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データベース的動物から再び「人間」へ

* オタク系文化とポストモダン

人は世界に棲まう上でその生を基礎付けるため何かしらの「物語」を必要とします。ここでいう「物語」とは人が世界を理解するための媒介であり生の意味を提示する道標をいいます。かつて社会共通のロールモデルとしての「大きな物語」が存在していた時代においては多くの人が「大きな物語」に遡行する事で自らの「物語」を基礎付けていました。ところが「大きな物語」が崩壊した現代においては、人はどのようにして自らの「物語」を生成するのかという問いが生じることになります。

東浩紀氏の「動物化するポストモダン(2001)」はこうした問いに対する一つの優れた回答でもありました。同書はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には次の2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。

第一に「シュミラークルの全面化」という点です。フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールは来るべきポストモダン社会においては作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シュミラークル」という中間形態が支配的になると予測していました。この点、オタク系文化における同人誌や同人ゲームなどの二次創作文化の爛熟は、確かにオリジナルもコピーもないシュミラークルのレベルで働いているように思われます。

第二に「大きな物語の機能不全」という点です。フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールはポストモダンの特徴を「大きな物語の凋落」と規定しました。ここでいう「大きな物語」とは近代社会を統御した理想やイデオロギーやシステムと呼ばれる社会共通の規範をいいます。ポストモダンとはこうした単一の「大きな物語」が有効性を失い、無数の「小さな物語」の乱立にとって変わられる過程に他なりません。この点、オタク達が現実より虚構を重視する理由とは、彼らが現実と虚構の区別がついていないからではなく、むしろ現実が与えてくれる価値規範(=大きな物語)よりも虚構が与えてくれる価値規範(=小さな物語)を選択した方が、彼らの人生にとっては有益な選択となるからです。

こうした前提の上で、同書は次のような2つの疑問を導きの糸として、オタク系文化の、ひいてはそこに凝縮されたポストモダン社会の特徴について考察を進めていきます。

①ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅しシュミラークルが増加するのだとすれば、そのシュミラークルはどのように増加するのか?

②ポストモダンでは「大きな物語」が失調するのだとすれば、ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?

* 物語消費とデータベース消費

まず第一の問い「⑴ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅しシュミラークルが増加するのだとすれば、そのシュミラークルはどのように増加するのか?」について同書はまず、近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。

ここでいう「物語消費」とは、例えば「機動戦士ガンダム」という作品の消費を通じて、その作品の背後にある「宇宙世紀」といった「大きな物語=世界観設定」を消費する行動様式をいいます。これに対して「データベース消費」とは、個々の作品消費を通じてその作品を生成する「データベース」を消費する行動様式をいいます。

この点、同書は当時のオタク系市場に絶大な影響力を行使していた「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の背後にあったのは、視聴者がそれぞれ都合の良い物語を読み込む「大きな非物語=物語なしの情報の集合体」であったといい、エヴァ以降のオタク系文化は「大きな物語=世界観設定」よりもキャラクターの「萌え」が重視されるようになり「萌え要素のデータベース」が急速に整備されていったと主張します。

すなわち、オタク系文化の表層はシュミラークル=二次創作に覆われているけれど、その深層には設定やキャラクターのデータベースが存在し、さらに遡ればその背後には「萌え要素」といったオタク系文化全体の共通言語となるデータベースが想定されるということです。そこでは旧来のオリジナルとコピーの代わりにシュミラークルとデータベースの対立が台頭し、シュミラークルの優劣はデータベースとの距離で決定される事になります。

そして、東氏によれば、こうしたオタク系市場における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといいます。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「小さな物語=シュミラークル」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。

すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」にあるいうことです。これが「⑴ポストモダンにおいてなぜシュミラークルが増加するのか」という問いに対する解となります。

* 動物とスノビズム

次に第二の問い「⑵ポストモダンでは「大きな物語」が失調するのだとすれば、ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?」について同書は先述した「データベース消費」や「データベース型世界」といったポストモダンの二層構造を世界史的なパースペクティヴから捉えるところから議論を開始します。

人間の歴史における「近代」を完成させた哲学者として知られるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの哲学において「人間」とは、まず自己意識を持つ存在であり、同じく自己意識を持つ「他者」との闘争によって絶対知や自由や市民社会に、向かっていく存在であると規定されました。そしてヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼び、こうして意味での「歴史」は19世紀初頭のヨーロッパにおいて終焉したと看做していた。ではその後の「ポスト歴史」において人間の人間性はどうなるのでしょうか。

