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「光琳派はすべて茶道の表現である」 岡倉天心

 俵屋宗達の年表で最初に出てくるのは「平家納経の修復」という事項である。それ以前のことは何も出てこない。一人の絵師として絵のスタイルが固まるのが30歳台であるという美術関係者の話を元に「平家納経の修復 宗達、三十歳台」という記述が導き出されたらしい。
 これは、私にとって都合の良い話である。さらに彼の妻と本阿弥光悦の妻が姉妹で、二人は姻戚関係にあったようだ。ただ、どっちの妻が姉で妹なのかは不明とか。
 一人の人物を調べるために、周りの人間の記録を調べる。そうする事で対象の人物を浮き上がらせる。前作でも使った手法である。今回も、この方法以外には思いつかない。しかし、状況はさらに厳しさを増しているのだが。
 長谷川等伯を書いた時は基礎知識として岡倉天心の「茶の本」を読んだ。そして今回の俵屋宗達を書くために琳派の創始者である本阿弥光悦を調べ、さらに彼が茶道を学んだ小堀遠州を調べた。その関連で岡倉天心の「茶の本」を読み返した。すると、そこで重要なキーワードを見つけてしまった。その一言とは皮肉にも、ズッポリなのだ。
「光琳派はすべて茶道の表現である」
 という一文である。これまた天佑、正に天の啓示であると思った。そうなると、本阿弥光悦が茶の湯の指導を受けた小堀遠州の大名茶が、俵屋宗達を書くにあたって重要になってくるわけだ。やはり遠州流の茶道を習いに行かないと、創作作業に支障を生じるだろうと思えた。そこでお稽古好きの性癖が頭をもたげて来て、早々に都内で通いやすい教室を探した。一ヶ所、最適な教室を見つけた。決行するのみである。
 裏千家のおっしょさんには、なんと言おうか、と今から悩んでいる。いずれにせよ、裏千家は続けるつもりでいる。(※上の写真は、枯山水の対極にある六義園の「大名庭園」である。)


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