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皆伝 世界史探求02 先史時代 農耕・牧畜の開始

氷期の終わり

皆伝 世界史02氷期、間氷期 - コピー

更新世の末期/12000年前には温暖化しました。この時代は2000年くらい続いて、アレレード期やベーリング期と言われます。
氷が溶けて水になり、大河が生まれ、洪水が頻発し、海に流れ込み、海水面が100m~120m上がった。この過程で飲み込まれた人たちもたぶんいます。湖だった黒海は地中海とつながってしまいました。ベーリング海峡が生まれて、東南アジアのスンダ大陸は沈みます。
そして、100年間で平均6℃程度も下がる寒の戻りがあります。これがヤンガードリアス期です。この末期(10720年前)には50年間に平均7℃の気温上昇がありました。このヤンガードリアス期の終わりが最終氷期の終わり。更新世の終わり。完新世の始まり。
ヤンガードリアス期の終わりがいつなのか、実は研究者の間でも定説がありません。
ヤンガードリアス期は暦年代で 1万1500年前(BC9500年)に終わったと言う研究者。
放射性炭素年代で 1万年前(BC8000年)に終わったと言う研究者。
地表部を覆う総面積5万㎢以上の氷の塊を氷床(動いているなら氷河)と言います。グリーンランド中央部から採取された氷床コアを指標として、
1万1784年前(BC9600年)を完新世の始まりと考える研究者がいます。
受験生はだいたい1万年前(BC8000年)と覚えても構いません。入試では1万年前、9500年前、9000年前という数字で出題されます。

更新世から完新世へ

この頃には氷期が終わり、間氷期に入ります。まだ氷河期です。21世紀も間氷期で、氷河期です。
地質年代は、更新世から完新世に移ります。
1万年/9000年前になると人類はホモ・サピエンス・サピエンスといわれる、わたしたち現生人類だけしかいませんでした。
 完新世になると、現在の気候区の原型が成立します。
1西岸海洋性気候地帯 主に中部ヨーロッパ
2地中海性気候地帯 主に地中海(イタリア、フランスなど)
3寒冷半湿潤地域 シベリアなど
4乾燥砂漠地帯 中央アジア、モンゴル砂漠、サハラ。高気圧が居座って、いつも晴れているのでサハラになりました。
更新世/ヤンガードリアス期の前には地球の表面が暖かくなって、崖の上にある洞窟内で住まなくてもよくなっていきます。外が寒くないので、そこで寝ることもできるようになっていきます。
トルコ、エジプト、イランにまたがるオリエントという地域はとくに土地が豊かで、麦類が広がっていました。狩猟による動物の肉とは違い、採集の穀物はすぐには腐りませんし、保存することができます。狩猟と比べて力もあまり使いません。だから、狩猟の割合を減らして、採集に軸足を動かす人も現れます。
ヤンガードリアス期になると寒の戻りで、植物が南に行かないと採集できなくなってしまいます。とは言え、南にはすでに人がいます。あるいはサハラ、アラビア砂漠などが生まれています。北のヨーロッパに行く、コーカサスを越える道もありますが、採集に依存した人は、すでに狩猟能力も衰えています。
そうなると、採集ではなく、自分で種をまいて育てるしかありません。栽培ですね。つまり、農耕を始めます。
冬は寒く夏は涼しくなったので、果実の成長は阻害され、イネ、小麦などは栄養分を真ん中にため込むようになったので、人類は穀物に特化して、それを栽培しようと考えたということです。南には果実があるし穀物もあるけれど、穀物類の成長の北限(中国でいえば淮水付近)で栽培が開始されました。栽培に適した平原で見つかる遺跡が多くなるのと時期が重なっています。

農耕を比較的早く始めた地域は、だいたい北緯の緯度が近いことが、地図を見るとわかります。熱帯雨林でもなく、草原でもなかったところですね。麦や米などの採集に適した地域です。赤道の南側にアンデス文明が生まれますね。ここも南緯ではありますが、赤道からの距離はだいたい長江、黄河、インダス、メソポタミア、エジプトに近いですね。

皆伝02 農耕の開始 - コピー

南なら果実を採集していたでしょうし、北なら狩猟をしていたでしょう。けれど、この間の地域では採集をしていたのに急に寒の戻りが来たので果実もないし、狩猟の技術も衰えて、しかも大型動物は北に移動したりした。残された人は小さな動物を取ったり、魚を取ったり、麦や米を栽培するしかありません。本格的に栽培を始めたのは、温暖化して気候が安定して、完新世に入ってからだったようです。

