
だからこういうやりとりに関して言えることがあるとすれば「別にコミュニケーションで失敗すること自体は何も悪くないし、特に精神疾患の患者に対してはちょっとした心がけをするくらいで十分である。但し円滑な関係を築きたいのであれば、真意を知ったのちに軽く謝罪したり誤解を解く努力をすることは実はコスパがいい」ということだ。
ここで当事者が発言者を責めるのは、自分の気持ちで動いている限りは健常者と同等に扱ってよいと考える。つまり意見の合わない健常者二人がけんかしているのと一緒だから、それは二人の問題として理解したい。周りの人が仲裁することは必要かもしれないが。
ところが「当事者を味方する第三者」が発言者を「責める」のは、全くのお門違いだと断言する。
他人の気持ちに共感して代弁する「翻訳者」の立場は、紛争一般においては重要な立場だ。原告代理人として動く弁護士の仕事には、クライアントの困りごとを法律用語に翻訳して裁判官に納得させるという意味で翻訳者の側面がある。
しかし原告代理人は、原告から訴訟行為を委任され、民事訴訟法を詳細に理解し、あくまでも個別の紛争を解決することに注力し、事件が終われば一件落着である点が違う。
ダークインターネッツに跋扈する「当事者を味方する第三者」の大多数は、本人に訴権がないまたは訴訟委任されておらず、議論のレギュレーションもなく、個別具体的な紛争解決は目的とされておらず、何より事件は拡大し続ける。無関係な善良な市民を巻き込み、勝手に敵を認定し、攻撃を継続し、そしてなにより自己正当化の理論を持ち、自分の行動は攻撃には当たらないか、または攻撃であったとしても不当性はないと自認している。
これは要するに、抑圧者のためにデモ運動を展開していた参加者が、そのうちこぞって自動車をひっくり返し、家屋に放火し、商店を略奪し、女性を暴行し、デモに参加しない市民を見つけたら集団で殴り殺しているのに、これは抑圧者のためのデモの延長だから正義の行動だと叫んでいる、そういう惨状が繰り返されているといっても過言ではない。
こういう手合いに睨まれたら面倒なので、きっかけとなったデモの話題からは遠ざかろうとするのが多数の自然な心理である。その結果、抑圧者に対する表面上の差別はなくなるが、社会参加の観点からは明確に排除されるという望まない結論を導くし、実際そうなりつつある。ここで社会を恨むのは妥当だろうか?そうではないだろう。すべて抑圧者とは無関係なやじ馬が正義感を振りかざして暴れたことが原因である。抑圧者の人権を叫びながらお祭り騒ぎをするのは今すぐにやめるべきだし、いまの地獄は貴様の善意で舗装されているということを自覚すべきである。
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