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時間の長さ #2

ダブリンにきて2週間がたった。
というと、早いなあという気持ちもするけれど、どちらかというと一日一日はすごく長い。東京にいたころと比べても、同じ24時間なのだろうか?と疑ってしまうくらい。

私たちは時計やカレンダーがあって、それらは「基準」になっているわけだけど、もしこれらがなかったら、人それぞれ生きる時間の感覚って全然違うんだろうな。

一日が長い理由

こっちに来て一日を長く感じる理由は3つ考えられる。

①朝が早い。
学校まで1時間、最寄りのバス停まで20分かかるところに住んでいる私は、9:10の授業に間に合うためには8時前に家をでなきゃいけない。8:40のときはもっと早い。(10時起きが常だった上半期の私には考えられない)

②学校終わってからが長い
朝が早い時はたいていお昼前かお昼過ぎには学校が終わるから、その後のフリータイムがすごく長く感じる。どこに行ってもいいし、帰ってもいいし。
「フリー」だということをすごく感じる。

この上半期はそうはいっても私の予定ってあまり詰まってもなかったんだけど、それはそれで、何もしていない自分が強調されて嫌だったし、なんとなく動画を見て、ちょっと勉強して、とかバイトに行って、とかしてたら一日が過ぎてしまう。過ごせてしまっていた。私は「暇つぶし」の方法をたくさん覚えてしまっていたみたいだ。それは「自由な時間」なはずなのに、なぜか「時間がない」とか「無駄にしてしまった」という感覚にさせてしまっていたのかもしれない。

③日が沈むまでが長い
緯度の高いダブリンは、夕方の時間がすごく長い。17時くらいから21時くらいまでずっと夕方な感じ。22時すぎるとやっと夜になる。だから、余計に学校終わってからの時間が長く感じるんだろうな。やっぱり日が沈むと人間(動物)の本能として「今日も一日終わった」という感覚になるから。

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(この写真も実は18時前くらい)

時間の種類の振り分け

自由時間が長いといっているけれど、実際は「何かしようと思うには時間がない」という意味では東京にいる頃とあまり変わらない気がする。noteも一週間のうちに更新できるかなと思ったけどゆっくり開けたのは日曜日になった今だし、初週に買ったダブリン出身の作家ダニエル・オコンネルの本も進んでない。
なんとなく友達とおしゃべりしたり、カフェに行ったり、そういう時間がコミュ力と会話力の向上につながるのはよくわかるんだけど、それも友達選びが重要なのではないか?と思ったのが今週の素直な感想。

とにかく、一人の時間と誰かと一緒にいる時間、頭を使う時間と休める時間、色々発見をしに出掛ける時間とそれを消化する時間、いろんな種類の時間をどう振り分けるのかは、どこにいても何をしていても共通のテーマとして「時間の長さ」すなわち「日々の充実度」に関係してくるんだというのは、大学生活を通して薄々感じていたことが確信に変わった。

そして、私の場合のある程度のトリセツが見えてきた。

毎日大人数は疲れるから休息が必要。
家に1人だと孤独を感じすぎて、暇つぶしに走るのであまりよくない。
家は休むところだと割り切って、外に出かけるようにする。
もしくは予定の前に朝、なにかひとつ用事をする。
早寝早起きの方が充実感を感じる。
あまりゆっくり寝られたからといって幸福感はそこまで感じないみたい。早くお布団に入れた時の方がうれしい。
一人で外出するのはあまり苦ではないみたい(以前は一人はだめだった)
一人のときは目的があることが大事かも。
お出かけするときはできれば少人数、多くても四人までがいい。できれば二人がベスト。
平日ルーティンの用事と居場所があると落ち着く(学校はそういう意味でベスト)。逆に不規則なのはあまり得意じゃないみたい(だから大学生活は不安定だったのかも)。

これだけわかってくれば、なんとなく自分がなぜ・何に今不安やしんどさを感じているのかが振り分けられるようになってきた。そして、無理する必要もないな、と思うようになってきた。
集団行動は疲れるから、あんまり得意じゃない。それは私の性格で、別にコミュ力とか、キャラとか、一緒にいる人たちがどうとか、そういう問題ではない。
例えば「友達つくるにはやっぱりパブとかクラブ行かないとダメなのかな」と思う必要もない、と気づけた。
私の求めている人間関係はそこで作られるタイプじゃないじゃん、と。笑

もちろん友達を作りたいならそういう場に参加してみるのも大事、というのはわかる。でもそれは大学生に「サークルの新歓にいったらとりあえず友達できるよ」「飲み会に行ったことないの?!真面目だなwwww」という人たちの言葉と同じだ。
そりゃあワイワイ楽しいのが好きな人たちだから明るいしアクティブなんだけど、皆がそこで関係を作っているわけじゃない。し、苦手な人もいる。し、そこだけが出会いでもない。そこが始まりでもない。
お酒があればフランクになるよって言われても、私は依然としてカフェでお話する方が好きなのだ。
これは私のスタイルだから、私はそのスタイルでダブリンでも過ごすことができればいいな、と思っている。もしパブに行くのならば無理無理に乗り込むんじゃなくて、「一緒にトライしてみない?!」くらいのポジティブなノリで参加したい。これは、全然後ろ向きなのではなく(ちょっと行ってみたい気もするのはホント)、私にとっての居心地の良い過ごし方を見つけられたという意味なのです。
実際今週仲良くなったイタリアの女の子とは一緒にランチしたのがきっかけでその後もランチしたりカフェに行ったりできて、すごく仲良くなれたと思っている。でも彼女も昨日で帰ってしまった。

過ごし方=人間関係

ここまで書いて気づいたけれど、結局「時間をどう過ごすか」は「誰と過ごすか」ということ(一人:自分と過ごすという意味含む)と同意なのだ。
結局私たち人間は人間関係の中で生きているんだな。
もうそれは逃れようのないしがらみで、そこから完全に逃れることはできない。だからこそ、上手に付き合っていくしかないんだと思う。

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そのためにも、自分が何が居心地がいいのかを知ることは大切で、時にそれを変えてみることも同じくらい大きな意味がある。そして、自分の感覚は常に変化しているんだということも忘れないこと。アップデートし続けていかないと、どんどん凝り固まってしまう。

もし、はじめから一人がいいからと集団を避けてしまっていたら、今週帰ってしまったたくさんのティーンエイジャーたちとは知り合わず話もできないままだった。それは私が疲れるな~と思いながらも彼らと一緒に時間を過ごしたからこそできたつながりだった。

すごく難しいけれど、時間は無限にあるようで有限で、始まったものにはかならず終わりがある。バランスを保つのは簡単ではないけれど、調整できるゆとりを持ちつつ、来週のまた新しい出会いに飛び込んでいけたらいいな。
9月に入ったら、長期留学の人たちや、社会人の人たちが増えるらしい。
残りの四週間、私はどう過ごしたらいいのか、今日はゆっくり考える日曜日にしようと思う朝でした。



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