この点、ロシア出身のフランスの哲学者、アレクサンドル・コジューヴはその講義録である「ヘーゲル読解入門第二版(1968)」の(特に日本で)よく知られた脚注においてヘーゲル的な「歴史」が終わった後、人々には「動物への回帰」と「スノビズム」という二つの生存様式しか残されていないと主張しています。

一方でコジューヴは戦後アメリカに代表される消費化情報化社会に適応した人々を「動物」と呼びます。(コジューヴが読み解いた)ヘーゲルによれば、人間が人外であるためには与えられた環境を「否定」する行動がなければなりません。けれども動物とは常に既存の環境と調和して生きる存在です。こうした意味でコジューヴに言わせれば「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」ということになります。

他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないのにも関わらず、それを「形式化された価値」に基づき、あえてそれを否定する行動様式です。コジューヴがその例として挙げているのがなんと日本の切腹です。実質的には死ぬ理由が何もないにも関わらず「名誉」とか「規律」などといった「形式化された価値」に基づいて行われる自殺である切腹をコジューヴは究極のスノビズムであると称したわけです。

コジューヴはスノビズムは環境に対する「否定」の契機がある点で決して動物的な生き方ではないけれど、ヘーゲル的な「歴史」における人間的な生き方とも異なるとしています。というのもスノビズム的主体の自然(切腹の例で言えば生存本能)との対立は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからです。「名誉」とか「規律」などといった「形式化された価値」に基づいて純粋に儀礼的に遂行される切腹はいくらその犠牲者の屍が積み上がろうとも決して「歴史」を切り開く革命の原動力にはならないということです。そして、コジューヴは日本文化の中核にはスノビズムがあると直感し、今後はその精神が「ポスト・歴史」の文化世界を支配していくだろうと論じたのでした。

なお、コジューヴが「スノビズム」と呼んだ生き方はのちにスロヴァニア出身の哲学者、スラヴォイ・ジジェクによって「シニシズム」という名で理論化されています。ジジェクはシニシズムの例としてしばし冷戦期のスターリニズムを挙げています。ジジェクはその主著「イデオロギーの崇高な対象(1989)」において、スターリニズムの支持者は本当はそれが嘘であることを知っているけれど「だからこそ」彼らはそれを信じるふりを止められないといいます。ここには実質と形式の捩れた関係があります。シニカルな主体は世界の実質的価値を信じないけれど「だからこそ」彼らは形式的価値を信じるふりをやめられないし、時にその形式のために実質を犠牲にすることも厭わないということです。

この「だからこそ」をコジューヴは主体の能動性として捉えていましたが、ジジェクはその「だからこそ」という転倒はむしろ主体にはどうにもならない強制的なメカニズムだと述べている点で相違があります。それゆえに人は無意味だと分かっていても切腹を行い、嘘だと分かっていてもスターリニズムを信じ、そしてそれは嫌でも止められないということです。

* 虚構の時代とオタク系文化

こうした「スノビズム(シニシズム)」を氏は近代からポストモダンへの移行期における一つの特徴として位置付けています。ここでいうポストモダンとは社会共通の価値規範である「大きな物語」が失墜した時代をいいます。そして氏は近代からポストモダンへの移行は世界的には1970年代を一つの中心として第一次大戦が始まった1914年から冷戦構造が終焉する1989年までの75年間をかけて緩やかに進行したと捉えた上で、この移行期の時代精神は「大きな物語」が失われつつあることは誰もが知っているが「だからこそ」フェイクの大きな物語を捏造するというスノビズムないしシニシズムによって特徴づけられていたといいます。

もっとも氏は日本における近代からポストモダンへの移行過程は1945年の敗戦で一度切断されているとして社会学者、大澤真幸氏の提唱する社会学的時代区分である「理想の時代(1945年~1970年)」「虚構の時代(1970年~1995年)」を参照しながら、日本社会が近代からポストモダンに移行したのは「虚構の時代」に当たる1970年代以降になるとします。そして「虚構の時代」を規定した日本的スノビズムの典型例として氏は日本のオタク系文化を挙げています。