世界年表を見てください。ポインター(矢印)を当てると拡大できます。

皆伝02 一万年前-BC3500年 世界年表 - コピー

構造図を拡大して観てください。

皆伝02 構造図1万年前-BC3500年 - コピー

新石器の誕生

けれど、切取ろうとしても今までの石器では切ることができないので、石器の出っ張りを磨いて切れ味をよくします。これが新石器=磨製石器です。そういうものを食べるために土器や新石器が生まれて、徐々に周囲の地域に広がっていきました。つまり、文化的交流があったということです。土器自体は、木の実の保存用などに使ったと考える研究者もいます。
新石器=磨製石器というのは、全面を磨いた石器。代表的なものに、石臼、石皿、石斧があります。石斧によって主に作られたものは木造の小屋それから丸木舟です。いつから新石器かと言うと、ヨーロッパにおいては農耕のはじまるBC9000/7000以降から、男性は農業、土器や石器は女性の分業です。アメリカ大陸では男性の貴族が土器を作っていたようです。農耕は忙しいから、分業しないと時間がない。
例えば、石器を作るのに叩き割るなら1分(旧石器/打製石器)、
磨くのは1時間(新石器/磨製石器)かかります。
土器は恐らく果物を収穫するのに適した南部では、植物の蔓や枝で作る編み籠が生まれていたでしょう。だから、編み籠に粘土を押し付けて型を取り最後に編み籠を抜くことで底が丸い土器を作ったんです。そして、丸い底は安定しないから足を付けた三足土器を作りました。果実の少ない北部では編み籠があまりなかったので、わっかの紐を積んでいく成形をすることで、平たい底の土器になります。これはのちに料理のために利用する場合は薪の上に乗せたか、ひもで吊るしたかで、煮物をするようになったのかもしれません。今でも土鍋、茶瓶を自在鉤から吊るすことはありますね。日本の当初の土器は尖った底だから、足を付けても安定しないので、つけないんです。穴を掘って、そこに差し込んだようですね。

温暖化で人が広範囲に暮らすようになると、異なった気候の下で暮らすようになります。それに伴って、気温、日射量、風などの自然環境の違いから、皮膚や目や髪の毛の色、歯並び、骨格といった外見に差異が生まれます。その気候に適した体を獲得するようになるなるんですね。それが「人種」という区分の成立です。ただし、本来、「人種」はホモ・サピエンスやネアンデルタール人のように、人の種が全く違うときの分類です。
それなのに、「外形的特徴」での分類を「一般的には」しています。人種差別が頻発するので、最近の歴史学会では、「人種」という概念を使わないようにしようと考える研究者もいます。
①ネグロイド~いわゆる黒人。歴史学でなければ、アフリカ系と表現する人もいます。ホモサピエンスは最初はアフリカで誕生したので、黒人がベースになっているんではないでしょうか。
②モンゴロイド~黄色人種。日本人や韓国人や漢人(中国の多数)ですね。
③コーカソイド~ヨーロッパ人種とインド人。いわゆる白人で、コーカサス地方からヨーロッパへ入ったと考えられています。ヨーロッパは寒いので、顔に寒さをまともに受けないために、頬などが後退して、残った鼻だけが高くなったと言われています。新幹線のように風を受け流しているんですね。北極圏に暮らす人は、寒いからモンゴロイドでも鼻が高いんですよね。
④オーストロネシア~ポリネシアなど。モンゴロイドから分岐したようです。

語族-言語の系統だけで分類したもの
インド・ヨーロッパ語族~英語やロシア語、インド諸語。ゲルマン人、ギリシア人、ラテン人、ヒッタイトなどを含みます。
アフロ・アジア語族~古エジプト語族、セム語系-アラビア語、エチオピア語、アラム語、フェニキア語やヘブライ語・アッカドやアムルも含みます。
ウラル語族
アルタイ語族
シナ・チベット語族~中国・タイ
オーストロネシア~インドネシア・ポリネシア・マダガスカル
ドラヴィダー語族~タミール語
日本語・韓国語は以前はウラル・アルタイ語族といわれていたが、未確定で再び藪の中だそうです。
*語族>部族>氏族
氏族は共通の祖先を持ち、血縁関係があります。クランとも言います。共通の祖先は事実かどうかは関係なく、そうであると考えられている伝承であって、ライオンやトラや熊、鹿が我らの祖先だと言う場合もあります。神聖あるいは力のあるとみなされている動物が共通の祖先であると考える集団がいくつか集まったものです。北米のトーテムポールも祖先を表す動物を象っていますが同じことです。そしてこの氏族が集まったものを部族と言います。

民族が生まれたのは少し遅れて大体7000年前/BC5000年です。
「民族」は本来は、言語、宗教、生活習慣、価値観、倫理観などの文化的な特徴で分類された集団です。だから本来は民族=語族ではありません。「一般的には言語の違い」で分類しています。
20世紀からは意図的に誤用して、「われら日本民族は」「われらロシア民族は」などと、今現在の国家の支配層と同じ国籍、同じ頃その国や土地にやってきた人を指す場合もあります。どの国でも厳密に見れば全国民が一つの民族であるということはないので、一般的には日本人・ロシア人というのが普通です。 

そして、オリエント全域に磨製石器の段階が来ます。BC7000年頃になると、定期的な氾濫に伴う栄養豊富な地面を持つその肥沃な三日月地帯に人が集まって来て、農耕(栽培と収穫)、酪農(家畜化して、肉を食べ乳を飲むこと)が発生します。この発生を食料生産革命といいます。農耕と酪農じたいを生産経済と言います。因みに、プレステッドさんが肥沃な三日月地帯と命名しました。国で言えばイラク、クウェート、エジプト、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン。エジプトは少し遅れて紀元前5500年頃、三日月地帯に入ります。

