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皆伝 世界史探求11 184年-395年

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皆伝11 年表 - コピー

皆伝11は、184年の黄巾の乱からローマが東西に分裂する395年までの時代です。時代を同時に見ると、中国の三国時代、朝鮮半島の三漢時代、ササン朝の成立がだいたい同じ時期で、コンスタンティヌス帝とグプタ朝、東晋、三国時代がだいたい同じ時期に始まるとわかります。
同時代を理解すると、コンスタンティヌス帝と同時代のササン朝、グプタ朝、東晋の、王や皇帝を答えなさいという出題にも簡単に答えられますね。グプタ朝は成立したばかりなので、始祖だとわかります。チャンドラグプタ一世です。


□□サハラ以南アフリカ

メロエ王国は継続しています。
エチオピアにはアクスム王国が継続していて、320/350年頃にメロエ王国を吸収して、キリスト教を受容します。また、ローマ帝国の混乱をついて紅海の貿易に進出して、ササン朝と勢力を争います。

□□ヨーロッパ

この時期、農耕をしているゲルマン人は人口が増加して耕作地が不足したので、居住地を拡大します。たとえば、214年にはゴート族は黒海北岸に移動しています。ヨーロッパ西部では、さらにケルト人を追いやっています。
また国境を接するローマ帝国に平和的に移住をはじめました。移住した人は小作人や農奴、傭兵、下級官吏(役人)になりました。
230年以降は暴力的に侵入する部族も出ました。
4世紀前半になると、ゲルマン人のうち、ローマ帝国と国境を接する人たちはキリスト教に改宗しはじめます。ローマ帝国内で異端とされたアリウス派のキリスト教が、ゲルマン人への布教を熱心に始めたからです。その時代、その地域で権威者や多数派が正統でないと考えたものを異端と言います。実際に正統かどうかは関係ありません。

4世紀の中ごろ、フン(フン人/フン族)がヨーロッパへ侵入してきます。フンは出自が不明で、匈奴が西へ進んできて、フン族と呼ばれるようになったと言う学者がいますが、証拠はありません。モンゴル平原からカスピ海北部にかけての草原地帯には多くの遊牧民がいて、離合集散を繰り返しています。その都度、様々な組み合わせをして、周辺の国から勝手に名付けられるんです。つまり、匈奴やフンを民族と考えるのは不適当かもしれません。フン族にも匈奴を形成した部族の一部が混じっているかもしれませんしね。
フンは東からやってきたので、ゲルマン人の東ゴートは抑え込まれてしまいます。375年、フンの脅威を避けるためにゲルマン人の西ゴートがローマ領内に越境しました。そしてドナウ川をも超えてローマ帝国内に入りますこれが民族移動のドミノ現象につながって、歴史的にはゲルマン大移動と言われる出来事になります。
もちろん、西ゴートをはじめとしたゲルマン人は、以前からローマ帝国内へ移住して、農民や傭兵、下級官吏(役人)になったりしていました。けれど、この395年以降は余りに多く、無秩序に乱入してくるようになったんです。21世紀の北アフリカや西アジアからヨーロッパへの難民や移民の流れ、中南米からの米国への流れもそうですが、そうなると同化する時間もありませんし、文化的な摩擦も起こります。流入される側の人間は不安を覚えます。
21世紀には「そもそも国籍で差別するのは正しくない」「追い払おう、壁を造って入れないようにしよう」「政治的な亡命者と、技術や知識が豊富なので貢献できる人だけを入れよう」と言う人がいます。「人は憎むことを学ぶ。憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる」とマンデラさんが言ったように、元々の差別主義者というのはいません。 持っている価値観(愛されて育った、差別されて育った)、現在の経済状況(裕福だから移民を雇いたい。失業しているから競争者が増えてほしくない)、住んでいるところ(移民の多い国境に近い、遠い)、周囲の意見などで異なると思います。
移民したほうにも考え方の違いはあります。同化したほうがいいのか、生来の文化を持ち続けるほうがいいのかという問題もあります。
20世紀には日本人になりたいなら二重国籍を認めない、朝鮮語、琉球語を公共の場で話すな、朝鮮の名前をやめて日本人風の名前にしろという圧力や政策がありました。21世紀にもあります。在日朝鮮人の人や、被差別部落の人に特有の名前だと、いじめる人がいますし、就職の面接にも呼ばない状況があります。だから、仕方なく日本風の名前を名乗ったり、その時だけ住所をかえる人もいるでしょう。これは米国でも見られることだそうです。
受け入れる側が同化できそうな人だけを入れようとすると、そうなります。米国ではアジア、アフリカ系の人を制限して、西欧の人だけを移民として認める時期がありました。
ただ、言葉や服装や宗教や名前や国籍といった生来の文化を捨てることは、アイデンティティを捨てることにもつながります。そうすると鬱病になったり、かえって故郷の宗教や服装を強調する人も出るでしょう。それに対して、出ていけと言ったり、監視が強まったり、危険人物とみなされて差別が始まったりもします。そうすると怒りが爆発して暴徒化する負の循環もありえます。いづれにしても移民は双方の問題なんです。ここから先は自分で深く考えてください。もっと学びたい人には「無意識のバイアス」(ジェニファー・エバーハート)という本があります。