すなわち、オタク的感性の中心には、漫画やアニメなどは所詮は子供騙しと分かっていながらも、その実質的な無意味からコジューヴのいう「形式化された価値」に相当するオタク的な「趣向」を切り離すことで、騙されていることを承知の上で作品に没入するというスノビズムを見出すことができます。こうしてみると、ある意味でオタクとは、スノビズムに規定されていた日本文化の正統継承者ともいえます。

* 動物の時代とデータベース的動物

もっとも、東氏はいまや我々は「虚構の時代」を生きていないといい、スノビズム(シニシズム)の精神は日本においても失われたとします。そして「ポスト虚構の時代」における範例的主体として氏は「美少女ゲーム(ノベルゲーム)」のユーザーを取り上げています。

エヴァ以降のオタク系文化の中心を担ってきた「美少女ゲーム」というジャンルにおける多くの作品では、ユーザーがどの選択肢を選ぶかでその後のシナリオが変化していくマルチエンディングシステムが採用されています。すなわち、美少女ゲームは「シナリオ=シュミラークル」と「システム=データベース」という二層構造から成立しています。こうして美少女ゲームのユーザーは「シナリオ=シュミラークル」に没入する動物的欲求と「システム=データベース」に介入する人間的欲望によって駆動されることになります。

この点「シナリオ=シュミラークル」における動物的欲求が他者とのコミュニケーション抜きで処理されるのに対して「システム=データベース」における人間的欲望は他者とのコミュニケーションにおいて発生します。もっとも本書によれば、この他者とのコミュニケーションは現実的必然ではなく特定の特定の情報への関心のみによって支えられており、それゆえ各人はいつでもコミュニケーションから離脱する自由を留保しているとしています。

こうした美少女ゲームのユーザーが露呈する特徴はポストモダンを生きる主体一般にも妥当すると同書はいう。すなわち、かつて近代の人間は生の意味を他者とのコミュニケーションを通じて「小さな物語」から「大きな物語」へ遡行する「物語的動物」であったけれども、ポストモダンの人間は「意味」への渇望をコミュニケーションではなく動物的欲求に還元し、その一方で他者とのコミュニケーションは「意味」をめぐる現実的な必然を伴わない形骸的したもの、擬似的なものとして残存しているに過ぎないということです。

こうしたことから氏は「虚構の時代」が終焉した1995年以降の時代をコジューヴに倣い「動物の時代」と規定します。そして「動物の時代」においてシュミラークルの水準での動物性とデータベースの水準での(形骸化した擬似的な)人間性を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けます。これが「⑵ポストモダンにおける人間の人間性はどうなってしまうのか?」という問いに対する解となります。

* データベース的動物から再び「人間」へ

ここまでの議論に即していえば、ヘーゲルのいう「歴史」が終焉した後の「ポスト歴史」における人間とは、近代からポストモダンの移行期における「スノビズム(シニシズム)」を経て「動物」ないし「データベース的動物」へと至ったということになります。ではコジューヴのいう「動物」と東氏のいう「データベース的動物」は何が違うのでしょうか。

この点、既存環境を否定する存在が人間であり、既存環境に調和する存在が動物であるというコジューヴの図式からいえば、シュミラークルに没入して動物的欲求を満たすデータベース的動物とは本質的にはコジューヴのいう動物の亜種である事は確かでしょう。

しかしその一方で、データベース的動物には形骸化した形であるにせよ、データベースへ介入する人間的欲望が残されています。そして現代では動ポモが公刊された20年あまり前とは比較できないくらいに情報技術やネットワーク環境が発展し、人々はよりスマートかつラディカルにデータベースに介入できる可能性を手にしました。その意味で、いまや我々は「データベース的動物」であると同時に「ネットワーク的動物」であるともいえます。

そして、もしもここで東氏のいう「データベース」とヘーゲル的な「歴史」をパラレルに捉えるのであれば、データベース的動物/ネットワーク的動物はヘーゲル的人間を「半分だけ」は取り戻したともいえなくもないでしょう。

おそらくヘーゲルはそんな人間など偽物に過ぎないと嗤うかもしれません。けれども「偽物」の人間であるからこそ、むしろ「本物」の人間に見出せなかった新たな人間の可能性をその中に見る事ができるのではないでしょうか。


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