農耕遺跡

原始農耕の段階。自分の居住地域の周辺で焼畑をしながら移動します焼畑というのは生えている樹木を焼くことで樹木が灰になり、それが次に戻ってきたときの栄養分になるのです。何年か先にその場所に戻って来る頃にはまた木が生えているのです。リンや窒素などの土地の栄養分を使い果たすと場所を移動し、何年かに一度同じ場所に戻ってくる。おそらく採集の時代から、採集したものを集めたり保存するために土器も作っています。
西アジア/オリエントでは、最初の栽培植物は小麦、つまり麦です。原始農耕生活の遺跡の代表例はメソポタミア北部の北イラクのジャルモ。新石器時代が開始されます。農耕に加えて牧畜もしていたようなのが、死海の西側のイェリコでした。

皆伝02 農耕遺跡 - コピー

当初は乾地農法でした。人工的な水路を作ることはなく、つまり、まだ灌漑をしていませんでした。
原始的な穀物を栽培するようになる。現在と比べて、実が小さく、実の数量も少ないものでした。そこから少しでも大きく、多いものを選んで、種をまいていくうちに、すこしずつ実の多い、実の大きい植物へと改変されていきました。最初のころは、氷期から間氷期への過渡期なので気候変動が激しかったのだと思います。だから凶作もあっただろうし、飢餓に陥ることもあったでしょう。狩猟採集民と比べて、栄養不足になる人も多かったようです。
栽培化のまとめ
BC8500年(1万500年前)小麦、大麦、オリーブ、エンドウ、ナツメヤシ、粟‐西アジア
BC7500年(9500年前)米-長江、
(粟―黄河でも開始)
BC7000年(9000年前)サトウキビ、バナナ‐ニューギニア
大豆、きび、ひょうたん-中米?
BC5000年(7000年前)アフリカ稲‐アフリカのサヘル(草原。現在のマリなど)地帯
穀物をすりつぶして粉にするための石臼、石皿が登場します。
主要生産物はインダスでは麦、黄河では粟です。

採集と栽培、乾地農法と灌漑農法、略奪農法の違い

採集は自然に生えている植物や、生っている果物を取ること。
栽培は根を張りやすいよう土を耕したり、排水しやすいよう畝を作ったり、日当たりや排水など好都合と考える場所に植えること。それだけなら乾地農法・略奪農法と言います。
乾地農法では天水農法(雨水に任せていた水やり)でした。
灌漑農法では水路を作ります。
略奪農法では焼き畑農法のように時間が経過して地力が戻ることに任せたり、栄養補給を洪水に任せていました。しかし、これに代り肥料を与えるようになると脱略奪農法です。特に施肥農法などの名称はありません。

特に中東では食用に適して且つ、栽培しやすい植物がまとまっていたことにより、カロリー摂取の容易さから、人口拡大と人口集中が起こります。当初は人間の体に必要な塩が取りやすい死海付近のイエリコ(ジェリコ)などに集落が生まれました。湖の周辺は洪水の危険も少ないと思います。
夏に雨水が得られるので、秋に穀物の収穫ができる。洪水で栄養分を含む土が下流に溜まるから、穀物が繁茂する。とはいえ洪水を避けるため、下流には暮らせません。氷河の溶けた水の起こす洪水から逃げ場のない平野の広がる下流ではなく、丘などが適度にあり起伏に富んだ中流の北イラクにあるジャルモに集落が生まれます。上流は川が急すぎる、土が削られはぎとられ土壌が豊かでないから暮らしません。温暖化が進んで氷河が減ると、夏だけに洪水が起こるようになります。だから、集落は下流へ移動する。下流は上流から土壌が運ばれて地味豊かだから、穀物が繁茂しやすい。以前より洪水規模は小さいので、いくらか高台になっている土地があれば、逃げられます。または、長年の流れによって、自然堤防が高くて、たくさんできている可能性がある、そういうところへ集落を作ったのかもしれませんね。
水は低いところへしか引けないので高台にある丘陵地は適さないし、広い土地を必要とする農業には狭い森林は適さないので、栄養分が豊富な広い土地のある下流域へと移ったとも言えます。ともかく、都市ができるまでは、高台のテペの集落に暮らしました。農地は丘の下に作ったのでしょう。エジプトでもメソポタミアでもインダスでも黄河でも長江でも人口少ないうちは中流に暮らしました。そして、人口が増えると肥沃な土を求めて下流へ行きます。灌漑が可能になると中流へ戻りました。エジプトでもメソポタミア(中流のジャルモから下流のウルへ、またバビロンへ)でもインダスでも黄河(中流の仰韶から下流の竜山へ、また殷墟/商へ)でも長江でも同じ経過をたどります。

