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卒業制作と私の話

五美大展 2024/2/23~3/3 女子美学内展 2024/3/9~3/11 四年間の集大成を描き終え、卒業が目前に迫ってきた。卒制を描きながら、描き終えて、そして観ていただいて、感じたことを書き連ねてみる。 今回舞台に選んだのは羽田空港、第2ターミナル5階の展望フロアである。眼前には滑走路と東京湾が見える。大学2年、一人で北海道旅行に行った際に初めて羽田を訪れ、一目で好きになった場所だ。その時は卒制で描こうとは思っていなかったけれど... 基底剤には綿布を使用してい

    • 絵なんか描けたって何の役にも

      立たないよなぁって、最近思考が囚われてる。 実際絵が何の役に立つんだろう。私が絵を描くことって需要ある?他の作家さんはこんな不安に駆られたことないんだろうか? 画家とかイラストレーターなんて成功するのはひと握りで、安定しないんだし、だから有事のときに役に立てる仕事に就きなよ。て言われて育った。それもそうねと納得していた、よく分かっていたからこそ今、絵を描く理由が分からなくなってる。 本当に絵を描いて何になるんだろう。 たまたま他の人よりはほんの少し頭の出来が良かったから、

      • 「別人が描いたみたいだね」の話

        作風が幅広い。と言えば聞こえはいい。自分の作品発表意欲に反して(?)、全く画風が定まらないことに焦りを感じていなかったと言えば嘘になる。 でもそもそも画風なんて定めたくなかったのかもしれない、という話をする。 自分の行動決定の動機に占める「他人にこう思われたい」「他人にこう見られたい」という欲の割合がかなり大きい。発言がはっきりしているせいで誤解されるが、恐らく本当は誰よりも"確固たる自分"みたいなのがない。 そして「他人にこう思われたい」の「こう」というのは、大体の場合「

        • 「居場所は自分で作るもの」だとしても

          「置かれた場所で咲きなさい」。ミリオンセラーとなった、修道女のこの著書は、タイトルだけは知っているという方も多いだろう。または読んだことのある方も。 私はこうは思わない。自分の居場所を探しに探して、自分で掴み取ってきた人生だ(無論親の支援が大いに作用しているが、自ら行動してきたという意味で、便宜上)。 だがそこまでのガッツももはやなくなった。居場所を探したとて、それらは全て虚像だったからだ。 無事に反抗期、思春期が終わった。親の存在を、心からありがたいと思えるようになった

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          ミサンドリーをやめたい

          男性が嫌い。 女の子より可愛くないし、粗野でデリカシーに欠けてるし大抵私の大切なものを分かってくれないから。 男だから嫌いと言うより、女じゃないから嫌い。 数年前はこんなことなかった。ちやほやされたら嬉しかったし普通にモテてえ〜と思っていた。 でもそのちやほやも所詮性欲由来とか女の子には優しくするべきみたいな社会規範由来で別に私じゃなくていいし、女という属性ありきで見られるのが嫌になった。 女子大に入ってその感覚はさらに強化された。女じゃなくて人間として息ができるし、かっ

          ミサンドリーをやめたい

          いい絵とは何か?(2022年4月の所感)

          美大に入ってから、先生や美術業界の人が「いい絵」という言葉を使うのを、どういうこと?と思っていた。 芸術に正解はないとはよく言われることだが、しかし優劣がつく。ではいい絵とは何か?上手ければ"いい"のか?しかしそれでは抽象画はどう説明するのか? 美大に通って三年、考えて導き出した答えを綴ってみる。 まず気づいたのは、作家とそうでない人で作品に対して最初に出てくる感想が違うこと。 自分が趣味で絵を描いてるだけの人間だった時、また絵を描かない自分の親の発言を思い返すと、出てくる

          いい絵とは何か?(2022年4月の所感)

          絵を見てもらうということ

          絵を描くことと、絵を見てもらうこと、私にとってどっちが好きで、どっちが先なんだろうと最近よく考えます 今年、二年生はたくさん展示に参加するぞという目標をたて、実践していく中で、絵を見てもらうということにえも言われぬ快感をおぼえました 小規模ですが地元の公募展に出したとき、家族や恋人、恩師が足を運んでくれたし、それ以外にも私の絵を目にした人がたくさんいたことでしょう ギャラリーで展示を行うとき、来てくれるお客さんというのは展示者のファンだったりギャラリー自体のお客さんなわけで、

          絵を見てもらうということ