4世紀後半には、移住したゲルマン人が次第に暴徒化したので、ローマ帝国のヴァレンス帝が出陣しますが、鎮圧に失敗して、ハドリアノポリス(アドリアノープル)の戦で敗北して、戦死します。21世紀のトルコ領内エディルネですね。

□□ローマ

ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスという人は、カラカラが綽名(あだな)でした。ガリア地方のフード付きチュニックをカラカラと言うそうで、お気に入りの服だったのでいつも着ていたら、カラカラと言うあだ名になったそうです。暴政で名を残している人ですが、カラカラ浴場も有名です。この人はマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルに改名しました。そして、212年にカラカラ帝(綽名)はアントニヌス勅法(本名)で全属州自由民に市民権を付与しました。同盟市戦争のころからさらに権利を拡大したんです。トラヤヌス帝のころの版図拡大もありましたし、領内に増えた異民族を包摂するための政策です。排斥ではなく同化を目指したんですね。都市国家ローマのための法が万民法へと発展していく契機にもなりました。ただ、市民権の付与には条件がありました。それは皇帝崇拝をすることです。この時期、ローマ皇帝は神々の一人とされていて、礼拝もされるようになっていました。現人神ですね。これまで迫害されてきたユダヤ教徒、キリスト教徒にとっては困ったことです。一神教の人たちにとって、他の神(皇帝)を崇拝することなどできません。そういうわけで、すでに市民権を持っているユダヤ教徒、キリスト教徒も合法的に迫害されるようになりました。
イエスさんの直接の弟子/使徒の時代が終わっているので、2-8世紀は、神学者で作家のリーダー的存在の「教父」が活躍します。
3世紀前半、アレクサンドリアのギリシア語教父にクレメンスとオリゲネスがいます。ローマ帝国の東部(ギリシア、小アジアなど)はギリシア語が盛んで、執筆もギリシア語で行われることが多いんです。ギリシア語教父と言ったら、ギリシア語でキリスト教関係の重要な文書を書いた人を意味します。この二人が何を書いたか、出題されたことはないと思います。

3世紀前半、「エネアデス」を著したプロティノスは、プラトンを利用してキリスト教を解釈しようとしました。12世紀のアンセルムスが始祖とされているスコラ学に似ています。プロティノスの考えは新プラトン学派/新プラトン主義と言われます。すべては「一(いつ)なるもの」(神と呼ぶ場合もあります)の発する光が源で、そこから生まれたのが精神(精霊へ)、霊魂(人間や肉体へ)と考えています。キリスト教の三位一体に取り入れられた考え方ですね。プラトンの考えるイデアと違って、プロティノスのイデアは発生源なんです。また、よい生き方とは、絶対者(一なるもの)と合一することによってエクスタシーを得ることと言っています。イスラームの神秘主義、仏教の禅宗、儒学の宋学に通じる気がします。


235年のマクシミアヌス帝からは各地域の軍の支持を受けた人が、その武力を背景に皇帝になっていきます。そして短期間に皇帝が代わっていきます。284年までのこうした時期を軍人皇帝時代と言います。およそ50年なので憶えやすいですね。また、北からはゲルマン人の侵入、東ではササン朝への敗北がある内憂外患の時期です。だから、3世紀の危機と言います。外敵・疫病・奴隷減・経済悪化が重なって、ラティフンデディウムはイタリア半島だけではなくローマ帝国中で、コロナートゥス/世襲農奴制へ変わっていきます。農民(コロヌス)は、農奴へ徐々に身分を落としていきます。コロヌスという言葉は同じで、日本語訳が農奴になります。初め現金払いだった税金は、収穫物払いも加わって、332年になると職業の自由がなくなって、4世紀中に移動の自由がなくなって、農奴が制度化されていきます。立場の弱い人は環境変化でさらにひどい状況に追い込まれるんです。ここで手を差し伸べるのが公正な社会だと思いますが、ローマ帝国は下層階級として身分を固定化することに手を貸したんです。生まれながらに低い身分がふさわしい人なんていません。身分は作られたものなんです。既得権益を持つ人はそれで居心地がいいので、「そのままでいい」、「彼らの身分が低いのはそれにふさわしいからだ」、「自分の身分は高くて彼らの身分は低い。そうあるべきだ」と思い込むようになります。教育してくれる人がいないんですね。迫害されている人の中には、制度は絶対で、変えられるものではないと思い込む人もいます。

