ライムンドゥス・ルルスの生涯
これの解説みたいなものです。
ライムンドゥス・ルルス(ラモン・リュイ)は1232年頃マヨルカ島の富裕な家に生まれました。マヨルカ島は長くイスラム教徒の支配下にあって、1229年に「征服王」ハイメ1世によってキリスト教圏に奪還されたばかりでした。ルルスはまだ異教の文化の色濃く残る中で育ったものと思われます。若きルルスは、後のマヨルカ王ハイメ2世の側近として宮廷に仕えて順調に出世を重ね、1257年には結婚して二人の子供をもうけています。
ルルスの人生に転機が訪れたのは1263年、30歳の時分でした。彼の晩年に匿名の弟子によって口述筆記された自伝『当世の人生 Vita coaetanea』(1311)によれば、それはある晩、自室で詩を書いていたときのことであったといいます
このキリストのヴィジョンはその後も繰り返し出現してルルスを恐怖と困惑に陥れます。5回目の出現の後、彼は寝台の中で一晩中眠れずに一体これが何を意味しているのかを考えました。
こうして彼は世俗の人生を捨てて信仰に生きることにしたのですが、果たして具体的にどうしたら神の御意にかなうのかと考えた末、異教徒をキリスト教に改宗させることを自らの使命と定めました。そして異教徒の誤謬に反駁する書物を著し、宣教師を育成する教育機関を設立することを目標に掲げたのです。しかしながら彼はそれまでろくにラテン語もアラビア語も学んだことがなかったといいます。
そのように決心をしたものの、特に行動に移さず3ヶ月ほどが過ぎたのですが、アッシジの聖フランチェスコの祝日(10月4日)に説教を聴いてフランチェスコの人生に感銘を受けたルルスは、彼に倣って財産を処分して巡礼の旅に出ます。
大陸に渡って黒い聖母像で知られるロカマドゥールや定番のサンティアゴ・デ・コンポステラなどを巡り、予定ではそれからパリに行って勉強をするはずでしたが、親戚や知人たちに故郷に戻るように説得されて結局留学は断念します。マヨルカ島に戻ったルルスは学問に取り組み、またサラセン人の奴隷を教師にアラビア語を学びました。
そうしてルルスは9年あまりを勉学に費やしたのですが、ある日、件のサラセン人がイエス・キリストの名を冒涜したことにルルスが腹を立て、酷く殴ったため、彼はルルスを恨み、後日復讐に剣で襲いかかるも殺害には至らず、逮捕されて獄中で自殺するという惨事が起こりました。ルルスとしては教師がいなくては実際困るので彼を釈放すべきか悩んでいたところ、勝手に自殺してくれたので安堵したという、実に正直な告白が記されています。
この事件の後、ルルスは近所の山(Puig de Randa)に篭もり、瞑想の生活に入りました。そしてある日、じっと天を眺めていたとき「アルス(技法)」の啓示を授かったのだといいます。
かくして1274年頃にルルスのアルスの最初のバージョンである『真理発見簡易技法 Ars compendiosa inveniendi veritatem』が著されたのです。
初期のアルスは後の『アルス・ブレヴィス』などに比べると複雑で、根本原理である「善」や「偉大」などの「神の尊厳」が『アルス・ブレヴィス』では9つですが、『簡易技法』では16もあり、またA図とT図の他にS、V、X、Y、Zなど多くの図を使用します。一方でルルスのアルスの最もユニークな要素である回転するアルファベットの円盤はこの時点ではまだありません。とはいえ普遍的な原理を組み合わせて命題を作り出していくという方法論は同じです。
ルルスはアルスのアイデアを神より授かったものとしていますが、実際にはアラビアの占星術で使われていたザイルジャというツールに着想を得たのではないかという説があります。
占星術であれば黄道十二宮を原理とするところを、ルルスのアルスは「善」や「偉大」などの神の属性を原理とし、その組み合わせによって森羅万象を網羅できると説きます。これは飲み込み難いところかもしれません。宇宙の根本的な構成要素として今の我々であれば物理法則や素粒子などを考えるのが普通でしょう。しかしルルスはイデアの実在を信じ、物質世界はイデアの影に過ぎないと考える新プラトン主義者です。したがって倫理は物質に先行するものであり、神の善が、天使の善、人間の善、生命の善、元素の善など位階を下りつつ全存在を成立させているというのがルルスの宇宙観なのです。ちなみにこれは神の99の美名が宇宙を構成していると説くイスラム神秘主義の思想に通じるところがあります。
