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「正しさ」と「誤り」のあいだで--観光客・家族・訂正可能性

* 動員の革命とポピュリズム

「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及し、2010年代中盤には「SEALDs」のような新しいデモの形を生み出しました。

こうした「運動」の時代を牽引した力が「ポピュリズム」です。SNSでは地域や職場のしがらみを離れて同じ主義主張を持つ「類友」を簡単に見つけられます。自然に保守は保守で集まってリベラルはリベラルで集まることになります。

しかし「類友」ばかりが集まると、あたかも自分の声が反響するかの如く自分と同じ考えの意見ばかりが聞こえてくる「エコーチェンバー」に陥ります。また自分の好みに合わせた情報の「泡」に囲まれる「フィルターバブル」が形成されます。加えて同じ考えを持つもの同士が話し合えば主義主張はどんどん先鋭化していき「フェイクニュース」や「陰謀論」の温床となります。

けれども、このような類友化によって「ポピュリズム」は活気付きました。そしてインターネットでは「類」ではない人間は「友」とする必要はなく、むしろ「敵」となります。すなわち、ポピュリズムは人の部族主義的な本能を利用して世界を「友」と「敵」という二項対立で単純化してしまうわけです。

*「友」と「敵」に対する第三項としての「観光客」

もっとも、このようなポピュリズムによる「友」と「敵」の峻別はある面では「政治」の本質的な条件ともいえます。20世紀前半のドイツの法学者カール・シュミットは政治とは本質的に「友」と「敵」の対立を基礎として敵を殲滅する行為なのだとする友敵理論を主張しました。すなわちシュミットのいう「政治」とは共同体の境界を定め、外部を排除する行為ということです。

これに対してもっぱら現代思想の領域ではこうしたシュミットの友敵理論を批判し「友」でも「敵」でもない第三項として「他者」の存在を擁護しようとしました。この点、東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)において、こうした「他者」を「観光客」という概念で捉え直す議論を展開しています。

例えばシュミットに従えば古い小さな村において住民は「友」でよそ者は「敵」ということになります。しかしその村が観光地に変貌し、毎年住民の数倍の数の観光客が訪れるようになったとします。観光客は村を通り過ぎていくだけで、住民と一緒に村の未来を作るわけでもなく、むしろ大騒ぎしたりゴミを残したりと迷惑をかける存在でもありますが、その一方で経済的には村に恩恵を与えてくれるし、新しい住民を連れてきてくれるかもしれません。同書はこのような観光客の中途半端さをまず肯定的に捉えるところから出発します。

* 誤配=つなぎかえ

そしてこの観光客の中途半端さがもたらすものが「誤配」です。ここでいう「誤配」とはメッセージが届くべき人に届かないこと、逆に届くべき人でない人に届いてしまうこと、届いたとしても想定外のタイミングで届いてしまうことといったコミュニケーションの失敗を意味しています。

同書ではこの「誤配」という概念をグラフ理論と関連づけて説明しています。例えば一般的に人は見知らぬ人間といきなり友人になるより友人同士もまた友人であるような閉鎖的な人間関係を好む傾向があります。これはグラフ理論では「クラスター係数が大きい」と表現されます。ところが現実の人間関係を調査すると人々の交友は意外なほど広がっている。これはグラフ理論では「スモールワールド性」と呼ばれます。すなわち、人間は一方で閉鎖的な共同体を好み、他方では開放的な共同体を好むということです。

このような閉鎖的でありつつも開放的であるという人間関係の二重性をグラフ理論では「つなぎかえ」と呼ばれる操作によって説明します。「つなぎかえ」とはたくさんの頂点(ノード)が線分(枝)でつながることによって形成されているネットワークにおいて、各頂点を始点とする線分の終点を特定の確率でランダムに選ばれた他の頂点に付け替える操作を意味します。

この「つなぎかえ」こそが「誤配」の数学的実体であると同書はいいます。「誤配=つなぎかえ」がなければ人はみな親密な世界に閉じこもり、社会は無数の閉鎖的なクラスターに分解してしまいます。しかし実際は「誤配=つなぎかえ」があちこちで起こっているからこそ、世界はそこそこ他者に開かれながらも一つのまとまりでいられるわけです。

