MODELカバー1280x670

 原稿用紙にして三十三枚。
 一気にそこまで書き上げて私は愛用の“WATERMAN”を置いた。
 あと、最後の気の利いた一文を書き足せばこの小説のプロローグは完成する。
 万年筆を置いて大きく息を吸い込んだ私を見て、女が私に近づいてきた。
 「ねぇ、ほんとに、あたしをモデルにした小説を書いてくれてるの?」
 「ああ、そうだよ。そう約束しただろ」
 「だって、先生みたいな人、信用していいのか、まだわからないんですもの」
 女は、そう言いながら目を細めて微笑んでいる。
 甘えるような、いや、この私を試しているような、そんな響きのある言葉だった。
 似合うからと言って、私が買ってやった白いワンピースが窓からの日差しの中で眩しい。
 前の部分に少し大きめのかわいらしいボタンが並んだ、やわらかい生地の涼やかそうなワンピースだ。
 この娘《むすめ》と知り合ったのも変ないきさつではあったが、私はそのことに感謝している。
 事実、この娘《むすめ》を知った瞬間、世間一般の常識やら、道徳心とは、きれいさっぱり縁を切ったも同然なのだが、そのことを私は後悔などしていない。
 後悔どころか、かけがえのないものを私は得ることができたのだ。この娘《むすめ》の存在と引換えにできるほど、価値のあるものなどこの世にはあり得ない。そのぐらいに私はこの娘のことを思っているのだ。
 道徳などくそくらえだ。
 とにかく、素材としても最高だ。
 今までの私の作風とは、まったく違うものが書けそうな気がする。
 作中の少女も、この娘《むすめ》に年齢を合わせて設定した。
 私も結婚して、もし子供でもいればちょうどこの娘《むすめ》ぐらいの年齢かもしれない。
 自分の娘みたいなこの娘《むすめ》の前で、緊張を意識している私はひどく滑稽に映っていることだろう。
 「ねぇ。どこまで書けたの?読ませてぇ」
 娘が近づいてくる。
 「だめだよ。全部、書き終えてからでないと。途中はあんあまり他人《ひと》には読ませたくないんだ」
 「けち。いいでしょ、少しぐらい。あたしが主人公なんだから、主役のいうこと聞いてよ」
 「だめだよ」
 「あぁ、あたしのこと、今、他人あつかいした!ひどくない?それ。あたしと、先生、他人でしたっけ?」
 娘の最後の言葉が胸にチクリと突き刺さった。痛みを覚えるのは私自身、まだ吹っ切れていないということか。
 娘がゆっくりと近づいてくる。
 窓からの逆光で、白いワンピースの上から彼女のカラダのシルエットがうっすらと見て取れる。
 彼女が動くたびにそのシルエットが揺らいで、彼女の中身が実在していないもののような、儚げで幻想的な影を造っている。
 「ねぇ、いいでしょ?ちょっとくらい。ね、せ・ん・せ・い」
 娘が、じゃれるようにして私の腕に寄りかかりながら、机の上の原稿を覗き込もうとしてくる。
 背中まで届きそうな、艶《つや》やかな黒髪が、ふわりと揺れた拍子に私の鼻先をかすめる。
 くすぐったくて、甘い香り。
 彼女のふっくらとした胸の感触が、腕から伝わって、私の全身の神経を麻痺させていくようだ。
 娘が寄りかかって私の視線がずれたせいなのか、天井に開口した明かり取りの窓から差し込む強い日差しが、机の上に置かれたペーパーナイフの刃をギラリと光らせて、私の目の中に飛び込んできた。
 思わず目が眩んだ。
 その瞬間、
 「もう、どうなってもいい」
 そんな一つの考えが私の頭の中を走り抜けた。
 天啓を受けた気がした。信じる神もいない私がそんなことを考えている。
 今、原稿を書き上げたばかりで、作中の老画家の内面にのめり込みすぎていたのかもしれない。
 私の意識はこの空間に溶け出し、宇宙全体に拡散して……傍らにあったギラギラと輝くペーパーナイフに手を伸ばしていた。
 二重にも三重にも日輪が重なったような強烈な熱い日差しに焼かれた蝉の声だけが、私の狂気とシンクロして、けたたましくいつまでも鳴き続けている。
 重さを感じるほどの日差しと、狂ったように鳴く蝉の声、癇に障るこの夏が私のすべてを包み込んで……その目映《まばゆ》い真っ白な光の中に私は一人ぽつりと取り残されていた。

(了)

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