ルルスがこの独創的なアルスなるものを考案したのは、もちろん異教徒への宣教のためです。イスラム教徒を説得するのに聖書の権威を持ち出したところで意味がありませんし、コーランを持ち出すのはさらに無意味です。そのため「神は善」「神は偉大」などキリスト教徒、イスラム教徒、あるいはユダヤ教徒でも啓典の民であれば自明である絶対的原理と、「相違、一致、対立」など、これも普遍的であることに異論のない相対的原理を基盤として、聖典の権威によらず論理のみによって中立的に信仰を論じることがアルスの方針としてあります。
1275年頃、ハイメ2世によってモンペリエに召喚されたルルスは、主君にマヨリカ島のミラマールに修道院を設け、そこで宣教師を養成するためにアラビア語の教育を行うことを進言します。1276年10月17日の教皇勅書で教皇ヨハネ 21 世によってこの修道院は認可され、フランチェスコ会の修道士13人が入りました。残念ながらここは1292年には廃止されることになりますが。
またルルスは同地で1283年頃に『簡易技法』の改訂版である 『実証技法 Ars demonstrativa』を著し、そしてここで初めて回転式円盤図を導入します(右下)。これもやはり『アルス・ブレヴィス』のものよりも複雑です。
別にこの回転円盤が無くても理論的に支障はないのですが、後世への影響を考えても、この回転する円盤というグラフィカルインターフェースの「面白さ」がルルスのアルスの普及に果たした役割は小さくないでしょう。
1287年にルルスはローマを経由して念願のパリに行きます。そして1289年まで滞在し、ソルボンヌ大学で彼のアルスを発表するのですが、どうも反応は芳しくなかったようです。
実のところ『実証技法』の図の数は16ではなく12なのですが、いずれにせよ複雑すぎて理解してもらえなかったのでしょう。その反省から以後彼はアルスの簡略化に務めます。
1293年には紆余曲折ありながらもルルスはジェノバから船でアフリカのチュニスに渡り、そこでイスラム教徒に対して自ら伝道活動に乗り出します。
ルルスは現地の知識人たちに、もしイスラム教の正当性に納得がいくようなら改宗も辞さないなどと言って議論を持ちかけるのですが、結局はイスラム教徒は神のことをまるでわかっていない、というような傲慢な暴言を吐いて怒りを買います。
そしてご自慢のアルスを持ち出してキリスト教の正しさを証明してみせようというのですが、投獄され、しかしなんとか処刑は免れて追放処分となります。
後の1307年にルルスは現アルジェリアのベジャイアで再び宣教を試みます。今度は知識人ではなく道端で通行人に演説することにしました。
そしてやっぱり牢獄送りとなり、半年ほど勾留された後に追放処分となります。
さらにルルスは帰途も災難に見舞われます。
そうして漂着したピサで書かれたのが『アルス・マグナ』こと『究極普遍技法 Ars Generalis Ultima』と、そのダイジェスト版である『アルス・ブレヴィス Ars brevis』です。「究極」と名付けられている通りこれがルルスによる最後のアルスに関する著作になります。ちなみに『普遍技法』の結語によると、1305年11月にリヨンで書き始められ、書き終わったのは1308年3月とありますから、1月に完成したという『アルス・ブレヴィス』のほうが実は先に仕上がっています。ルルスは彼のアルスについて幾度も解説を著してきましたが、後に印刷本となって普及したのは主にこの2つです。
この『普遍技法』や『アルス・ブレヴィス』は前述の通り原理や図の数が初期作に比べて大幅に整理されています。ちなみに初期のアルスの構成要素が4の倍数に基づいていたのに対して、後期のアルスは3の倍数になっているという特徴があります。
また特筆すべき変更点は、後期のアルスでは用語の定義が逐一書かれているということです。初期のアルスには原理であるところの「善」や「偉大」などにも説明がありませんでした。そして曖昧な命題に対してアルスを用いる場合は、これらの定義された術語を「適用」してアルスに沿った形にコンパイルすることが求められています。これに形式言語とオートマトンの先駆けを見たくもなりますが、残念ながらルルスのアルスはそういうものではありません。