定住の開始

話を戻しますと、栄養分がほどほどの中流に暮らし始めます。たぶん、最初は洪水を避けたり、採集する穀物を追いかけるために半定住、つまりいつでも移動できるように動物の革や枝や葉、草を使ったテントをつくっていました。その技術を応用して半地下に屋根をさしかけた竪穴式住居を作り定住を開始します。採集に依存することが多い時代でした。
人口が増えると、洪水が起こることで土に栄養分が豊富なティグリス川、ユーフラテス川の下流、ナイル川の下流のデルタ地帯などへ移ります。そうでないと食べつくしてしまうからですね。のちに、ギリシア人のヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と『歴史』で書いています。そして、おそらくそのころには氷河が小さくなって、一年中洪水ではなく、春から夏にかけての洪水になっていた可能性もあります。だから、下流域といっても、住む場所はやはり一段高い所に住み、洪水を避ける。それがテペの集落。テペtepeは丘という意味。英語のtopへ進化すると思います。日本語の天辺と覚えてもいいでしょう。
下流域では泥が多いので、粘土で神殿などの公共建築物を作りはじめました。各地の集落から人が集まって神殿を建てたんです。祖先が同じだから時には集まって祀ろうということなのかもしれませんね。
焼畑などの移動型農業も並行していましたが、十分な生産量が確保できるようになった地域では定住が起こります。川のないところや、牛馬のいないところは無理なんですね。サハラ砂漠以南のアフリカでは21世紀になっても十分な生産ができないので、移動式農業と狩猟採集を組み合わせている地域があります。従って中東が「先進的」、サハラ以南のアフリカが「未熟・未開」という観念は当てはまらないと言えます。

家畜化

そして農耕を始めると、当初は大まかな範囲で移動をしていたので、半定住することになります。そうすると遠くまで動物を追いかけていく狩猟はできませんが、栄養バランスを考えると肉は必要です。だから動物の家畜化をします。
牧畜とは家畜化のことなので、家畜の肉を食べて、家畜の乳を飲むようになるんです。犬は狩猟にも使いました。当初から犬の肉を食べていたかどうかは知りません。
家畜化のまとめ
BC1万2000年(1.4万年前) 犬‐西南アジア、中米、北米で開始
BC1万年(1.2万年前)    羊・山羊‐西南アジア
             豚‐西南アジア、中国
BC8000年(1万年前)    牛‐西南アジア、インド
BC7500年        蚕(家畜と言えるのか難しい)-中国
BC6000年(8000年前)   馬‐ウクライナ
              ロバ‐エジプト
BC5500年(7500年前) リャマ・アルパカ‐アンデス(中米) 
BC5000 年      サヘルでホロホロチョウ
BC4500年(6500年前) フタコブラクダ‐中央アジア
           ヒトコブラクダ‐アラビア半島
BC3500 年(5500年前)アンデスでは鼠(恐らく食用)
*//BCはBefore Christ、つまり紀元前のことです//
犬は牧畜の手伝い、犬橇、番犬。
羊・山羊は毛皮、食用。
豚は食用。
牛は労働(犂や荷車を引く)、食用。
馬は乗馬(移動・騎馬や戦車として戦闘)、労働。
ロバは労働。
リャマ・アルパカは荷物を乗せます。
ラクダは乗用、つまり移動に使います。
牛、馬、ロバという労働のできる家畜がいるインドからエジプトにかけての地域だけが土地を深く掘って、穀物生産量を上げられる=人口増=戦闘に有利、様々な発明をするし、余暇が得られます。
当初は狼や猪といった動物を次第に掛け合わせて、温厚な家畜(犬、豚)としていきました。
非常に気の荒いカバやシマウマ、成育に時間のかかる象などは家畜化できないんです。だから、アフリカには家畜化できる動物はいないし、文明化に寄与しなかったんです。現在アフリカに動物が多いのは一万年前から狩猟・家畜に適さない動物ばかりで、生態系が保持されたからだろうと、研究者は考えています。
大きな森や砂漠の少ないユーラシアは比較的人的移動が楽なので、時間をかけて西南アジアの牛や豚が他に伝播しました。サハラや海で隔てられたアフリカやアメリカ大陸、オーストラリア大陸には交通が発達する大航海時代までは、殆ど入らなかった。またアフリカでは牛を死に至らしめる眠り病があるので、持ち込んでも容易に普及しないという事情がありました。

都市の形成

オリエントでは麦の種をまく時期に雨が降り、秋に収穫します。人工的に水路を作る灌漑農法も生まれます。これまでのようにバラバラになっていては追いつかないので、総出で仕事をしなくてはいけません。助けあいが必要なので、労働力が集約されます。つまり特定の時期に、特定の場所に人が集まり、特定の仕事を一緒にします。これはすでに神殿を作るときにしていたことです。この力を農耕にも向けます。
そして、神殿の周囲に暮らすようになる。都市の形成です。集落とちがうのは顔見知りでない人間がいることです。城の周囲に作られる街を城下町と言いますが、ここでは神殿都市/寺町都市となっていきます。
すこしづつ生産量が上がっていくにつれて、食べても余るようになっていきます。余剰生産物の蓄積が生まれていきます。獲得経済(狩猟採集生活)をしていた頃と違って、生産経済ではその日に食べなくてもいいし、保存がききます。 そうするとそれは誰が保管するのかと考えます。
「みんなで分けて、保管しよう。保管しているものは自分のものだ」。だから、所有権が生まれます。所有権が誰になるか、誰のものかを確定するために記録する必要があるので文字が生まれたと言う学者がいます。

