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動物化する公共圏

* 哲学の使命とは「会話」を守ること?

西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。ルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に認識できるか」を問い、近代においてイマヌエル・カントは人間は何が認識できて何が認識できないのかという理性の限界を確定しようとしました。そして現代(19世紀末〜20世紀)になると、言語やコミュニケーションの論理的な分析を主題とする分析哲学(言語哲学)が台頭することになります。

このように哲学はその長い歴史において中心的な主題が時代ごとに変遷してきましたが、その一方で哲学とは世界の真理を探究する学問であるという大きな前提は時代を問わず共有されてきました。しかしながら、もし仮に哲学とは世界の真理を探究する営みであるとすれば、いつの日かその真理への探究が終われば、その時点でそれ以上の「会話(コミュニケーション)」の継続は不要になるはずです。ところが、このような伝統的な哲学観を問い直し、哲学の使命とは「会話」を終わらせることではなく、むしろ「会話」を守ることにあると主張したのが米国の哲学者リチャード・ローティです。

ローティは当時、隆盛を極めていた分析哲学の中心地プリンストン大学でキャリアをスタートさせ、自身も長らく分析哲学的なスタイルで論文を書いていましたが、初の単著『哲学と自然の鏡』(1979)では分析哲学への反旗を翻し周囲を驚かせます。ローティは同書において世界には永遠普遍の真理や究極の本質などという必然的なものはなく、それはその時々の「ことばづかい」によってつくられる(歴史の中で変わりうる)偶然的なものであるとする「歴史主義」を主張しました。では真理の探究を放棄したときに哲学には果たして何ができるのでしょうか?会話(コミュニケーション)を続けることにどのような意味があるのでしょうか?『哲学と自然の鏡』で残されたこれらの問いに対してローティが自ら答える形で書かれた著作が『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)です。

* 偶然性と終極の語彙

同書においてまずローティは言語や自己や社会の「偶然性」について論じています。すなわち、人がどのような言語(ことばづかい)を使うかは歴史的な偶然性の産物であり、そうであれば言語(ことばづかい)によって表現される個人や、個人の集合によって構成される社会もまた偶然性の産物であるということです。それゆえにローティはこうした「偶然性」の産物たる社会において個人はひとえに互いを傷つけないという最小限の目的をお互いにすり合わせながらやっていくほかないとします。これは『哲学と自然の鏡』でみられた「歴史主義」の徹底であるといえます。

そして、このような言葉や自己や社会の別様の可能性に開かれた態度が「アイロニー」です。ローティはアイロニストの条件として自分がいま使っている「終極の語彙」を徹底的に疑うことを挙げています。ここでいう「終極の語彙」とは自身の行為、信念、生活を正当化する一連の言葉を指しています。そして、このような「終極の語彙」は大抵「理性」とか「人間性」などといった普遍的な言葉よりも「イングランド」とか「革命」などといった地域性を強く帯びた言葉になることが多いと指摘します。

いずれにせよ、人は皆、自分を説明したり世界を語ったりするために自分が大事だと思う「終極の語彙」を持っていますが、他方でそれは常に「再記述」の可能性に開かれています。そして、ある個人が依拠する「終極の語彙」は絶対のものではなく、常に他人の「終局の語彙」の影響を常に受けています。けれども、誰もが皆がみな自分を再記述したいわけではなく、他者を勝手に再記述する行為は時として暴力的な「残酷さ」をもたらします。

* リベラル・アイロニストとは何か

このように「アイロニー」は自由さや風通しの良さをもたらす一方で、それに伴う「再記述」は時に「残酷さ」をもたらします。そこでアイロニストとは同時に「リベラル・アイロニスト」でなければならないとローティはいいます。

通常「リベラル」という言葉は「自由」とか「公正」などといった意味で用いられますが、ここでローティのいう「リベラル」とは「残酷さ」の回避という意味を帯びています。つまり「リベラル・アイロニスト」とは自らの信念は何らかの本質と必然的に結びつかない偶然性を認める一方で、社会における「残酷さ」を減少させていくこと望む人物像です。

こうしたことからローティは「公」と「私」は統合する必要はないと主張します。「公」と「私」を統一しようとする態度は「公」だけが絶対的に正しいという立場にせよ「私」だけが絶対的に正しいという立場にせよ、いずれも人々の会話を終わらせることを目的とした営みであり、これは「リベラル」が避けるべき「残酷さ」に他なりません。つまり「残酷さ」を避けるという「リベラル」の目的を実現するためには常に別様の可能性を認める「アイロニー」が必要となってくるということです。

* 連帯とは「同じ」ではなく「違い」から始まる

そしてローティのいう「連帯」とは、例えば「理性」とか「国家」とか「人権」などといった普遍的(に見える)特定の原理によって基礎付けられるものではなく、個別の人間が抱える苦しさや痛みに対する「想像力」や「共感」といった小さな断片を手がかりに創り上げられるものです。

すなわち「わたしたち」は「同じ」だから連帯できるのではなく、むしろ「わたしたち」の「違い」から連帯は始まるのであり「偶然性」に規定された「わたしたち」がたまたま持つ「終極の語彙」を「アイロニー」により再記述する「わたしたちの拡張」の結果として「連帯」が生じるということです。ここで「偶然性」「アイロニー」「連帯」が全てつながってくることになります。

『偶然性・アイロニー・連帯』における中心的なテーゼを端的に表すのであれば、日々の「ことばづかい」を変えることによって人は変わり、世界も変わるということです。こうした「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションをローティはのちに「文化政治としての哲学」と呼ぶようになります。すなわち「ことばづかい」をめぐるコミュニケーションの実践こそが真理の探究を放棄した後の哲学に課された使命であるということです。

* 動物化する公共圏

このようなローティの哲学を一貫して評価するのが東浩紀氏です。例えば『一般意志2.0』(2011)においては従来は私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基盤となり、逆にいままでは公的であった精神的な自己完成や自己陶治こそが私的領域に閉じ込められるというローティの描く逆転の構図を同書が提示する大衆の私的な行動(データベース)が情報技術により集約化/可視化され、政治家や専門家たちの公的な合意形成(熟議)を制約するという「一般意志2.0」の構図と重ね合わせて論じています。

また『観光客の哲学』(2017)においては公的な振る舞いと私的な信念の分裂を受けれるべきだというローティの提案を同書が提示する「動物」と「人間」の層に分裂した「二層構造」と重ね合わせ、ローティの提案はそのような分裂を「アイロニー」で縫合する試みであったと捉えます。さらに『訂正可能性の哲学』(2023)では「偶然性」に規定された「わたしたち」から出発しながら、その「想像力」や「共感」の範囲をいくらでも書き換えていくことができるというローティの思想を同書が提示する「訂正可能性の共同体」としての「家族」の構成原理である「強制性」「偶然性」「拡張性」と重ね合わせています。

このようにローティのいう「公」と「私」の分裂は東氏のいう「動物」と「人間」の分裂と重なり合っています。この点、普通は「人は人間であると同時に動物である」という時、およそ「人間」が公的な領域に割り振られ「動物」が私的な領域にそれぞれ割り振られがちですが、ローティ=東は動物的な振る舞いこそが公的な領域を創り出し人間的な信念は私的な領域に囲い込まれるという逆転から、人間的な対立を動物的な連帯で乗り越えようとします。こうした意味でローティの哲学とは「動物」の時代における「人間」のあり方を思弁する哲学であると同時に、あらゆる局面での友と敵の分断が加速しつつある現代社会に対する処方箋を示した哲学であるといえるでしょう。








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