紅茶を飲む時
コーヒーか紅茶かと問われたら、ほとんどの場合、コーヒーと答えている。
紅茶が嫌いなわけではない。
ただ、どちらを選択しなければならないとしたら、コーヒーと答えているだけのことだ。
モカかキリマンジャロかと問われたら、一瞬迷うかもしれない。
アッサムかダージリンかと問われても同じだろう。
人は選択の生き物だ。
多くのことを選ぶ。
判断する、と言っても良いだろう。
判断しやすいのなら、何も問題もない。
判断に迷う時、それは問題を生む。
選んだ結果が悪ければ悪いなりに、対処のしようもある。
なんとなくもやもやしただけだとしたら、問題があるのかないのかもわからず、気を揉み続けることになるだろう。
どうして、こんなことが起きるのだろう。
インターホンが鳴ったので、出てみると、モニターに伯父さんが映っていた。
お届けものです。
なんだ、伯父さんか。
なんだとはなんだ、なんだとは。
どうしたの?
お届けものだ。開けなさい。
僕はマンションの入り口を開けた。
暫くして、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると伯父さんがいた。
オートロックという名称は変えた方がよろしい。
どうして?
玄関のモニターで確認してロックを明け締めすることは、自動なのか?
うーん。ロックはオートだけど、セキュリティは手動というか任意というか。
だったら、最初からそう言えばよろしい。
めんどくさいなあ。
細かいことでも手を抜かない。それが事に当たる上での真っ当な姿勢だ。
塩梅が大事ともいうよ。
わしは梅干しは嫌いだ。
その塩梅じゃないよ。
ところで、何をしておった?
考え事。
またか。
まただよ。
相変わらずちまちまと生きておるなあ、お前は。
ちまちまと生きてるよ。
もっと大胆に生きなさい。細かいことは気にせず。
さっきは細かいことでも手を抜くな、って言ったよ。
その通り。これは矛盾だ。人間は矛盾を抱えた動物だから、何の問題もない。
伯父さんは人間なの?
人間だった。だな。
上の人から怒られないの?いい加減、人間の要素を捨てなさいとか。
なあに、心配せんでもよろしい。大丈夫だ。
心配してないよ。
お前はたったひとりの伯父さんのことを心配せんのか?
心配してるよ。
そうか。
そうだよ。
おっと、忘れるところだった。届けものだ。ほれ。
伯父さんは紙袋をかざした。
僕は受け取って、中のものを取り出した。
こじんまりとした天秤ばかりだった。
どうしたの、これ?
それは紀元前5世紀のエジプトで使われていた天秤ばかりだ。
へえ、それはすごいね。
なんだ。もっと驚かんか。
へえええ、それはすごいねええ。
わざとらしいが、まあ良い。
それで、どうしたの、これ?
ちょいと拝借と言って、七千年借りっぱなしになっとった。
伯父さんは、図書館の本も返さないでしょ、きっと。
失礼な奴だな。わしはアレクサンドリア図書館しか使ったことはないが、借りた本なら返しとるぞ。
それなら良いけど。
その後図書館は焼け落ちたから、返せなかった書巻がある。
返せなかった、ね…。
なんだ、その疑り深い目は。
まあ、良いけど。
返せなくて良心が痛んでおる。
良心ね…。
なんだ、その疑り深い目は。
まあ、良いけど。
ところで、その天秤ばかりだが、量れないものはない。
量れないものはない?
左様。その皿に乗らないものも量れる、実に利便性が高いものだ。
たとえば、どんなものが量れるの?
そうだなあ…今、どっちにしようか悩んでおることはあるか?
うーん…そうだなあ、特にないなあ。
白けた奴だな、我が甥ながら。
伯父さんの甥だよ。
そうだ、お前、まだ小屋を残していたな。
小屋の話はやめてよ。
あれはお前の残滓だ。だから、小屋を壊すか、壊さないか、どっちだ?
そんなこと急に言われても。
ほら見ろ、悩んでおる。
うーん。
その秤の皿に、壊す、壊さない、と言葉を言ってみろ。
えー。
良いから、やってみなさい。
壊す、壊さない…あ、すごい、動いた。
ほら、な、言葉も量れる。
壊さない、の皿が下がったよ。
そちらの価値が重いということだ。
なるほど。
壊しなさい。
え?
小屋を壊しなさい。
今すぐ?
そうだ。
小屋はシベリアなんだけど。
行って来なさい。
そんな無茶な。
思い立ったが吉日という。
伯父さんはダイナミックだなあ。
その方が人生楽しめるぞ。
いきなりは流石に無理だよ。
その天秤ばかりに、今、後、と言ってみなさい。
今、後。…あ、今が下がった。
ほら、な。
ほら、な、じゃないよ。
なぜだ。
価値を知るというのは、選択判断を支える根拠だけど、最終的には、意思によるんじゃないかな。
ほほう。いっぱしのことが言えるようになったな。
たとえばさ、悪いことと知っていて、天秤ばかりでも、悪い方の価値が軽くて皿が上がったとするじゃない?
ふむ。
でも、悪い方をすることや、そうせざるを得ないことってあると思うんだよね。
ふむ。
それこそ、意思じゃないかと思うんだ。意思というのは、善悪の彼岸にあると思うんだよね。
途中までは同意だ。だが、最後は修正が必要だな。
何か間違った?
善悪の彼岸にあるのは、人でも意思でもない。善悪の彼岸には、人も意思も到底立てない。人である限り。
それは…
まあ、待て。最後まで聞きなさい。善悪の彼岸という時、善悪という定義を置いていること自体、既に思考の枠を嵌めておる。人間の限界を規定しておる。そもそも彼岸に、善悪などないのだ。そこはエントロピーの死だけがある、静寂の世界なのだ。
ああ、そっか。
左様。彼岸に人は立てないというのは、そういうことだ。
ただ、の、があるよ。
の?
善悪の、の、の。
の、など鼻くそみたいなものだ。
口が悪いなあ。
口が悪いのは生まれつきだ。
伯父さん、生まれたことあるの?
生まれたからこうしておる。
伯父さんは最初から伯父さんだと思ってた。
開闢以来というのは、神様だけだ。
神様って言って良いんだ。
当たり前だ。あれとかそれとかとでも言うと思ってたのか?
思ってた。
神様は神様だ。יהוהなんて、発音がめんどくさい。
יהוה
それは不敬だぞ。
あ、声にしてはいけないんだった。
その天秤ばかりはお前にやろう。
いいよ。
遠慮するな。
遠慮するよ。だって、伯父さんが拝借したものでしょ?
なあに、持ち主は死んでおる。
持ち主は死んでいても、持ち物は帰属するんじゃないの?
それは人間の作った法律だ。死んでしまったら、帰属権も消滅する。
そうなの?
お前は、そのお気に入りの腕時計を死んだ後も使えると思うか?
思わないよ。
そうだろう。そういうことだ。
でも、僕は貰わないよ。
なら、この部屋に置いておくから、好きに使いなさい。
持って帰って欲しいんだけどなあ。
人の好意は素直に受けるものだ。
えー。あ、いなくなった。
伯父さんは、都合が悪くなると消える癖があった。
逃げ足も早い。
僕は紅茶を飲みたくなった。
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