雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【16】
単線の線路。
山と海の間を走る列車。
ゴトンゴトンとリズミカルに刻んでいく。
車窓から見える景色は、何十年も変わっていないのだろう。
途中に一箇所だけある駅は、無人駅になっていた。
何人かが降りていった。
列車は再び走り出す。
降りるのは、次の駅だった。
僕はボストンバッグを開けて、中を見た。
服と本が一冊、他は洗面道具など身の回りのものだけだった。
列車が徐々に速度を落としていった。
駅に近づいてきたのだろう。
車内にアナウンスが流れて、そろそろ停車することが知らされた。
僕は目を閉じて、大きく息を吐いた。
ここまで来たのだから、引き返すこともない。
列車が止まった。
ちらほらと降りる人たちの中に僕も混じって、列車を降りた。
改札に駅員がいた。ここは未だ、無人駅にはなってなかった。
木造の駅舎は、この百年変わっていないのだろう。
駅前の広場に、タクシーが一台止まっていた。
動物の匂いがした。
馬車が止まっていた。
観光客向けの馬車だと思っていたから、一度も乗ったことはなかった。
御者の姿は見えなかった。
僕は歩き出した。
昔住んでいた家に行ってみようと思った。
国道沿いに歩いていると、海の匂いがしてきた。
また、記憶が揺さぶられる。
葉子の声が聞きたくなった。
途中に電話ボックスがあると良いのだけれど。
天気が良くて幸いだった。
僕は傘を持っていなかった。
町にひとつだけある歩道橋を括った。
小学生の頃、この歩道橋を渡って学校に通っていた。
白いペンキは色褪せて、所々剥げて錆が浮いていた。
石碑の近くに電話ボックスを見つけた。
僕は中に入ると、ポケットから小銭を取り出して、受話器を取ると硬貨を入れた。
受話器を耳に当てるとツー、と音がした。
葉子は僕の部屋にいるだろうから、自分の家の電話にかけた。
呼び出しの音がして、葉子が電話に出た。
「もしもし」
「葉子さん」
「嬉しいわ。あなたのお声を聞きたくなっていたのよ」
「着きました」
「お久しぶりの故郷ですわね」
「はい」
「そちらのお天気はいかがですの?」
「晴れてて良い陽気です」
「これからですの?」
「そうです。駅について、途中の電話ボックスからかけています」
「そうですのね。お懐かしくお感じかしら?」
「未だそんなには。少しはあります」
「町はお変わりかしら?」
「駅に馬車が停まっていました。変わってないようです」
「馬車…お乗りになればよろしいのに…遠いのではなくて?」
「大丈夫ですよ」
「お帰りはいつ頃になるのかしら?」
「予定では、今日の夕方に、同じ寝台列車の上り乗りますから、明日の朝には帰ります」
「明日の朝ですのね」
「はい」
「お迎えに参りますわ」
「それは、嬉しいですが、そんなに甘えて良いのでしょうか?」
「甘えではありませんわ。私がお迎えに行きたいのですから」
「嬉しいです。葉子さん」
「ご無理なさらないでね」
「はい」
「無茶もなさらないでね」
「はい」
「ご無事にお帰りになってね」
「はい。葉子さん。申し訳ないのですが、そろそろ小銭が切れそうなので、この辺で切ります。またお電話します」
「あら、いけませんわね、長くお話ししてしまってわ。わかりましたわ」
「では、またお電話します」
「お待ちしてます」
僕は受話器を戻した。
葉子の声は、僕の心を満たしてくれた。
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