雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【17】

雲を掴むような話だろう。

誰だってそうだ。

自分のことを誰も彼もが、一日だけしか覚えてくれないなんて、そんなことを言われても、はいそうですか、と即答できないだろう。

ところが、葉子は違っていた。

「まあ、そうなのですのね」

「驚きましたか?」

「驚きましたわ」

「でも、そんな風には」

「とっても驚きましたのよ」

「ちっとも驚いているようには」

「どきどきしてますのよ。ほら」

葉子は、僕の手を取ると、自分の胸に当てた。その動きは滑らかで素早く、躊躇いがなかった。
僕は腕を引っ込めることもできなくて、葉子の胸に手のひらを当てた。

「ほら、ね、どきどきしてますでしょ」

「はい」

どきどきしてるのは僕の方だった。

「どうしてですの?」

「人が、僕を忘れてしまうことがですか?」

「はい」

「わかりません」

「どうしてですの?」

「葉子さんだけが、僕を忘れないことが、ですか?」

「はい」

「わかりません。いえ、むしろ、僕がお尋ねしたいことです」

「どうしてなのか…私もわかりませんわ。だって、そうなのですもの」

「そうですよね…」

「誰かに覚えられても一日だけなんて、私には耐えられませんわ…。ても、耐えるしかない…そう思って、今まで生きていらしたのね…」

「それが定めなら、仕方ないな、としか」

「諦めて生きていらしたのね…」

「どうでしょう、諦めてなのかどうか。いつの間にか、そうなんだと思っていただけですよ」

「ご両親は?」

「皆と同じです」

「どうやって…いえ…これ以上お尋ねするのは、興味本位、好奇心になってしまいますわね…。ごめんなさい…」

「あ、いえ、構いません」

「でも…」

「実は、漠然としているのです」

「漠然と?」

「いろいろとあった筈なんですが、靄がかかったように、曖昧な記憶しかないのです」

「お育てになるのに、支障があったのでは?」

「きっとそうでしょう。今日可愛がった赤ちゃんが、翌日は見ず知らずの赤ちゃんになってしまうなんて、親にとっては悪夢だったと思います」

葉子は頷いた。

「捨てられてもおかしくなかったと思っています」

葉子の瞳が潤んだかと思ったら、涙が溢れ始めた。

僕は慌ててハンカチを取り出して、葉子に渡した。

「ありがとうございます…みっともないですわね…泣きたいのはあなたなのに…」

「泣いてくださって…なんと言えば良いか…僕の代わりに…」

葉子は鼻をぐすぐすとしながら言った。

「こんな数奇な運命を背負っていらっしゃったのね…」

「数奇かどうか。でも、そうなのでしょうね、数奇…思っていませんでした」

「だからですのね…」

「何がでしょう?」

「明るくて穏やかで温かいのに…深い悲しみが目の奥に沈んでいらっしゃるの…」

「葉子さん」

「初めてお会いした時、思いましたの。なんて悲しい目をしている方だろうって」

僕は黙って聞いていた。

「気になって…それから、時々、見ていましたのよ?あなたに気づかれないように」

葉子はハンカチで頬を拭った。

「気づきませんでした」

「あなたより先に、私が見つけましたのよ、あなたのことを」

「あれは…そう、桜の花が満開の頃、何十人もの新入社員の中で、一人だけ、髪が短い女性がいました。葉子さん、あなたでしたね」

「まあ」

「覚えていますよ」

「お恥ずかしいですわ」

「飛び抜けて可愛くて、元気で明るい人だなあ、と思っていました」

「もう。およしになって。恥ずかしいわ」

「わかりました」

「もう。目も隙もありませんわ。最初から目をつけていらっしゃったのね?」

僕は笑った。

葉子も笑った。

「葉子さん、寒くありませんか?」

葉子は僕のパジャマを着て、毛布にくるまっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?