* 家族と社会

そして同書は「観光客」のアイデンティティを「家族」という言葉に求めます。同書は「家族」の構成原理として「強制性」「偶然性」「拡張性」の3つを挙げています。

人は皆何かしらの形で「家族」に属していますが、けれどもその「家族」は選ぶことはでき図、生まれるにしろ育てられるにしろ、家族の構成員は一方的に押し付けられます(強制性)。そしてその「家族」の選択に必然的な理由はありません(偶然性)。けれども「家族」の境界は実に柔軟です。歳月が流れると「家族」の形も変わります。「家族」とはある視点から見れば閉鎖的で抑圧的な共同体ですが、別の視点で見れば開放的で自由な共同体です。家族の構成原理はこのように調和しない3つの性格が共存しているわけです。

この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきました。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきました。

けれども「閉じられた家族」と「開かれた社会」という区別はそれほど明瞭なものではありません。例えば人類学者エマニュエル・トッドいみじくも明らかにしたように、共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく、自由主義もまた絶対核家族のイデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ、形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになります。

閉じられた家族から開かれた社会へ。このような発想は確かに直感的でわかりやすいものがあります。けれども人はその社会なるものについて結局のところ特定の家族形態に頼ることなく想像したり議論したりすることができないのかもしれない、と本書はいいます。いわば人はどこまでも「家族」から逃れられることができないということです。

* 言語ゲームと家族

そして『観光客の哲学』が提示した「観光客」と「家族」という二つの鍵概念は同書の続編となる『訂正可能性の哲学』において連携されることになります。

同書ではルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照して「家族」の再定義が行われます。同書はまずウィトゲンシュタインが提唱した「家族的類似性」という概念を参照します。周知の通りウィトゲンシュタインの哲学は『論理哲学論考』(1922)に代表される前期と『哲学探究』(1953)に代表される後期に大別されます。前期の彼は言葉は世界を記述するためにあると考え、だから全ての文=命題はその構造を分析して世界との対応関係を定めればその真偽が定まるはずだと主張しました。

ところが後期になると彼は人は言葉を使ってゲームをしているだけに過ぎないと考えるようになりました。『哲学探究』はそのような状況を「言語ゲーム」と呼びます。そして彼はこの「言語ゲーム」においてプレイヤーは自分がいったい何のゲームをプレイしているか理解しないままにゲームをプレイしていると主張しました。

人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしています。そこでは複数のゲームが重なり合っています。そのためあるゲームをプレイしていたつもりがいつの間にか別のゲームの中に入り込んでしまうこともあります。これがウィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」です。そして彼はこの複数の言語ゲームの間に共通の本質はなく、むしろその本質の欠如こそが重要だと主張しました。

そしてここで持ち出されるのが「家族的類似性」という概念です。ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似性」とは例えば父と母と息子と娘からなる4人の家族がいたとして、父と息子は背格好が似ていて、父と娘は目元が似ていて、母と息子は口元が似ていて、母と娘は話し方が似ているため、4人が同じ家族であることは明らかだけれども、その全員に共通する特徴を取り出すことはできないという家族の性質を指しています。

このような「家族的類似性」は『哲学探究』において「言語ゲーム」が孕む厄介な性質を包括的に記述するためのほとんど唯一の比喩として登場します。人はみな言葉を使ってゲームをしている。そこでは複数のゲームが重なり合っている。そしてその複数のゲームは「家族」を形成しているということです。

* クワス算の逆説

そしてこのウィトゲンシュタインの直感的な洞察を緻密に理論化した人物がクリプキです。クリプキは『ウィゲンシュタインのパラドックス』(1982)において以下のような思考実験を行いました。あなたは「+」という記号を加算の記号として用いており、そこで「68+57」という数式に初めて出会ったとします。当然のことながら、あなたは加算の法則に従い「125」と答えを返すでしょう。

ところがここでクリプキは1人の懐疑論者を連れてきます。この懐疑論者の中で「+」という記号は加算を意味する記号ではなく実は「クワス」というまったく別の演算を意味しており、クワス算はあるところまでは加算と同じだけれども、その解が125以上の場合は総じて5になるため、あなたは「125」ではなく「5」と答えるべきだったと主張します。

この懐疑論者の主張を反駁することは原理的には不可能です。ここではウィトゲンシュタインが発見した「自分が何のゲームをプレイしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている」という言語ゲームの性格が自然言語のあいまいさに起因するものではなく科学的な知一般の条件であることが示されています。

