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「ありふれた演劇について」46

少し前になるが、こまばアゴラ劇場でムニ『ことばにない』後編を観た。「レズビアンアイデンティティを巡る演劇」(公式HPより)を銘打った作品で、「後編」とついている通り、昨年(2022年)上演された「前編」の続編に当たる。上演時間は前編だけで4時間、後編も4時間半あり、身の回りでは内容だけでなくその長大さについても噂になっていた。

私は前編は観ることが叶わなかったので、上演台本を購入して読んだうえで後編を観劇した。同じ高校の演劇部だった4人を中心とした様々な登場人物たちが、かつての顧問の死と彼女の残した台本をきっかけにそれぞれの葛藤に直面し、軋轢や不和の顕現、すれ違いを繰り返しながら物語は進んでいく。4時間半の上演時間の間にあらゆる劇的なドラマが生まれ、目の前で展開していたわけだが、いわゆる「超大作」を観たというような体感はなかった。どちらかと言えば、これまで自分のいた日常の延長線上にこの上演があり、終わった後も引き続き日常は続いていく、そういった感覚があった。

確かに本作には夢とも妄想ともつかないような、抽象的な存在が登場するシーンもあるし、歌や踊りのような「見ごたえのある」シーンも盛り込まれている。普通であればこういったシーンは非現実的なイリュージョンを生みだしたり、日常の些事を忘れて陶酔するような感覚を与えたりするものだが、本作ではそうした効果がふんだんに発揮されていたわけではないように思えた。むしろ、あまりそういう効果を与えすぎないように設えられているような印象があった。

具体的にどういう要素がそういった印象を与えていたかと言えば、おそらく時間の処理の方法が挙げられるだろう。通常、劇的な時間は決して均一ではなく、観客の感覚に合わせて緩急がつけられる。現実にはあり得ないような時間の省略や引き延ばしを行いつつ、最大限の劇的な効果を上げることが図られる。そのためには衣装の早替えも行われるし、実際の心理の流れとは乖離した早いテンポで会話が交わされることもある。しかしもちろん、現実の時間は決してそのようには流れていない。俳優が台詞を忘れたり、装置の転換でトラブルがあったりして劇の進行が停滞したときの感覚を「現実に戻される」と言うように、現実の時間は無駄で意味のない時間に溢れている。『ことばにない』の時間の感覚は、どちらかと言えばこの現実の時間の感覚に近いものがあった。

とはいえもちろん、転形劇場の『水の駅』のように時間をことさらに引き延ばして提示するわけではないし、時間の操作こそが作品の中心に置かれているとも感じなかった。あくまでも作品の中心は「物語ること」にあったと思う。しかし個人的に印象深かったのは、まさにその「物語る」という目的のために、こうした時間の操作をしているように思えたことだ。

多くの場合、ある物語を伝えるために劇的な時間の操作は行われる。時間を劇的でなくするということは、直感的にはその分「物語ること」「ドラマを伝えること」からは遠ざかると思われる。しかし『ことばにない』の場合は逆説的に、「物語る」ためにあえて劇的な時間を排除していたのではないか。陶酔することなく、現実を過ごすような感覚のまま物語を受容することによって、この物語がまさに生きている自分たちの物語であると思える。ともすれば、物語と現実は二項対立の概念ではなく、すでに現実の中に物語は多く紛れ込んでおり、ここで観ている物語はそうした現実の中の物語のひとつなのではないか。そういう風にも感じられてくる。

また最近、オル太による公演『ニッポン・イデオロギー』も観劇した。こちらも全6章、それぞれ1時間ほどのパフォーマンスから成る長大な作品であり、『ことばにない』と同じく時間の都合で半分ほど(第1章から第3章まで)しか見られなかったのだが、時間の操作と物語の語り方という意味でも、『ことばにない』と通じるものを感じた。

少なくとも私の観た範囲において、『ニッポン・イデオロギー』は『ことばにない』とは違って俳優の役柄も変わり続けるし、リニアな物語というものも存在しない。俳優たちは短いシークエンスや引用を繰り返しつつ、天皇制や戦後教育、源氏物語といった「ニッポン」の「イデオロギー」にまつわる様々なモチーフを展開していく。

印象的だったのは、それらのパフォーマンスが脱力した身体と非常に低い熱量でだらだらと続けられることだ。会場であるBankART Stationを広く使った舞台空間はスカスカで、照明は常に明るく全面を照らしており、台詞のない俳優も舞台装置もあちこちに散らばっているので観客の視線は非常に自由だ。時間的な緩急も特になく、陶酔することも見入ることもないまま作品は続く。一定の集中力で、合間に客席の入れ替えも挟みつつ、3章分の所要時間である4時間ほどを会場で過ごしていると、だんだんとここで語られている物語が自分の現実と溶け合っていくような、そんな奇妙な感覚を覚えた。

『ことばにない』や『ニッポン・イデオロギー』が孕んでいた、非劇的な時間感覚による陶酔しない観劇体験は、これからの劇場のあり方を考えるヒントにもなるだろう。祝祭や祭礼ではなく、美食的な楽しみを提供する場所ではなく、教育のための場でもなく、まさに自分たちの現実を生きるための場所として劇場というものを考えたときに、こうした上演の形は現代においてひとつの有効な回答になり得る。

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