デキウス帝はキリスト教徒を迫害します。以前にも書きましたが、キリスト教徒はカタコンベ/地下墓室に集ったり、ユダヤ教徒のシナゴーグ/会堂を借りて礼拝をしていました。
251年、デキウス帝はゲルマン人に対したアブリットゥスの戦で戦死しました。

ウァレリアヌスは、ササン朝のシャープール一世に対した260年のエデッサの戦で捕虜になりました。ローマの皇帝は先陣に立って戦うことが多いので、捕虜になることも多いんです。中国の皇帝が捕虜になったら、その王朝はだいたい滅亡を意味することが多いと思います。
こうした防衛戦争が増えると、兵力の増加が必要です。お金がかかりますし、軍人皇帝が鼻を高くして威張り散らす時代が続きます。プリンキパトゥス(元首制)と言われた前期帝政の終わりです。

284年、ディオクレティアヌス帝が登場します。ディオクレティアヌスは軍人皇帝でしたが、軍人皇帝時代の終わりをもたらしたと言われます。三世紀の危機の終わりでもあります。
286年、ディオクレティアヌスが東の正帝、(マルクス・アウレリウス・ウァレリウス・)マクシミアヌス(286年-305年、306年、310年)が西の正帝でミラノに拠点を置きます。この時点では2人の副帝がいないので、テトラルキアとは呼びません。元老院はローマ市にあります。なんのこと?大丈夫、ここは出題されません。次からが大事ですが、その前にこうした下地があったと知っておいてください。
293年、四帝分治制(テトルキア)の開始。あまりに国が広くなったので、東西ローマ地区に分けたんです。東ローマの正帝がディオクレティアヌス(都ニコメディア)です。
ニコメディアは21世紀のイズミット。マルマラ海に面したアジア側にあります。ニケーア/イズニクとは異なります。
東ローマの副帝がガレリウス(都シルミウム)、西ローマの正帝がマクシミアヌス(都ミラノ) 、西ローマの副帝がコンスタンティウス・クロルス(コンスタンティヌスの父。都トリアー)が分割して統治します。
統治は分割しますが、国は一つです。東ローマ帝国などという呼称もありません。決定権、裁決権を持つのはディオクレティアヌス帝で、他の皇帝は代理として統治を分担します。四皇帝の各々の地域も、ローマでないところに都を置きました。この時点でローマは政治都市の中心ではなくなったんです。だから、330年の遷都が容易になるのです。すでに皇帝の諮問機関(相談機関)と化していた元老院機能も消滅します。形式上は民が平等という共和政は終わって、市民間の身分がある社会に移行します。また、元首制ではなく名実共に帝政になったと言えます。後期帝政=ドミナートゥスの始まりです。ドミヌス/主を自称して、オリエント風の専制君主独裁になっていきます。すでに皇帝を神格化しているので、ここでも名実ともにということでしょう。

ディオクレティアヌスのしたこと。
最高価格令を発した。インフレの防止かな。
貨幣はソリドゥス金貨/ノミスマと呼びます。
キリスト教徒を大迫害。

20年の統治期間で退位するという公約どおりに、305年にの東ディオクレティアヌス、西のマクシミアヌスは、同時に副帝に譲位して退位しました。世襲を避ける目的で、副帝が後継者となる仕組みを考えたんですね。
その後は再び統一帝を目指す人たちが争います。この争いは出題されないと思います。
305年、東の正帝ガレリウス(副帝はマクシミヌス ダイア)は、キリスト教徒への迫害を継続します。西の正帝はコンスタンティウス・クロルス(副帝はセヴェルス)ですが、
306年に死去します。
副帝ではありませんでいが、ガリア、ブリタニアの兵にこの人が皇帝だと宣言をさせて、コンスタンティヌス(コンスタンティウス・クロルスの子)が西の正帝となります。ガレリウスは306年にコンスタンティヌスを副帝として正式に認め、のち310年には正帝と認めました。マクシミアヌスの子のマクセンティウスもローマで正帝を宣言します。当時のローマ人は、軍人皇帝時代に逆戻りした感じを受けたと思います。
308年にはリキニウスが西の正帝となります。東のガレリウスが指名したようなんですが、この時点で西に3人の正帝がいます。イスラームの三カリフ、教皇の大シスマ、日本の南北朝などの例もありますが、こうしたことはよくあることです。