農業をすることによって自然には秩序があり、その背景には神がいるという感覚を持つようになったと考える学者もいます。狩猟の時代から神はいたと言う学者もいます。いずれにしても、洪水などで穀物が流されても神殿にある倉庫から、ただちに種を貸すことができます。けれど700人もいれば、憶えていられません。誰に貸したかの記録として文字は必要になります。
近くの集落と物の交換=交易をするときに、なにをいくつ持って行ったか、途中で抜いたりしていないことを示すために文字を作ったと考える研究者もいます。この学説が、今のところ有力です。

農業=人手が必要=集住する=都市が発生する。そうすると、命令支配=階級の発生=神官、戦士という流れがあります。

農耕をしていない牧畜で暮らす人たち、狩猟採集で暮らす人たちが食べ物を求めて農耕地帯に暴力的に入って来る時に、農地をほったらかして全員で戦はできないから、戦士が誕生します。また、農耕においてはいつ種をまくか、いつ刈り取るか、いつ洪水が来るか、いつ雨が降るかを知ることが必要だから、気象予報士が重宝され、天気を読む力は人間の理解を越えた超能力と思われたかもしれない、それが神官であり、集落や都市の王になりました。戦士や王はほとんど農作業をしない期間があるけれど、農耕には欠かせない仕事をしているので、彼らに収穫物は配られる、税金の誕生です。
また、集落が大きくなり例えば1000人を超えると、人の顔も覚えていられないし、だれが税を払ったかも覚えていられないので、税金の記録のために文字が生まれたと言う学者もいます。エジプトでは神との関係で文字が生まれ、中国では神意の占いのための文字が生まれたと言われています。

戦士や気象予報士/神官に穀物を分ける=税金を払ったものとそうでないものを区別するために名前が必要になるし、所有権とは別にもっと複雑な文字が必要になります。
皆伝の03で登場するシュメール文字は最初は絵文字、そして楔形文字へと変化していきます。
定住すると、土器をたくさん作るようにもなるし、専門家、職人が誕生します。自分たちのいる都市の名産の土器や縫物/布生地、アクセサリーなどを近くの都市に交易しに行くことに専念する人もいます。つまり、商人が誕生します。当初は先史時代のように遠い親戚を訪問するという形から始まったのかもしれません。こうして神官王、戦士、職人、商人という人たちが暮らすようになった集落を都市といいます。農民が主な集落を村と言います。

旧石器時代から彫刻はありましたね。ヴィレンドルフの石のヴィーナスを思い出しましたね?
彫刻は削るので、引き算。マイナスの芸術です。やり直しがきかず、出たとこ勝負をするか、完成図を思い浮かべてから作ります。
土器は粘土を積み重ねる足し算の芸術。やり直しがききます。世界中でほぼ同時期に誕生したようで、一人が発明し、それが拡散したのではないとのことです。
①土を探す。
釉薬の光沢が明るくなる白い土、または、きめの細かい土など好みや用途に応じます。
②土を混ぜる。
日本では菊練りと言います。土の空気を抜いて、土の密度を均質にします。
③形を作る。
手だけ。または、回転台、または回転を継続できる轆轤(ろくろ)を使います。
④釉薬をかける。乾かす。
釉薬(ゆうやく)は、主に長石をすりつぶして作ります。爪の表面に保護するためにマニキュアを塗りますね。釉薬の用途はあれと同じです。中から水漏れしないようにする役割もあります。
⑤焼く。
土のくぼみに置いて、安定させます。または、窯を作って、その中で焼きます。
⑥乾かす。

土器は当初は、素焼きと言われる。釉薬(ゆうやく)なしの土器のことです。素焼きの陶磁器を炻器(せっき)ということもあります。因みに中国では素焼きを陶器と言って、釉薬をかけたものは磁器。欧州では陶磁器の区別自体をあまりしないらしいです。こんがらがりそうです。
土や粘土から作る土器=陶器はもろいので分厚く作る、だから重いんです。爪で弾くと低音がします。
ガラス質の入った土で作るものを磁器と言います。磁器は硬いから薄く=軽く、甲高い音がします。
どんな土を使うかで、土器の色はだいたい決まります。また、それとは別に焼成温度(焼き固めたときの温度)が高いほど、黒っぽくなります。火力が低いと赤いですね。
先生が言うには
「恐らく自然に発生した火事で土が焼けた跡を見て、土器製作を思い立ったのだろう。火は原人がすでに調理や捕食獣を追い払うために使っている。焚火では、土の水分が抜けて固まる800度を生み出せないから、最初は穴を掘って、その穴へ土器を半分埋めて焼いたのだろう。初期の土器の底が尖っているのは、穴に突き刺しやすくしたからかもしれない。
ちなみに銅と錫の合金である青銅器は人間がつくった最初の合金属だ。土器よりも固く、石器よりも形を自由に作りやすい。銅に、敢えて銅よりも柔らかい錫を混ぜたのは、恐らく高い温度を生み出す技術がなかったから。錫(硬度1.5~1.8)は231度が融点、銅は1083度(硬度2.5~3)で溶け始める。錫と胴をまとめて溶鉱炉(当初は頭蓋骨などを使ったようだ)に入れると875度で銅も溶ける、そして混ざり合い青銅になる。875度は土器製作の時に生み出した火力とほぼ同じ、土器を作れる人は青銅器も作れる。
鉄は融点が1500度(硬度4)。錫は石や土や銅と較べれば希少な金属だから、青銅器の製造法や技術が伝わってもどこでも作れるものではない、原料が手に入るところ、その近く、輸送業者がいないと作れない。人類誕生以前に地球中に降り注いだ隕石に含まれる隕鉄から簡単に取り出せる鉄はどこにでもあるから、鉄器製造のための火力を生み出す技術さえ伝播すれば、どこでも作れる。だから、瞬く間に普及した。土器には刻んでも、浮き彫りにしても、絵付けにしても、模様を付けることは容易だ。青銅器や鉄器は金属だから、絵の具が定着しない、だから色彩豊かな金属器は存在しない。地の色である」
とのことです。
もろく水漏れがする彩文土器は彩陶と同じです。土器は陶器。酸化鉄/錆びた鉄は赤錆・黒錆・白っぽい錆になるんです。それを木の棒などを使って塗って、土器を彩るから彩文土器と言います。土器は食べ物を煮ることで、(ジャガイモの芽にあるような)毒を抜くために使用しました。食べ物を保存するためにも作りました。

