旅立ちの日に

3月1日。
あなたは何を思うだろう。


私は、”卒業式”である。多くの人もそうじゃないかと思う。
保育園、小学校、中学校、高校、そして去年、大学を卒業した私には、もうきっと、卒業式はない。五つの卒業式を経験してみて、一番心に残る卒業式は、間違いなく、小学校の卒業式である。

卒業式には決まって必ず、校歌とは別に、何か歌を歌う。仰げば尊し、が大定番だろう。この曲は、たしか中学校と高校の卒業式で歌った。今思い出したが、大学の卒業式(修了式)でも歌った気がする。去年のことなのに、もう忘れた。袴を着ることだけに心血を注いだあの日だったから、しょうがない。袴を着て写真を撮りまくっていたらなんかいつの間にやら大学修めちゃってた、って感じだったから。卒業式のことなんかより、翌日の引っ越し準備ができてなくて気が気じゃなかったから。

補足がてら言うと、保育園はいーつのーことーだかー思い出してごーらんーという歌いだしの曲を歌った。あれは好きだったなあ。そう考えると、二番目に思い出に残っているのは保育園の卒業式(卒園式)かもしれない。ほとんど覚えてないけど、大学の卒業式よりはよっぽど覚えている。

それはさておき、なんで心に残る卒業式が小学校のものなのかいうと、ある歌に出会ったからである。今や知っている人も沢山いるだろう、”旅立ちの日に”という合唱曲である。この曲を口ずさむと、私はいつでもあの12歳と11か月の瞬間にタイムスリップできる。本当だ。


少し肌寒い体育館、造花がふんだんにあしらわれたコサージュをかさかさといわせながらステージ下の仮設の段に上がり、在校生や保護者と向かい合う。格子の窓から入る光は早朝の光みたいに白く澄んで、空気中の埃がきらきら舞う。まだ覚悟ができているのかどうかも分からない私をよそに、”旅立ちの日に”の前奏が始まる。ここでやっと、この曲を歌う覚悟ができる。無理やりにでも曲の世界観に引き込んでくる、繊細なピアノの前奏。背中で感じる、音楽の先生のいつもより少し思いを込めて弾いてくれている表情。そして、もうすぐあなたたちの歌いだしよ、さあ息を吸って準備しなさい、と言わんばかりの間隔を刻む中音が終わると、私たちは歌い始める。歌うことに必死でも、歌詞の意味が分かるから、これまでのことが浮かんできては、歌に消える。誰かが声を震わせている。小学生でも感極まって泣くんだと冷静な感想を持つ自分もいて、自分はというと、気が張っているのか、歌いながらは涙は出てこない(もしかしたら泣いたかもしれない、この部分だけあやふやだ)。曲が終わり、一礼をしたときに見た体育館の床と自分の足元。卒業までのこの1年間、行事がある度に最後の一礼の瞬間の視界を目に焼きつけながら、これで終わり、と言い聞かせてきたけれど、今回は本当の本当に終わりだ。この景色、覚えとけよ、と念じた。

母は後に自分の友達に、今どきは仰げば尊しじゃないのね、と言って笑っていた。なんだか小馬鹿にされている気がして、この曲の素晴らしさが分からないなんて、と思うところがあったのを覚えている。なにしろ仰げば尊しに出会うのはまだ先の中学の頃なので、余計に仰げば尊しの良さが分からないでいた。


この記事を書くにあたって、もう一度”旅立ちの日に”を聴いた。ピアノの前奏で既に鳥肌が立つ。意味のない涙がでる。またあの日に強制送還されながら、曲を聴く。思ったよりもテンポが速い。こんなに速かっただろうか、もう少し遅かった気もするけど、あくまで記憶の範疇に過ぎないのだから、こっちが正解なんだろう。作成の物語も知ることができた。こんなに素敵な曲を作ってくれて、私の人生に出会わせてくれてありがとうと、自己陶酔的なよく分からない感謝をした。

3月になって、卒業のシーズンが始まった。シーズンというと趣がないけど、シーズンなんだから仕方ない。今年はどんな曲が各地で歌われるのだろう、”旅立ちの日に”も比較的新しい卒業ソング(またまた趣のない言い方をするが)なのだろうけど、新たな曲だってあってもおかしくはない。子供ができたら、今どきは”旅立ちの日に”じゃないのね、と雑談を持ちかけるのはやめよう。でも、いい曲すぎて言ってしまうかもしれない。母も同じ気持ちだったのだろうか。


3月1日、あなたは何を思っていますか。
私は今日一日ずっと口ずさむことを覚悟して、もう一度この曲を聴こうと思います。


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