例えばルルスによる善の定義はこうです「Bonitas est ens, ratione cuius bonum agit bonum(善とは善きものが善きことを為す理である)」。これはトートロジーでしかないように見えます。ルルスの定義は多くがこんな感じなのですが、ルルス的にはこれは能動態と受動態とそれらを結びつける媒質の相関関係を示した深遠な定義であるらしいのです。ルルスは存在とは相関性に他ならないという仏教の縁起めいた思想を持っており、父と子と聖霊の三位一体の教理もそれで解釈しています。
また、人間の定義は「Homo est animal homificans(人間は人間を生み出す動物である)」となっていますが、やはりトートロジーです(ここで「人間を生み出す」と訳した homificans は、文字通りには「人間化する」とでも訳せる多分ルルスの造語です)。そんなナンセンスな定義をもって「人間は理性があり死すべき定めの存在である」というよほど定義らしい定義より上であるとしているのは、これも事物の定義は属性ではなく特有の作用によってなされるべきであるというルルスの信念によるものです。
したがってルルスのアルスは一応形式言語と生成規則によって人間の知性を超えて命題を作り出すことができますが、その判定は形式ではなく意味のレベルにおいて術者に委ねられます。占星術師がホロスコープを見て占うのと大差無いと言えるでしょう。しかしルルスにとって重要なのは神の原理が全被造物に顕現していることを示すことであり、アルスとは円盤を回すことによって天地創造を再現する試みなのです。
そういったルルスの思想はともかく、概念のアルファベット化と回転する円盤による総当たりの組み合わせという手法は、それ自体で後世に大きな影響を与えました。
ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)はルルスの円盤を記憶術に応用しました。といっても彼の記憶術は実用的な技術というよりは、象徴主義的な形而上学というべきもので、記憶術で用いられる「像」が彼においてはイデアと同一視されています。ブルーノは著書『イデアの影 De umbris idearum』(1582)において、ルルスの円盤を30文字に拡張し、アルファベットに人物、所作、場所などを割り振って壮大なイメージの殿堂を作り上げています。
フランセス・イエイツは『イデアの影』に示唆されているものの具体的な図は示されていない、150に分割された5重の円盤図の構想を具現化して見せました。これが本当にブルーノの意図したものかは分かりませんが、こうなるともはや分かりやすく図示するというルルスの意図とは真逆のものとしか思えません。
アタナシウス・キルヒャー(1602-1680)も当然ながらルルスに多大な関心を寄せており、『知識の大技法 Ars Magna Sciendi』(1669)でルルスの『アルス・マグナ』を解説しつつ、独自の発展形も示しています。
キルヒャーの『普遍音楽 Musurgia Universalis』(1650)で紹介されている彼の発明品「音算櫃 Arca musarithmica」は機械的にポリフォニーを作曲する装置で、円盤ではなく短冊状の表を使用しますが、これも発想の根幹にはルルスのアルスがあるものと思われます。
ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)が20歳の時に発表した論文『結合法論 Dissertatio de arte combinatoria』(1666)は、ルルスの『アルス・マグナ』を参考にしたことが明言されており、そしてルルスを批判しています(「最も抽象的でなければならない絶対的述語になぜ意志、真理、叡智、美徳、栄光などというものを採ったのか、そしてなぜ美を、図形を、数を省いたのか」)。