無文土器から刻線文土器、彩文土器へ。
BC6000年代ハッスーナ文化期のメソポタミア北部やサマラ地方では、恐らく写実的な動植物の文様/紋様を簡略化していき、刻線文、単純な幾何学文様の彩文土器を作ったのでしょう。黄褐色の地(ベース)に赤・紫褐色の顔料を塗って模様を描きました。続くハラフ文化では洗練された装飾が表れたと言います。
BC4000年期、ウバイド期には轆轤(ろくろ)、窯の改良がありました。
ウル王朝などでは一部を彩り模様にした彩文土器に加え、全面が黒、赤褐色土器もあったそうです。
アナトリア半島にはBC6000年に新石器と金属併用時代があり、黒色土器が登場します。
BC6000年-BC3100年の先王朝時代の上エジプトでは彩文土器を作っています。地は赤褐色やクリーム色、そこへ赤黒など顔料やスリップ(化粧土)などで彩色をします。
中国はBC8000年に江西省の仙人洞、河北省の南荘頭遺跡で、無文か細縄の文様の土器が作られました。華北などでは仰韶文化、紅山文化(河北、内蒙古、遼寧省)では紅陶を作っています。


地域別

□□アメリカ大陸
温暖化で植生が変わって、草食動物が絶滅します。そうすると大型肉食動物も絶滅します。ヒトの狩猟活動もこれを促進したようです。やがて、メキシコのタマウリーパス、オアハカ盆地、テワカン盆地などで、どんぐり採集が始まります。トウガラシ、アボカド、カボチャの栽培も開始します。
一説にBC7000年の中米で大豆、キビ、瓢箪の農耕が始まりました。それから、トウモロコシ、豆類の栽培も加わったようです。農耕は冬への備え=保管=余剰物資につながるので、人口増加への道が開けます。保管のための土器(BC2300年)、知識を持った者(気象予報士、神官、王)、施設(倉庫や神殿)へとつながります。

メソアメリカ文明(中米)の発生。
七面鳥、犬を家畜化しました。労働用ではないんです。
つまり労働は全て人が行うんです。
この頃のトウモロコシは品種改良されていないので、穂軸は1.9-2.5cmでした。つまり、小粒で、少ない(36or72粒)ということです。海産物、小動物の狩猟で、定住も開始します。

アンデス文明(南米)の発生
BC5500年リャマ・アルパカ‐家畜化。荷役を行います。ただ、人が乗ることを嫌うので、情報伝達の速度は、人の走る速度が限界でした。
土器はBC3000年頃からコロンビア、エクアドルで海岸漁労民が使用します。煮炊きに使うのか、タコを取る漁具なのかは知りません。

サハラ以南アフリカ
BC1.1万年前、西アフリカに土器が発生しました。
BC5000年(7000年前)アフリカ稲がサヘルで栽培されました。
*サハラは砂漠の意味。砂の海とも言われるから、海の周辺の草原はサヘル(岸辺)と言われます。

ヨーロッパ
BC5000年、西アジアから農業と新石器が伝播しました。
巨石文化/巨石文明~西ヨーロッパは新石器段階で、半定住か定住だから、近くに人が暮らしています。だから、たくさんの労働力を集めることができます。つまり、大規模工事が可能になるんです。
立石/メンヒルは巨石を一つ縦に立てたものです。石碑型ですね。フランスのブルターニュ半島のカルナックには1km以上にわたって、メンヒルがずらあっと並んでいます。
卓石/ドルメンは三つ以上の巨石を使い、二つを脚部として支えにし、一つを卓部として使うものです。テーブル型ですね。
ストーンサークル/環状列石は立てた巨石を円形に並べたものです。何を目的とした建築なのかは、わかっていません。いろんな説はありますが、定説がありません。夏至や冬至の朝日にストーンサークルの一番開いた場所から光が差す事から、季節を表す日時計という説があります。祭祀のための儀式場という説もあります。英国のソールズベリ近郊にあるストーンヘンジにあるものが世界でもっとも有名なストーンサークルですね。
BC3800頃から湖上生活をする人たちがいます。スイスなどに多かったみたいですね。襲われにくくて安全ということなのか、干拓をするということなのかは知りません。

