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スカルラッティとセイシャス(178)

ドメニコ・スカルラッティが1719年8月にヴァチカンの職を辞した後、いつどうしてポルトガルに渡ったのかは20年くらい前までは謎でした。1719年9月3日のとある日記に「スカルラッティ氏はイングランドに向けて旅立った」という記述があったため、ロンドンで賭博にはまって借金を作ったせいでポルトガルに逃げたのだという説もあったぐらいです。

現在では資料の発見によってスカルラッティはポルトガル王ジョアン5世によってリスボンの王室礼拝堂のマエストロとして招かれていたのだということがわかっています。正式な着任は1719年11月29日ですが、9月24日にはすでにリスボンに居たらしい。そうなると逆にイングランドに向かったというのは何だったのかという謎が生まれるのですが。

Lisbon, 1704.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aankomst_van_de_Hollands-Engelse_vloot_met_koning_Karel_III_te_Lissabon,_1704_Lisbona_(titel_op_object),_RP-P-OB-83.176.jpg

18世紀前半のリスボンはブラジルの金とダイヤモンドを背景に繁栄を謳歌していました。誇大妄想気味の浪費家であったジョアン5世を筆頭に、高位の貴族や聖職者はこぞって豪奢なバロック建築に巨費を投じ、貴重な芸術品を集めていました。その後ご存知のように1755年11月1日のリスボン大地震で皆灰燼に帰すわけですが。

さて、スカルラッティが楽長に就任した王室礼拝堂で当時オルガニストを務めていたのは、弱冠16歳のカルロス・セイシャス José António Carlos de Seixas (1704-1742) でした。王弟のアントニオ王子はスカルラッティに彼の教育も依頼します。

ドン・アントニオ王子殿下は、ポルトガル人は決して外国人には及ばないという誤った考えに導かれて、当時同じくリスボンにあった大スカルラッティに彼を教育させることを望まれた。そしてスカルラッティが彼のところに派遣されたのだが、彼が鍵盤に手を置くやいなや、スカルラッティは直ちにその偉大さを理解し「どうかあなたの方こそ私に教えてください」と言い、そして主に会ってこう述べた「殿下は私を試されましたか、御承知のようにあの者こそは私がかつて聴いた中でも最も偉大な師匠の一人です」

"José Antonio Carlos de Seixas,” José Mazza, Diccionario Biographico de Musicos Portuguezes.
https://pt.wikisource.org/wiki/Diccionario_Biographico_de_Musicos_Portuguezes
José Antonio Carlos de Seixas, (Vieira Lusitano / Jean Daulié, after 1742)

セイシャスは1704年にコインブラに生まれ、14歳にしてコインブラ大聖堂のオルガニストとなり、16歳でリスボンの王室礼拝堂のオルガニストに抜擢され生涯そのポストにありましたが、1742年に熱病で早逝しました。

現存するセイシャスの作品は100曲ほどの鍵盤独奏曲が主たるもので(帰属が確定しているものは88曲)、他にシンフォニア、チェンバロ協奏曲、宗教声楽など。1747年の記述にはセイシャスの作品として700曲の「鍵盤トッカータ」が挙げられていますが (Diogo Barbosa Machado, Bibliotheca lusitana, 1747)、おそらくその殆どは地震で失われたのでしょう。

セイシャスの作品を聴いて第一に受ける印象は「スカルラッティっぽい」というところではないでしょうか。スカルラッティのソナタに浸透しているイベリア半島の民族音楽的要素、アラブ=アンダルシア風のエキゾチックな旋律や、ギターやカスタネットを思わせるイディオムなどがセイシャスのソナタにもふんだんに現れます。ヨハン・クリスティアン・バッハとモーツァルトぐらいには似てるでしょう。

Carlos Seixas: 80 Sonatas para Instrumentos de Tecla (Kastner, 1965)
https://imslp.org/wiki/80_Sonatas_para_Instrumentos_de_Tecla_(Seixas%2C_Carlos)

そんなわけでセイシャスはスカルラッティの薫陶を受けた弟子という形で紹介されるのが常なのですが、しかしポルトガルに来たばかりのスカルラッティの作風はロージングレイヴ海賊版に散見されるような飽くまでイタリア式のものだったはずです。その時点でスカルラッティがセイシャスに教えられるのはマルチェッロ的なイタリア・バロック音楽でしかなかったでしょう。そしてスカルラッティは1729年にはリスボンを去ってしまいますから、両者の関係は約9年間(もっともその間スカルラッティは常にリスボンにいたわけでもありません)、決して短くはありませんが、しかしスカルラッティがイベリア風の独自の様式を確立して、それを弟子に学ばせるのに十分かと言えば些か疑問です。そしてセイシャスは『ヴェネツィア写本 第14巻』(1742)の年には亡くなってしまいますから、スカルラッティがバルバラ・デ・ブラガンサのために書いたソナタの大部分を知る機会を持たなかったはずです。

つまり何が言いたいのかというと、セイシャスは元々こういう芸風で、それをスカルラッティが吸収したのではないかと。上に引用したホセ・マッツァ(c.1735-1797)の『ポルトガル音楽家伝記辞典』の草稿で語られている、スカルラッティが20歳年下の少年に脱帽して教えを請うたというエピソードも、あながち愛国心による創作とばかりも言えないのではないかと。セイシャスこそスカルラッティの師なのではないかということです。

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