そこでライプニッツが提案した基本概念は、 1: 点、 2: 空間、3: 間、4: 隣接、5: 遠隔、6: 端、7: 内包、8: 含有、9: 部分、10: 全体、11: 一致、12: 相違、13: 単一、14: 数、15: 複数、16: 距離、17: 可能、18: 全て、19: 付与、20: 発生、21: 領域、22: 寸法、23: 長さ、24: 幅、25: 深さ、26: 共通、27: 進行あるいは連続。
これらをクラス1概念とし、その2つの組み合わせによりクラス2概念が生み出されます。例えば9「部分」と14「数」で「量」になるなど。そして3つの組み合わせはクラス3概念となります。
ここでライプニッツが意図したのは、ルルスのような真理の演繹ではなく、少数の概念の組み合わせで全てを表現する普遍言語の創出です。この少数の要素の組み合わせは突き詰めれば2進法となり、中国の易にその具現化を見て驚くことになるわけです。
この路線は字形的数論からゲーデル数に至り、不完全性定理によってルルスのアルスは真理を論証できないことが証明されてしまうことになります(信仰という矛盾があれば別ですが)。
ルルスは1309年の秋頃にパリを訪れます。ちなみにこれは彼の4度目にして最後のパリ訪問になります。そして1310年2月10日に『アルス・ブレヴィス』の講義を行い、今回は好評を持って迎えられたようで、学士と修士40人からの承認を得ています。
彼の自伝が口述筆記されたのもこの時のパリにおいてです。その終わり近くには、1311年8月に召集され、10月に開会したヴィエンヌ公会議に向けてのルルスの取り組みが書かれているので、おそらく自伝が書かれたのは1311年9月頃のことでしょう、このときライムンドゥス・ルルスはおそらく79歳。
ルルスはアルス関連以外にも膨大な著作を手掛けており、ラテン語以外にも母語であるカタルーニャ語や、アラビア語でも書いています(ただしアラビア語の作品は現存しません)。現在彼の真作として知られているのは約265点、そしてそれ以上に大量の偽書が存在します。
どういうわけかルルスは後世に錬金術師として知られるようになったため(実際のルルスは金属変成をはっきりと否定しているのですが)ルルスの作と称する錬金術関連の偽書が大量に流布しました。そして後世のルルスの評判はそのような錬金術やカバラなどの隠秘学を扱う偽ルルス文書によるところが無視できず、それらにはルルス風の円形図が多用されていることから、本来の『アルス・マグナ』もその手の魔術の一種と受け取られてきたところがあります。逆に言うとそのようなオカルトの雰囲気を纏っていなかったらブルーノやキルヒャーはルルスに関心を持たなかったかもしれません。
さて、ここから先のルルスの人生は自伝に書かれていないので公文書等から構築するしかありません。
1311年10月16日から1312年5月6日まで開催されたヴィエンヌ公会議にルルスも出席し、一定の成果を得ました。すなわちルルスの悲願の一つである外国語教育に関して、ヘブライ語、アラビア語、カルデア語を大学や教皇庁で教えることが定められました。またルルスは十字軍の指揮系統の統一についても意見していましたが、これはテンプル騎士団の弾圧に利用されただけのようです。そしてルルスの論敵であるアヴェロエス派に対する断罪要請については無視されました。
1314年にルルスは再びチュニスに渡ります。先に「今度見かけたら殺す」と宣告されていましたが、チュニスでは1311年にクーデターによって政権が交代したので問題ありません。むしろカリフのアル・リヒヤニは後ろ盾を求めてアラゴン王国に接近し、キリスト教への改宗もほのめかしていました。それでルルスが送られたわけです。もっともこれは政治的なポーズに過ぎず、実際に改宗することはありませんでしたが。
今回はアラゴンの正式な外交官として来たルルスは、チュニスでかなりの行動の自由が保証され、そこで30ほどの著作を手掛けました。そして1315年12月に最後の本を書き上げたのを最後にルルスは歴史から姿を消します。おそらく彼はチュニスからの帰途の船上か、あるいはマヨルカ島で83歳か84歳で亡くなったものと考えられます。ルルスはパルマのサンフランシスコ教会に葬られ、彼の墓は今もそこにあります。
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