東欧の北部(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)
BC6000年(4000年前) 馬がウクライナで家畜化されました。
東欧平原は、ステディ山系・カルパチア山脈が西部の境界、南は黒海・クリミア山系、コーカサス山脈、カスピ海が境界、北はバルト海バレンツ海、東はカスピ海よりも東にあるウラル山脈が境界になっています。
東欧の北部は、東欧平原のうち、森林・森林ステップ・ステップ圏に属する、比較的気象も穏やかな地域。完新世になってバルト海や黒海は平原から海になります。ノアの洪水伝説の元は黒海が最有力説です。
ウクライナは三つの気候圏にまたがっていて、他の五カ国は森林圏(ポーランドの東南部だけは森林ステップに入ります)。つまり平原なのでオープンで、メソポタミアと同じように異民族が侵入しやすい。森や砂漠、山地、谷なら守りやすいし、入りにくいんですけどね。
土壌はポドゾル(砂か粘土質。酸性。灰白色)で、常緑の針葉樹林のため腐植土(栄養)は少なくて、耕作には不向きです。
7月の平均気温はワルシャワで18.6度。1月は西部で-4度。東部で-16度。寒いですね。年間の降水量はバルト海沿岸で800mm、ベラルーシで700mm。海洋性気団(サイクロン、タイフーン、台風)もやってきます。樫、菩提樹、楓、西洋トネリコ、白樺などが自生しています。ポーランド、ベラルーシの境にはジューブル(野牛)が生息しています。
ウクライナの森林ステップ圏内では黒土もあって、降水量も500-600mm、耕作に適している大陸性気候。丘も樹木もないので強風。夏はやたらと暑くて冬はとても寒い。つまり雪解けで洪水が急に起こりやすい土地です。降水量は400-500mmで、夏は暑いために蒸発量は800mm、つまり旱魃が起こりやすい。10年のうち4、5年は旱魃。土が良くても、ねえ。
雨季には、沼沢地が発生します。湿気と腐食で有毒ガス、熱病、肺病、気管支炎になりやすいんです。農業は灌漑ではなくて、排水が重要になります。また、寒冷で土地がやせているので18世紀後半にジャガイモが普及するまでは耕作は少ないようです。ステップ地域は18世紀後半にロシア帝国の支配に入って、穀倉地帯化しました。黒土なので50年間施肥なしで収穫できるそうです。 黒土で排水のいいステディ山系・カルパチア山脈・クリミア山系では葡萄、タバコ、ホップ(ビールか)の収穫もできます。
ステップは馬なら侵入しやすいんですけど、森と沼沢地は暗くて、野獣が多いので、川を進むしかありません。勾配が少ないので流れがゆっくり、小舟で進めます。ノヴゴロド地方からヴォルガ川でカスピ海へ、ドニエプル川で黒海へ、西ドヴィナ川でバルト海へ、ロヴァチ川でイリメニ湖を経てラドガ湖へ行けます。
ポーランドもボヘミアを経てローマへの陸路に通じているし、リトアニアからドニエプル川、黒海、地中海を経てローマへの水路があります。ローマへの琥珀の道と言われています。
森の民は狩猟採集から農耕へ、草原の民は牧畜と交易、海の民は漁業と交易で、相互補完的です。だから、両者の衝突は森林ステップという境、つまりウクライナか、沿岸部で起こります。人口に勝る森林の民が、相手を追い払うか同化して民族意識を作っていきます。

ウラル・アルタイ語系-フィノ ウゴール系 エストニア人(ヴォルガから移住)
インド・ヨーロッパ語系-バルト系 リトアニア人 ラトヴィア人 
            スラブ系 西スラブ ポーランド人 
                 東スラブ ウクライナ人 ベラルーシ人
ベラルーシ人は1991年に自前の国家を初めて持つので民族意識は薄いそうです。ルーシの同化したウクライナ人は国家建設は早いんですけど、モンゴルによる断絶があります。


オリエント
オリエントとはラテン語のオリエンス「日の昇る方角」に由来します。ヨーロッパ世界から見て「東方」と言う意味です。東洋的/オリエンタルという表現から類推できますね。
メソポタミア=北部のアッシリア地方(内陸シリアとも言う)、南部のバビロニア地方(①南部のシュメール地区+②北部のアッカド地区)、
小アジア(地理名はアナトリア半島)、
エジプト、
シリア海岸部/沿岸部(+内陸シリアを歴史的シリアという)、
イランのザグロス山脈の以西
をまとめてオリエントと言います。
イラン全域を加える学者もいます。

BC6000年(4000年前) 、この頃最古の農耕が開始されたようです。北イラクにジャルモ、イスラエルにイェリコがありました。
BC5500頃オリエント全域に農耕拡大。いつ種を撒き、収穫するかを知るために神官/気象予報士が必要です。人が増えると収穫の多い下流へ移動しました。そして、洪水を避けるため、丘の上に集落を作ります。土器も使用します。
BC4000年ごろに灌漑農耕に移行します。

オリエントは、エチオピア高原から流れてくるエジプトならナイル川、イラクなどのメソポタミア地方、シリアなどはカフカス山脈の氷河の解けた水に雨が加わったユーフラテス川、ティグリス川などがあるので、氷河が残っているうちは土地の地味が豊かです。肥沃な三日月地帯と言われます。形が三日月に見えますか?

