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郵便空間から訂正する力へ

* 訂正可能性--『存在論的、郵便的』の核心部

現代を代表する批評家/哲学者である東浩紀氏が1998年に世に放ったデビュー作『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。同書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ的脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって駆動する「郵便空間」として理論化したことで当時の現代思想シーンに鮮烈なインパクトを与えました。そして同書で東氏が打ち出した「郵便空間」を支える基盤が「固有名」をめぐる「訂正可能性」の理論です。

この点「固有名」を縮約された確定記述の束とみなす立場がゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルが提唱した記述理論です。例えば「アリストテレス」という固有名は通常「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。こうした立場を「記述主義」といいます。

しかしアメリカの分析哲学者ソール・クリプキは1970年に行われた『名指しと必然性』という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。この時、記述理論に従えば「アレクサンダー大王を教えた人はアレクサンダー大王を教えていなかった」というおかしな命題が成立しているはずですが、実際には「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題はまったく問題なく通用します。これは〈アリストテレス〉なる固有名に確定記述の束に還元できない「剰余」が常に宿っていることを意味しています。こうした立場を「反記述主義」といいます。

そして、このような「剰余」の起源をクリプキは最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されるといいます。

もちろんこれは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の剰余について語るために「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。

ところがその一方でクリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。仮に「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、そこで「一角獣は実は存在した」という命題が成立するわけではありません。なぜなら「一角獣」という固有名はそもそも通常は「いつの日かそれが発見されるかもしれない」という想定の下で使用されていないからです。

つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかというコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその「訂正可能性」がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろ「訂正可能性」というコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。

つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定します。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになるということです。

こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出しています。

この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダのエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールです。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じています。

この点、デリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えています。すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されています。つまり、デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」です。

そうであればここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になります。そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになります。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されているといえます。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼びます。

「アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれています。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現します。そしてこれらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的に現れてくるということです。

*「じつは・・・だった」--「訂正可能性」による日本社会のリノベーション

そして『存在論的、郵便的』の公刊から25年が経った2023年、東氏は批評家デビュー30周年を記念して公刊した『訂正する力』において「訂正可能性」を使った日本社会のリノベーションを提言しています。

「失われた30年」という言葉に象徴されるようにバブル崩壊以後今日に至るまで長きにわたって停滞を続けた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せています。このような惨状を前にしてある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわります。

こうした中、本書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説きます。同書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいいます。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚があります。

人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。このようにルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象は子どもの遊びのみならず、人間の行うコミュニケーション全般において見られます。そして、このような「訂正する力」こそがいまの日本に必要であると同書はいいます。

*「空気」を書き換える力

「訂正する力」とは「空気」を書き換える力です。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われます。この「空気」なるものは皆が他人の目を気にするだけではなく、同時に皆が気にしている当の他人もまた他人の目を気にしているという入れ子構造になっています。

だとすれば、こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると同書はいいます。

つまり「空気」が支配している国だからこそ、その「空気」が「いつのまにか」変わっているように状況を作っていくことが大事にあるということです。すなわち、ルール(空気)を書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いやいや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということです。

*「正しさ」を更新する力

また「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力です。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。この人は正しくない発言をしたからみんなで批判しよう、仕事を奪おうという動きは時に「キャンセル・カルチャー」と呼ばれたりもします。

ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形ですが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉です。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。

そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。「正しさ」に対しては、そのような距離を持って考えることが大事であり、少なくとも現在の価値観だけを振りかざして、過去の発言や複雑な文脈を持った行為を一刀両断していく行為はむしろポリティカルコレクトネスの精神に反しているといえます。

しかしその一方で「訂正する力」は「歴史修正主義」と一線を画しています。ここでいう「歴史修正主義」とは例えば「アウシュビッツにガス室はなかった」とか「従軍慰安婦はいなかった」などといった主に保守派による歴史の捏造を意味する言葉として現在用いられています。この文脈での「歴史修正主義」は過去を忘却し、現実から目を逸らす行為です。これに対して「訂正する力」はむしろ過去を記憶し、現実に向き合う行為ともいえます。

* 過去と現在をつなぎ合わせて未来を照らしだすということ

そして「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力でもあります。本書の根底には「人は根本的には他者と分かり合えない」という世界観があります。だからこそ人が互いに理解し合う空間ではなく、むしろ互いに「おまえはおれを理解していない」と永遠に言い合う空間をつくることが大事だと同書はいいます。

これは民主主義の問題とも関係しています。『訂正可能性の哲学』でも参照されている19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルが強靭な民主主義の条件として「喧騒」を挙げたように、民主主義社会とは正解を求める社会ではなく、とにかくさまざまな人々が自分の理屈で好き勝手に「おまえはおれを理解していない」と「喧騒」の中で「訂正」を求めあう社会です。

こうした意味で日本社会とは経済(中小企業)から趣味(同人誌サークル)の領域に至るまで、もともと少人数でわちゃわちゃとやることを好む「喧騒」に満たされた文化を持つ社会です。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということです。

また「訂正する力」は「幻想」を創り出す力でもあります。ここでいう「幻想」とは現実を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ現実に向き合って前に進んでいくための道標です。

かつて明治日本は近代化を達成するために天皇親政という幻想を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰を達成するために平和国家という幻想を創り出しました。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での幻想の機能不全に起因しているともいえるでしょう。こうしたことから本書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案します。

「空気」を書き換え「正しさ」を更新し「喧騒」を生み出し「幻想」を創り出すということ。過去と現在をつなぎ合わせて未来を照らしだすということ。同書はかつて日本に備わっていた「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物です。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思います。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく「訂正する力」に満たされた社会であるといえるでしょう。







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