グリーフを表に出すことについて

誰かの死にともなって感じたグリーフ(悲嘆)を綴ることで、読む人を暗い気持ちにさせたいのではない。
少なくとも私は。

友人の死からは既に20年過ぎているし、両祖父についても15年とか、2年とか経っている。

なぜ、そんなに時間が経過した今になって、誰かの死を悼むことについて書こうと思ったかというと、グリーフ・ケアを学びはじめたことによって、自分の中で、何かが回復していると感じているから。

「何か」が何なのかは、わからないのだが、
たとえて言うなら、植物が種から芽を出すように、むくむくと回復している力があるように思う。
グリーフが大きい人や、死から間もない人にとっては、ウェットな感情であるが、今の自分は、比較的ドライになってきていると言い換えてもよい。

グリーフ・ケアを学ぶことによって、過去の自分や、現在の状態に気づくことができたのが、一番大きいかもしれない。
学ぶ時間や、立ち止まる時間、反芻する時間を持ったことが、ひとまずの回復の一歩になったと思っている。

だから、ここに書くことを読んで、辛い気持ちにしたいわけではない。
ただ、淡々と、日々を送るように、淡々と、回復の過程を綴ろうと思う。

回復の過程を具体的に言葉にすることは難しいと思うが、
日常の行為の中で、故人との想い出が交錯するような瞬間があったら、
それを吐き出していくことが、私の回復の手助けになるだろう。

それに、グリーフを抱えた誰かが、私のドライな感情でもいいから読んで、
自分ひとりの力では吐き出せないウェットな感情を、
内側で整理したり、
何かの形でこぼしたりできたら、
私はそれで満足だ。


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