皆伝02 農耕遺跡 - コピー

インド
BC8000年頃、牛を家畜化します。
BC5000年、新石器段階に入って、移動農耕を開始します。
ヒマラヤ山脈から流れてくるインダス川、ガンジス川などの大河があります。

中国
中国文明=黄河文明+長江文明

黄河流域
BC1万年前、豚を飼育します。
BC7500年、米、粟を栽培します。
この頃、新石器段階へ入ります。
BC5000年、黄河文明。
洞窟で暮らしていた人が出てきやすい場所で、土地の地味が十分にあって、洪水が少なく避難できる丘もある中流域に人が集まります。
BC5000年頃に始まる仰韶文化(やんしゃお/ぎょうしょう)。その代表的な遺跡は陝西省の半坡遺跡です。ここは渭水盆地にある西安の近くで、地味がなくなった土地を去って、下流の山東省などに文化の中心が移った後、人口が増えて灌漑農耕を行うようになると、土地が広いので戻ってくるところです。そして、のちに鎬京、長安(西安)などを作るようになります。ここは中国の文明の中心であり続けて、中原と呼ばれる地域の中心でもあるし、函谷関の西を指す関中とも呼ばれる地域でもあります。

長江流域
長江文明。
洞窟で暮らしていた人が出てきやすい場所で、土地の地味が十分にあって、洪水が少なく避難できる丘もある中流域に人が集まります。
湖北省にBC7000年頃の最古級の遺跡が見つかっています。その後、人口が増え、また温暖化が進み氷河が減ると、雪解け水も減り、洪水が減り、土地の栄養分も減るから、下流に移るんです。下流は栄養分が豊富なのです。そのころには洪水も少なくなっています。
下流地域の有名な遺跡には以下があります。
BC5000年頃、浙江省に河姆渡文化を代表する河姆渡遺跡。新石器。稲作。

日本列島
土器の使用 (1.6万年前が最古?)
狩猟から、栽培へ。瓢箪 、あずき、ごぼう、栗。
1.1万年前-7300年前は縄文早期。新石器時代
竪穴式住居や貝塚・土偶
漆の使用
7300年 -5800年前は縄文前期
7000年前、縄文海進が始まります。平均して2~3m海面が高くなって、海が内陸に食い込んでくるので、こう呼びます。微高地は海に沈み、多くの入り江が生まれます。21世紀の内陸部に貝塚があるのは、当時は海辺だったから。
貝塚は貝の食べあとだけが捨てられたのではなくて、動物、魚、土器、石器、骨角器など、ともかくごみはすべて捨てました。塚と言っても宗教的な要素はありません。
先生は「ごみ山と称するのが適当と、余は思う」と言っています。

朝鮮半島と九州の間の陸地は高くないので、海水面が高くなると、海流が陸地を飲み込む。対馬海峡ができます。対馬が九州から切り離されるんですね。対馬と半島の間の朝鮮海峡は15万年前に切り離されています。
黒潮の支流である対馬暖流が流れ込み、日本海側に豪雪地帯が誕生します。現在は海面が5m以上は低くなった(海の深さ90m-100m)けれど、地形の変化もあったので、対馬海峡は陸地化していません。
6000年前頃、環状列石(東北地方)
6000年前頃、九州・四国・北海道が分離します。
縄文海進の最盛期、5m現在の海面より高いようです。
6000年前の縄文前期には円筒形の土器文化、前期の終わりには大規模集落(三内丸山遺跡など)。
5800年-4500年前は縄文中期
寒冷化でブナ林.栗などの雑木林が造成されます。
縄文前期か中頃に、現代の植生になります。
落葉広葉樹林=東日本に多い(木の実多い=餌とする鹿猪が多い、関東・東北の太平洋岸は鮭鱒が多い)=遺跡が多い。
中期は関東・中部に環状集落が発達。栗の栽培が中期の5400年前くらい。縄文特徴である煮炊き用の深鉢、九州南部・沖縄は磨消(すりけし。模様以外を磨く)で、縄文/縄の文様なし。
人口は全体で26万人。九州・近畿5万人、中部5万人、関東5万人、東北5万人、北海道5万人。(端数は切り捨てたので、合計の数字は一致しません)
5500年~4500年前、陸稲/畑
4500年前- 縄文後期・晩期。定住の村が生まれます。 
北海道の縄文後期、墓に壊した土器を入れました。個人専用の器が不要になった時を意味するのでしょうか。西日本では、21世紀の告別式で、出棺時に茶碗を割りますね。北海道だけ装身具以外の魚骨貝殻を副葬します。沖縄では骨を洗います。

太平洋
オセアニア
BC7000年頃、ニューギニアでサトウキビ、バナナの栽培を開始します。

まとめ
更新世から完新世へ
洞窟から外へ
旧石器・中石器から、一部の地域では新石器へ
狩猟・漁猟・採集から、一部の地域では農耕・酪農へ
移動生活から、一部の地域では半定住・定住へ

次回は、BC3500年からBC2100年、青銅器時代、文字の誕生の時代です。メソポタミア文明、古代エジプト文明などの全盛期ですね。
次の皆伝03はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n4b89a3aa8f85

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