見出し画像

なんだかんだと、書いている。

※この記事は投げ銭制です。全文読めます。

 「将来、透析を考えなければならないかもしれないですね」

 その日の尿や血液検査の結果をプリントアウトした用紙に、細かい書き込みをしながら主治医は言った。いつもより少し固い声で。
 私もそのプリントアウトを見ながら、眉根をぐっと寄せた。腎機能の値が、過去最悪に悪くなっている。貧血も進行している。毎日行っている朝晩の血圧測定の数値も、この数週間はやたら高かった。血圧130を超えたら、なんてCMがかわいく思えるくらいに。
 主治医はその後、必ずそうなるというわけではないですから、この値をなるべくキープしていけるように様子を見ていきましょう、と、処方箋の用紙に判子を押した。声がなぐさめるような口調に変わっていた。

 診察後、最近の恒例となってしまった生理食塩水の点滴を受けに処置室へ向かう。受付票を渡すと、すぐ空いていたベッドに通された。もそもそと車いすからベッドに移る。見慣れた、蟻の巣みたいな小さな穴がたくさんついている天井が目に入る。
「左腕から、でしたね」
 すっかり顔なじみになってしまった、処置室のA看護師が点滴の用意をしつつ言った。はい、と素直に応じつつ、左腕の袖をまくる。いつもの血管に針刺しされる。スムーズに針は通り、液がからだに流れはじめる。
「じゃ、いつも通り2時間で入れますね。なにかあったら言ってください」
 はい、とまた応じてから、ふうと息をつく。暇なので空いた右手でスマートフォンをいじり、Twitterやらをぼんやり眺めているうちうたた寝してしまい、気づいたら点滴は全部私のからだのなかに流れ終わっていた。


 なんだかんだと、書き続けていた。体調の波があるので毎日とはいかないのが悔しいが、なんだかんだと。

 先日、電動車いすユーザーの方が電車の「乗車拒否」をされた、というブログが話題になった。そのことについて書いてもらえませんかと依頼を受け、思うことを書いてみた。

 社会問題となりそうな大きなできごとだったこともあってか、ありがたくも思いがけずたくさんの方に読んでいただいた。担当編集さんから「ヤフーでの読まれ方がすごいです」とメッセージがきて、総合アクセスランキングのトップに私の記事があるスクリーンショットまでを送ってくださった。
 その翌日だったか、母がパート帰りに家をたずねてきた。母はよくふらりと家にやってくる。そして私や相方の淹れたたいしてうまくもないインスタントコーヒーを飲みつつ、他愛ない会話をする。
 その日、「ちょっと、これ、お前書いたんだが?」と、スマートフォンを差し出した。
 くわしく聞くと、スマートフォンに一日何度か流れてくるネットニュースのお知らせのなかに、私の記事があったらしい。母は普段、そういうニュースお知らせは無視しているのだが、タイトルを見て、これは私の書いたものじゃないかと思い、それで詳しいことに聞きにきた、とのことだった。
 私がこうこうこういう事情で、と詳細を話すと、母は改めて記事を読み直し「いや、すごいんね」と笑った。そして「鎌倉のおんちゃんさ似たんだな」と続けた。

 鎌倉のおんちゃん、とは、母の叔父、つまり私の大叔父にあたるひとだ。もう亡くなって十五年近くはたつか。住まいは鎌倉だったが生まれは私の住む市の隣町だ。
 鎌倉のおんちゃんの職業は、いわゆる教育評論家、というものだった。
 へき地教育に長年携わっていて、教育系の媒体に寄稿したりして生計をたててきた、らしい。著作もあるようだが詳しくは知らない。詳細は書かないが母は「故郷を捨てたひと」だ。だから若い頃や実家、親族のことをほとんど語ったことがない。特に母の母、つまり私にとって母方の祖母とはいろいろあったらしく、どんなひとだったのか、見事なくらいにひとことも話したことがない。写真もない。名前すら聞かされていない。

 鎌倉のおんちゃんとも、いろいろあったのか。それもわからないが、おんちゃんは生前、年に二、三度帰省し、私の実家に泊まっていくのが恒例となっていた。幼い私や弟にいろんな話をしたが、教育評論家なんていう職業柄か話題がややこしかった。母もそういうところはあまり好きではなかったようで「話がめんどくさくてねえ」と愚痴ったのを聞いたことがある。私も正直あまり好意は持っていなかった。

 だがある年。例のごとく実家に泊まりにきた時、ちょっと印象が変わったできごとがあった。
 大叔父が父を相手にしたたか飲んだ翌朝。私が自分の部屋から居間に向かうと、テーブルの上に原稿用紙と辞書、万年筆が無造作に置かれていた。数枚の原稿用紙は、大叔父独特の曲がりくねった文字でびっしりと埋まっていた。
 思いがけぬものにじっと見ていると、隣室から起き出した大叔父がやってきた。そして「いやあ、酔っぱらった頭で原稿書いちゃったよ」と語った。
 ああ、こうやって、書いて生きてるんだ。
 当時、すでに落書きじみた小説を書いていた私にとって、その原稿や言葉はなにかずっしりと響くものがあった。
 もっとも、大叔父は没後、結構な面倒ごとを遺していってしまい、父母や母の親戚筋にかなりの負担を与えた。母は仏壇に置いてあった大叔父の写真を「まったく、なにも考えねで笑って。ああ、見たくもない」と、仏壇の引き出しに写真を押し込んでしまった。以来、その写真はしまわれっぱなしだ。だから私も、ああいう光景を目にしていても、やはり大叔父には好意を持てないままだ。

 鎌倉のおんちゃんの話が、思いがけず長くなってしまった。
 ともかく、母はそういう大叔父の血を引いたんだな、大したもんだ、と感じたようだ。私は「いや、別にそんなこともないんだろうけど」と、曖昧に返事するしかなかった。駄文を書くしかできない私より、70を過ぎた今でもパートに出向き、常に家をきれいに保ち、庭先やすぐ目の前にある公園の植え込みの隙間にたくさんの花を植え、端正込めて世話をしている母の方が、よほど「すごいんね」と思う。そういう細々した日々の暮らしを保つことが、どれだけ尊いか。もちろん、そういう生き方だけがすべてではない。ひとりひとり、いろんな生き方があるべきだ。でもきれいに掃除された実家に行くたび、やはりそんなことを思ってしまう。


 冒頭に書いた体調悪化の件があってから、死に際のことが頭に浮かぶようになった。
 いつなにが起きてもいいように身辺整理をしておこうか。遺書の勉強や準備もはじめるか。遺書を作るとしたらまず書かねばならないのは、葬式は不要、骨は散骨、毎年のお参りなど面倒ごとはいらない、といったところだな。そんなことをぼんやり考えていた。
 そんなことを少しTwitterで書いたら、ある方が私を案ずる言葉とたくさんの風景写真をメッセージで送ってくださった。静かな海を照らす夕陽。波ひとつなく流れる川。太陽を背に凛とたたずむ鳥居。どれも今の私では見ることのできない光景ばかり。
 こんな世界が、あるんだなあ。
 子どもみたいな目で写真に見入っていると、気づいたら遺書のことは頭からすっと消えていた。
 そしてまた、なんだかんだと文章を書き連ねている。

 

ここから先は

0字

¥ 150

いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。