見出し画像

近代的有限性と古代的有限性--ラカンとフーコーのあいだから

* 本能と欲動

人間はある意味で「過剰」を抱えた生き物であるといえます。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程ということになります。

この点、精神分析の世界ではこのような過剰な認知エネルギーを「欲動」と呼びます。人間の根底にはその一方で哺乳類としての「本能」があるかもしれませんが、それは流動的で可塑性を持った「欲動」のレベルにおいて一種の本能からの逸脱として再形成されることになります。

したがって人間は「本能」のままに生きているわけではなく、流動的で可塑性を持った「欲動」に突き動かされた結果として常に「本能」から逸脱した倒錯的な存在であるといえます。例えば我々がいわゆる「正常」だと思っている価値規範も、たまたまマジョリティの逸脱傾向と一致しただけの「正常という逸脱」「正常という倒錯」に過ぎないということです。

* 欲望の在り処

そして、このような過剰な認知エネルギーを制限して「有限化」することを「主体化」といいます。この点、生まれてしばらくの間の子どもはまだ自己が成立しておらず〈母〉との一体的な状態な段階が想定されます。ここでいう〈母〉とは実際の母親に限らず養育者的立場にある他者の場を指しています。

このような広い意味での〈母〉を子どもは必要としていますが〈母〉は常に自分のそばにいてくれるわけではなく、時に子供の前から突然いなくなったりすることもあります。このような〈母〉の「現前」と「不在」の理由がわからない子どもは不安な状態に置かれる事になります。このような状態を精神分析では「疎外」といいます。そしてこれが「主体化」が始まる契機となります。

そこにもうひとりの人物が介入します。これが〈父〉です。ここでいう〈父〉とはやはり実際にの父親ではなく母子一体の世界に踏み込んでくる第三者的な他者の場を指しています。こうした〈父〉の介入を精神分析では「去勢」といいます。こうして原初的な母子一体感はまず〈母〉の現前と不在により崩れ、そしてその究極的な理由として〈父〉という第三者に求められることになります。

すなわち「去勢」とは原初的な母子一体の世界にはもはや戻れないという決定的な「欠如」を子どもに引き受けされるプロセスをいいます(厳密に言えば「去勢」を経ることで「かつてあったはずの」原初的な母子一体の世界という神話が遡及的に想定されることになります)。そして、こうした「去勢」による〈母〉の決定的な「欠如」を埋めようとする運動が「欲望」です。

* 想像界・象徴界・現実界

精神分析中興の祖にして時に構造主義の代表的論客としても位置付けられるフランスの精神分析家ジャック・ラカンはこのような過剰性を抱えた人間が「有限化=主体化」を果たすプロセスを捉えるための独創的な(そして極めて難解な)精神分析理論を構築したことで知られています。

まずラカンは大きく「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域で人の精神を捉えます。第一の「想像界」はイメージの領域で、第二の「象徴界」は言語の領域を指しており、この二つの領域が合わさって人間の認識を成り立たせています。つまり、ある事物はイメージによって知覚され、それが言語によって区別されるということです。そして第三の「現実界」はイメージでも言語でも捉えられない、つまり人間の認識から逃れる領域を指しています。

* 鏡像段階

人の発達段階においてはまずイメージの世界が形成されます。まだ自己がはっきりせず、過剰な刺激の嵐に晒されている生まれたばかりの子どもは対象を充分に区分できず全ての境界は曖昧でぼんやりとつながっています。そこに言語が介入してイメージのつながりを名前によって切断します。こうして、さまざまな名前が世界をさまざまな対象に分けていきます。その過程で子どもは鏡の前で自分の名前を呼ばれて、その人まとまりのイメージを自分のものとして引き受けることになります。このような契機をラカンは「鏡像段階」と呼びます。

鏡像段階において子どもは自分自身の全体像を鏡によって間接的にしかも反転した鏡像という「他者」の形で見ることになります。すなわち、人は鏡像を通じて自己イメージを手に入れるということです。この点、鏡像段階とはある種の寓話であり、実際の鏡像というのは単に鏡に映った姿だけではなく周囲の他者一般を指しています。ここで重要なのは自己イメージとは常に他者から与えられるということです。

* 享楽と対象 a

そして、やがて「去勢」により「想像界」に対して「象徴界」が優位になります。象徴界の優位とは世界が客観化されることであり、それは同時にあの原初の母子一体的な満足を喪失すること意味しています。ここでいう原初的な母子一体的な満足をラカンは「享楽」と呼びました。この「享楽」があると想定されるのが「想像界」と「象徴界」の外部としての「現実界」です。

そしてこのような「現実界」の断片に見えるような対象をラカンは「対象 a 」と呼びます。この対象 a というのは実体のないある種の見せかけであり、人はある対象 a を手に入れたと思った瞬間、また次の別の対象 a を求めてしまうことになります。結局のところ「欲望」とは何からの対象 a を憧憬しては裏切られることを繰り返し、決して到達できない「欠如」の周りを巡っていく終わりなき運動に他なりません。そしてこのような「欠如」として名指される領域こそがイメージにも言語にも還元不可能な「現実界」であるということです。

* 近代的有限性と古代的有限性

このようにラカンのいう「有限化=主体化」とは「欠如=現実界」の周囲をひたすら空回りするような人生の在り方です。しかしながら「有限化=主体化」のあり方は何も一つだけではありません。

この点、千葉雅也氏は昨年の読書界において広く反響を呼んだ『現代思想入門』の最後の方でこうしたラカン的な有限性に対する別の仕方での有限性を素描しています。

同書が扱うフランス現代思想においては、まずはラカン的な「欠如=現実界」をめぐり意味づけが果てしなく失敗し続けるという、同書が「否定神学的X」と呼ぶ図式が意識される段階を経た後に、次にただ一つの「否定神学的X」からより分散的で複数的に諸関係を展開していく議論へと発展していったという変遷があります。

ここで千葉氏は近年のフランス現代思想の潮流である「ポスト・ポスト構造主義」を参照してラカン的な「有限化=主体化」を「近代的有限性」として位置づけた上で、これに対してポスト構造主義を代表する思想家の1人であるミシェル・フーコーの後期の議論から抽出した「古代的ポストモダン」から、否定神学から複数性へ向かう議論の解釈として謎のXを突き詰めずに生活の中でタスクをひとつひとつ淡々と完了させていくという、いわば「古代的有限性」というべき主体のあり方を提示しています。

ここには世界におけるたった一つの「謎」をめぐり無限に空回りするという「近代的有限性」から日常の複数的な問題にその都度に取り組んで解決して行くという「古代的有限性」への折り返しを見出すことができます。そして、これは言い換えれば千葉氏が『勉強の哲学』で提示したアイロニーからユーモアへの折り返しでもあります。

近代的有限性から古代的有限性へ。世界の謎から日常の問題へ。アイロニーからユーモアへ。「過剰」を抱えた我々人間の真の意味での「有限化=主体化」とは、おそらくこうしたダブルシステムを往還する中から生み出されるのではないでしょうか。















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?