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バベルの図書館について

この技術であなたは23の文字のヴァリエーションについて考えることができるだろう。その変化は際限ないであろうから、それによって生成、演繹される語は蒼穹にも収まらないだろう。

ロバート・バートン『憂鬱の解剖』

1941年に発表されたホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説『バベルの図書館』は、巨大な図書館だけで構成された宇宙についての物語です。

図書館にまつわる小説は数あれど、これほどラディカルに書物と図書館に対する偏愛の深さを示した作品は他にないでしょう。

『バベルの図書館』自筆原稿

バベルの図書館の蔵書はどれも同じ体裁で、1冊410ページ、各ページ40行、各行80文字の活字で構成されています。

つまり1冊あたりに含まれる文字数は

80 × 40 × 410 = 1,312,000

使用されている文字は、22のアルファベットに、コンマ、ピリオド、スペースを加えた25種のみ。

El número de símbolos ortográficos es veinticinco.
正書法の記号の数は25である。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

バベルの図書館は、この25の記号の1,312,000の連鎖のあらゆる組み合わせを本として所蔵しているとされます(語り手はより高度な規則の存在も示唆していますが)。

つまり存在し得るすべてのテキストは既に活字化され図書館の何処かにあると言って良いでしょう。

La historia minuciosa del porvenir, las autobiografías de los arcángeles, el catálogo fiel de la Biblioteca, miles y miles de catálogos falsos, la demostración de la falacia de esos catálogos, la demostración de la falacia del catálogo verdadero, el evangelio gnóstico de Basilides, el comentario de ese evangelio, el comentario del comentario de ese evangelio, la relación verídica de tu muerte, la versión de cada libro a todas las lenguas, las interpolaciones de cada libro en todos los libros, el tratado que Beda pudo escribir (y no escribió) sobre la mitología de los sajones, los libros perdidos de Tácito.

未来の詳細な歴史、大天使たちの自伝、図書館の正確な目録、何千もの偽の目録、それらの目録の誤謬の証明、真の目録の誤謬の証明、バシリデス
のグノーシス主義の福音書、その福音書の注解、その福音書の注解の注解、あなたの死の真正なる記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本への挿入、ベーダが書くことができた(そして書かれていない)サクソン人の神話についての論文、失われたタキトゥスの書。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

異なる n 個のものから重複を許して r 個取ってできる順列の総数は n^r なので、バベルの図書館の本の総数は

25^1,312,000 ≒ 1.956 × 10^1,834,097

これは「ボルヘス数」と呼ばれています。

これらの本を全て収めるバベルの図書館の広さは如何ほどでしょう。

私たちの住む宇宙の真の大きさは不明ですが、理論的に観測可能な宇宙は半径約465億光年、すなわち 4.40×10^26 m、体積 3.57×10^80 ㎥、質料 1.84×10^53 kg ほどと見積もられています(宇宙の年齢が137億年であることから半径137億光年を観測可能な宇宙の大きさとするのは誤りです)。

こんなのは実にボルヘス数に比べれば無にも等しい小ささであり、人知の及ぶ限りの宇宙を隙間なく本で満たしたところで、バベルの図書館の蔵書数に遠く及ばないことは明らかです。

逆に、1冊50文字程度のフォーマットなら全宇宙図書館化計画によって全てのヴァリエーションを所蔵できる見込みがあるかもしれないですね。

25^50 ≒ 7.89 × 10^69

50文字で語れることは限られますが、巻を跨いで文章を続けることは可能です。その場合「語り得る全て」を本で表現するには、果たして1冊に最低何文字が必要なのでしょうか。50文字あれば十分なのか、あるいは1,312,000文字でも不足なのか。私たちはどうすれば全てを語り尽くしたことを知ることができるのか。もはや全ては語り終えられているのか。

El universo (que otros llaman la Biblioteca) se compone de un número indefinido, y tal vez infinito, de galerías hexagonales, con vastos pozos de ventilación en el medio, cercados por barandas bajísimas. Desde cualquier hexágono se ven los pisos inferiores y superiores: interminablemente. La distribución de las galerías es invariable. Veinte anaqueles, a cinco largos anaqueles por lado, cubren todos los lados menos dos; su altura, que es la de los pisos, excede apenas la de un bibliotecario normal.

