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詩のこころを読む 〜茨木のり子

先日読売新聞で梯久美子さんが、
コロナの今読むべき本に茨木のり子さんの「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)を薦めておられたので、読んでみました。
ジュニア新書だけあって、とても読みやすい本です。
十代の頃にこの本に出会っていたら、もっと思春期の孤独感から解放されていたかもしれないと思う。良書でした。

「生まれて」「恋唄」「生きるじたばた」「峠」「別れ」と、人が生まれて死ぬというライフサイクルに沿った章立てになっているのですが、それぞれの章で、その章のテーマの真理を端的に捉えた記述に出会えます。

1 「生まれて」の章から
 「私はどうして今、ここにいるのだろう」
 「いったい何をやっているのだろう」
 「なんのために生まれてきたのだろう」
 (中略)両親がいたからうまれてきたのに間違いはないけれど、もう一つ別の、抽象的なルートに思いを馳せるようになったとき、人は青春の戸口に立ったことになるのでしょう。
(吉野弘「I was born」の詩を引用後)
「頼んで生まれてきたんじゃないや」と憎まれ口をたたく子どもも多く、それなのに、ああしろ、こうしろとうるさくて、割の合わない話と、子ども時代には誰もが漠然とそのように感じています。受け身形で与えられた生を、今度は、はっきり自分の生として引き受け、主体的に把握しなければならないのです。

2 「恋唄」の章から
(安西均「十一月」を引用後)
 本能にうながされてする一過性の恋は、ほぼ誰にでもできるでしょう。けれど愛はもっと意志的で持続的なもののように思います。しかも、おおかたの凡人には、まっすぐ愛におもむくことはむずかしすぎて、恋を通過することによって何とか愛にまで至るというケースが多いようです。「恋」と「愛」という言葉は混同されて同義語のように使われていますが、詩人たちはそれをかなり注意深くとりあつかっています。
(高良留美子「海鳴り」を引用後)
 女の生理現象、結合、生殖も、卑猥に語ろうとすればどこまでも卑猥にすることができるし、この詩のように、どこまでも涼しく高い次元であらわすこともできる変幻きわまりなさです。
(中略)女にとっては嫌悪でしかない月の満ち欠けに、作者は清々しい夢を託していて、このように感じている女性が一人いるとわかったことで、私たちの感じかたは変貌をよぎなくされ、一つの深い経験が加わったことになるのでした。そしてまた、女がみずからを卑しめるときは生むという行為も、どこまでも堕落し崩れさってゆくだろう・・・という、語られていない言葉が、この詩の背後から聞こえてくるようです。

3 「生きるじたばた」の章から
(谷川俊太郎「愛」を引用後)
 この世には面をそむけるような残酷なことが平然とおこなわれ、その反面、涙のにじむようなやさしさもまた、人知れず咲いていたりします。無残に断ちきろう断ちきろうとする強い力がある反面、結ばれよう結ばれようと働く力もまたあるのでした。たぶん芸術というのは、この結ばれようとする力に、美しい形をあたえ、目にみえ耳にきこえるようにしたいという精神活動の一種なのかもしれません。

4 「峠」の章から
(岸田衿子「小学校の椅子」を引用後)
 変わらなければ進歩ではないという強迫観念にかられて、なぜか焦るのが人の世ですが、短い一生に、一人の人間がなしうる仕事は、その主調音は、そう変わるものではないのかもしれません。むしろそれを簡単に手離さないことのほうが、
 だいじなことです むずかしいことです
そんな気がします。
(石垣りん「くらし」を引用後)
 「くらし」が生きものの持つあさましさをテーマにしながら、読み終えたあと一種の爽快さにひたされるのはなぜなのか。おそらくこの詩の中に浄化装置がしこまれていて、読み手がここを通過するさい、浄められて、思いもかけない方角へ送り出されるからだとおもいます。
 浄化作用を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。

 詩それ自体が素晴らしいのは確かなのですが、
 詩の評論として、このような人が必ず抱く疑問や気付くべき真理を端的に表現した茨木のり子さんの筆力に感動しました。
 一番印象的だったのは、芸術とは何か、その役割についても示されていたことです。
 十代でこれを読めなかった私ですが、この本を読んで、なんだか道が開けたような気がしました。

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