雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【13】

僕は名刺を受け取りながら言った。

「ありがとうございます」

そして、思ったことも正直に付け加えた。

「拝見して…とても漢字が多いですね。何文字あるのでしょう。お名前は、本庄蝉丸さんと仰るのですね。蝉丸さんとはお珍しいお名前ですね」

「36文字あります。名前を入れると40文字。住所を入れると更に。蝉丸というのは、平安時代の歌人の名前です。ところで、小倉百人一首はご存知ですかな?」

「いえ。寡聞にして、存じ上げません」

「そうですか。古い歌集です。平安時代に藤原定家が短歌を百首集めた秀歌撰です。その中に、蝉丸の歌があります」

「そうなのですね」

本庄はじっと僕を見た。

「なんでしょうか?」

「知りたくはないですかな?」

「何をでしょうか?写真のこと場所のことなら、是非」

僕はそのために来たのだ。

「そうですな。場所のこと。そうでした。それが主ですな。そう尋ねられたら、そう思うのも無理はないこと。ですが、今、私が申し上げたのは、蝉丸の歌のことです」

「歌ですか」

「歌です」

「それが、写真のこと、場所のことと何か関係が?」

「ありません」

僕は黙った。

「知りたくはないですかな?」

坊主めくりだと思った。
裏返しの札。
正解は二つにひとつ。

「そうですね。これも何かのご縁。知ってみることにしましょう」

「それは良かった。何よりです」

「どんな歌なんですか?」

本庄は頷いた。

「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」

「ありがとうございます。なんとなく、心に響くものがあります。良い歌なのでしょうね」

「良い歌かどうか。朴念仁の私は吟じるだけです。ただ、私は好きです。自分と同じ名前の歌人の歌だから、親しみが湧くからでしょうな。面白いのは、この歌だけ、百首の歌の中で、濁点と半濁点が使われてないのです」

「濁点と半濁点」

「そうです。歌も話も、実の所、言の葉の端々に、多くに濁りがあるのです。ただ、濁りといっても、それは音を作り、波を作り、揺れを作り、調べを作るので、必要な濁りです」

「そうなのですね」

「ほら、そうなので、です」

「ああ、確かに」

「左様。なかなか面白いですな。言葉というのは」

「歌は良いように思いました。ただ、意味は良くは分かりませんでした」

「良いのです。それで」

「それで、本庄さん」

「写真のこと、場所のことですな。勿体ぶっているわけではないのですが、あなたにとっては焦ったいことでしょうな」

僕は頷いた。

「立ち話もなんですから、駅前の喫茶店にでも参りましょう。話はそこで。ついでにコーヒーでもいかがですかな?図書館でお手間を取らせたお詫びに」

「喫茶店は、はい、喜んで。ただ、コーヒーは、どうかお気遣いなく」

「そうは参りません。図書館に入られる前にお声掛けしなかったのは私の落ち度です、ご迷惑をおかけしたのですから、なにとぞ」

「ですが」

「ご遠慮なく。さあ、すぐそこです。参りませんか」

「そこまで仰るなら、わかりました。謹んで承ります」

本庄は微笑むと頷いた。

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