宇宙(他の者は図書館と呼ぶ)は、無数の、おそらく無限の六角形の回廊で構成されており、その中央に大きな通気坑があって非常に低い手すりで囲まれている。どの六角形からも下の階と上の階が延々と眺められる。回廊の配置は不変で、二十の棚、各辺につき五つの長い棚が、二辺を除く全体を覆っている。その高さは各階のそれであり、普通の司書の身長を少し超える程度である。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

バベルの図書館は蜂の巣のように六角形の回廊を単位として構築されており、その内2辺は通路として隣の六角形に接続しています。

残る4辺には5段の本棚があり、各段に32冊の本が収められています。つまり各回廊には 4×5×32=640 冊の本があることになります。

したがって図書館には少なくとも 25^1,312,000 / 640 の回廊が存在するわけですが、素因数分解してみると

25^1,312,000 / 640
= 5^2,624,000 / 5 × 2^7
= 5^2,623,999 / 2^7

これでは割り切れません。

本の総数が5の冪乗で1回廊あたり640冊では、どう足掻いても本棚がきれいに埋まらないのが宿命です。これにボルヘスが気づいていたかどうか。

ところで、この箇所は初期稿では記述が違っていました。

“Veinticinco anaqueles, a cinco largos anaqueles por lado, cubren todos los lados menos uno.”
二十五の棚、各辺につき五つの長い棚が、一辺を除く全体を覆っている。

つまり回廊ごとに 5×5×32=800 冊となりますが、この場合もやはり割り切れない事に変わりありません。

25^1,312,000 / 800
= 5^2,624,000 / 5^2 × 2^5
= 5^2,623,998 / 2^5

そのため、図書館にイレギュラーな本が存在するという考えは理に適っているともいえるでしょう。

Los urgía el delirio de conquistar los libros del Hexágono Carmesí: libros de formato menor que los naturales; omnipotentes, ilustrados y mágicos.

彼らは真紅の六角形の書を手に入れるという妄想に駆られていた。普通よりも小さな型で、全能の、絵入りの、魔法の本。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”
Mini handwritten Quran, 1050 AH (1640CE)
http://abudervish.blogspot.com/2011/07/ancient-manuscript-review-02-mini.html

No me parece inverosímil que en algún anaquel del universo haya
un libro total; ruego a los dioses ignorados que un hombre - ¡uno solo, aunque sea, hace miles de años! - lo haya examinado y leído. Si el honor y la sabiduría y la felicidad no son para mí, que sean para otros. Que el cielo exista, aunque mi lugar sea el infierno. Que yo sea ultrajado y aniquilado, pero que en un instante, en un ser, Tu enorme Biblioteca se justifique.

私にはありえないことだとは思えないのだ、宇宙の何処かの書棚に全てを包括した一冊の本があるということが。私は知られざる神々に祈る、それがただ一人でも、何千年前であってもいい、誰かがその本を調べ、読んでいるということを。名誉と知恵と幸福が私のものでないというのなら、それは他人にやろう。天国よ在れ、私の居場所が地獄であろうとも。私が蹂躙され滅ぼされようと、その瞬間によって、存在によって、あなたの大いなる図書館が正当化されんことを。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

ところで初期稿の1辺しか開いていない六角形の場合、もう一つの回廊を接続しただけで完結してしまい、それ以上水平方向には広がれません。司書はひたすら階段を上り下りするはめになります。この階段は何故か疲れないようにできているらしいですけど。

http://pangrammaticon.blogspot.com/2007/05/floor-plan-of-babel.html

工夫すればもう少し増やすこともできますが、中継点となるのは「狭い玄関」とされているので、あまり拡張するわけにもいきません。

Jonathan Basile, Tar for Mortar: "The Library of Babel" and the Dream of Totality, 2018.
https://punctumbooks.com/titles/tar-for-mortar/

これはボルヘスの意図したところではなかったのでしょう、1956年の版で記述が変更されました。実際、このような事実上線形の構造体では、語り手の言う「図書館の古典的定義」とイメージ的に合わないような気がします。

Biblioteca es una esfera cuyo centro cabal es cualquier hexágono, cuya circunferencia es inaccesible.

図書館とはその正確な中心が任意の六角形であり、周辺に到達不能な球体である。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

これは有名な神の定義「神とは中心がどこにでもあり、周辺がどこにもない無限の球体である」(Deus est spera infinita, cuius centrum est ubique, circumferencia nusquam) のパロディに他なりません。これは著者渾身のギャグであったと思われます。

この定義はヘルメス・トリスメギストス著とされる『二十四人の賢者の書』の、24の神の定義の2番目のものなのですが、美しく矛盾したイメージの神秘性故か、ジャン・ド・マンの『薔薇物語』からパスカルの『パンセ』に至るまで盛んに引用され続けています。その辺についてはまたいずれ。

Quizá me engañen la vejez y el temor, pero sospecho que la especie humana - la única - está por extinguirse y que la Biblioteca perdurará: iluminada, solitaria, infinita, perfectamente inmóvil, armada de volúmenes preciosos, inútil, incorruptible, secreta.

老齢と恐怖に惑わされているのかもしれないが、人類という種は、その唯一のものは、絶滅に瀕しており、ただ図書館だけが残るように思われる。明るい、孤独な、無限の、完全な、不動の、貴重な書物を備えた、無用の、不壊の、秘密の図書館が。

Jorge Luis Borges, “La Biblioteca de Babel.”

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