しかしながら現実問題としてクワスを主張する懐疑論者が仮に現れたとしてもその主張は訂正されることになり、仮に訂正不可能であれば彼は排除されます。なぜならば大多数の人が「68+57」は「125」になるという規則を信じる「加算の共同体」に属しているからです。裏返せば、あらゆるゲームはそのプレイの成否を判定するためプレイヤーと観客から構成される共同体を必要とするということです。

* 訂正可能性の共同体としての家族

先に規則があり、その規則を理解するプレイヤーが共同体を形成するのではなく、むしろ先に共同体があり、その共同体がプレイヤーを選別することで規則が確定するということ。クリプキはウィトゲンシュタインが提示した逆説をこのような裏返った共同体論によって解決しました。

もっともクリプキのいう「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけでなく、逆にプレイヤーから共同体に向けられる可能性も考えられるはずです。すなわち、本来は排除されるはずのプレイが時代の移り変わりに従ってプレイヤーの共同体に認められ正規のプレイに代わることがありうるということです。すなわち、ここで「訂正」と呼ばれている作用は共同体の内部と外部の境界を揺るがし、その成員を拡大する契機としても捉えられています。

そこで同書は共同体の規則は静的に確定したものではなく、プレイヤーたちが繰り出すプレイについての成否判断に付随する「訂正」の作業こそが規則と共同体を共に生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうかといいます。

そしてウィトゲンシュタインの提示した言語ゲームにおける「家族的類似性」という言葉はまさにこうした規則が変わりプレイヤーが変わり何もかもが変わったとしても、それでもなおそこに「同じゲーム」であり続けるという共同体の在り方とぴたりと重なり合います。

こうしたことから本書は「家族」の概念を特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する一種の解釈共同体だと定義します。すなわち「家族」とはある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられた共同体ではあるけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれている共同体であるということです。

* 家族・観光客・訂正可能性

こうして「家族」という共同体における「強制性」「偶然性」「拡張性」という一見、調和しない3つの性格の奇妙な共存は「訂正可能性」というメカニズムから統合的に把握されます。

人は皆「家族」という名の言語ゲームの中にいかなる同意もなく新しいプレイヤーとして生まれ落ちます。ゲームは既に存在しているのだから参加は強制的で、いかなる必然性もないように感じられます。にもかかわらず規則は常に遡行して訂正可能なので「家族」というゲームは拡張可能性にも開かれています。家族の参加者は「同じ家族」の体裁を保ったまま内実をいくらでも変更できます。このようにみると「家族」の構成原理は「言語ゲーム」というコミュニケーションの本質から真っ直ぐに導き出されたものと考えることができます。

また「観光客」の中途半端さも「訂正可能性」から基礎付けられます。あらゆる規則は原理的に訂正可能性にさらされている以上、そもそも人はどうやっても全ての問題に中途半端にしか関わることができないわけです。だからそこ逆に全ての人は完璧には語れない問題についても中途半端なコミットメントに乗り出す勇気を持つべきではないかと東氏はいいます。

そして「観光客」のもたらす「誤配=つなぎかえ」とはまさしく「訂正可能性」です。共同体はこれまでプレイヤーの間で共有してきた規則のネットワークがランダムな「誤配=つなぎかえ」によって半ば強制的に訂正されることで持続性を獲得することになります。

このようにウィトゲンシュタインとクリプキの言語哲学を使って明らかになったコミュニケーションの条件は「家族」の構成原理を生み出すとともに「観光客」の中途半端さを生み出すものでした。

*「正しさ」と「誤り」のあいだで

このように『訂正可能性の哲学』は第1部において「社会」と「家族」という二項対立の脱構築から出発して、第2部では「正しさ」と「誤り」という二項対立の脱構築へと至ります。

周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「政治的な正しさ」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。

ところで「政治的な正しさ」とは英語ではポリティカル・コレクトネスと呼ばれていますが、同書は「コレクト」という単語が「正しい」という形容詞の他に「訂正する」という動詞の意味を持っていることに注目します。すなわち、現在の「正しさ=コレクトネス」とは普遍的な規範などではなく、常に「誤り」を「訂正する=コレクト」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。

結局のところ人はいくら「社会」において「正しさ」を追求しようとしても、どこまでいっても「家族」から逃れることはできないし、いつまでたっても「誤り」を繰り返し続けているわけです。けれどもだからこそ、人は互いに「家族」として「誤り」を訂正し合って生きていくことができるともいえるでしょう。こうした意味で「訂正可能性」の論理とは現代における持続可能な公共性の条件である同時にそれは持続可能な優しさの条件でもあるようにも思えます。






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