311.4セルディカ信仰寛容令~サルディカ/セルディカは21世紀のブルガリアのソフィアのこと。東の正帝のガレリウス帝が、かつてディオクレティアヌス帝が発したキリスト教への迫害令を終わらせる布告を主導して、リキニウス帝、コンスタンティヌス帝と共同の名で発布しました。コンスタンティヌスは親から人質として差し出されていた子供時代に東部で過ごしていたので、キリスト教に触れていました。効力を持つのはディオクレティアヌスが支配していた、つまりこの時点でガレリウスの支配する東部のみのようです。大腸がん?と言う学者もいるんですが、死去の一か月前に、病のせいで錯乱していたと言う学者もいます。なぜ迫害を終わらせたのか、理由は不明です。
迫害しないということは、キリスト教を信仰してもいいと解釈できます。東部にはキリスト教徒が多い、そして迫害されている=反政府活動を誘発する可能性があるので、治安維持のためでしょうか。

311.5ガレリウス帝が死去すると、東の副帝だったマクシミヌス・ダイアが正帝になります。リキニウスはマクシミヌス・ダイアを討ち果たします。 
312年コンスタンティヌスが西の正帝を自称していたマクセンティウスに勝利。この戦いの前に空に輝く十字架を観たという「コンスタンティヌス伝」の記述は、実際は同時代人でありコンスタンティヌスに洗礼を施すエウセビオスの手になるものではありません。大部分が後世の4世紀末/5世紀初頭の別人の手になるもので、同時代には一切の記録がないんです。
夢で、「Xと、上が湾曲した棒線「P」?」を観たという同時代の記録があります。XPはキリストを意味します。ギリシア語のキリスト/キーロー/Χριστοςの最初の2文字Χ(キー)・Ρ(ロー)に由来します。
ローマ帝国の公用語であるラテン語ではChristusです。
コンスタンティヌスがキリストの加護を受けて勝利したと主張したい人が書いたんでしょうね。

西にコンスタンティヌス(ミラノ)、東にリキニウス(シルミウムとニコメディア)という体制になりました。
313年、ミラノ勅令コンスタンティヌス帝がローマ帝国全土で全宗教を公認します。入試ではそういうことで出題されます。キリスト教だけではないことに注意しましょう。リキニウスも共同でこの勅令を出しました。
これは敵対するササン朝ペルシアに対抗するためもあったようです。迫害されていたキリスト教徒はササン朝に行って保護されていましたからね。黒海東岸のアルメニア国は301年ころ、世界で初めてキリスト教を国教とした国です。21世紀のアルメニア正教会が、イェルサレムにアルメニア人地区の権利を持っているのも、この歴史の長さに由来するのかもしれませんね。この公認令は、同じキリスト教に寛容な国同士は同盟を組みやすいというのもあったかもしれません。そうなれば、ササン朝ペルシアを二方向から攻撃しやすいと思います。
入試を離れてみると、「ビザンツ帝国史」(ルメルル著)によれば、リキニウスがニコメディアで、キリスト教を他の宗教の上に置くものではないが、キリスト教徒から奪った財産は返却するという内容の勅令を発したとのことです。コンスタンティヌスさんは何もしていません。エウセビオスの「教会史」によれば、ミラノでコンスタンティヌスと会談はしていたようなので、連名で出した可能性もありますが、いづれにしても東部を念頭に置いて、リキニウスが主導したようです。勅令の内容まで記載されているのは、リキニウスが小アジアのマルマラ海にあるビテュニア総督、またはパレスティナに出した手紙です。手紙なので、通達くらいかな。勅令ではない可能性があるようです。実際は「二コメディアからの手紙」というのが事実に近いのかもしれません。リキニウスはその後迫害に戻ったので、振り返ればコンスタンティヌス大帝が主導したのではないかという思い込みから、「ミラノ勅令」と言われています。
以降のヨーロッパではキリスト教徒が増えていくので、ヨーロッパの歴史はキリスト教徒が書くことになります。キリスト教徒を迫害した皇帝はひどく書かれますし、キリスト教徒を支援した皇帝は大帝と称されます。キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝、カトリックの守護者カール大帝、カトリックの守護者オットー大帝を憶えましょう。

この頃、ギリシア語教父のエウセビオス「教会史」で、神寵帝説を主張します。のちの西ヨーロッパの王権神授説や、中国の皇帝が天命で帝位を授かったと言う主張と同じです。3世紀末に初版を出しているようですが、ミラノ勅令後にも改訂版を出しているようです。キリスト教を皇帝が迫害していた頃と違い、皇帝がキリスト教の最大の保護者になったので、皇帝を神の権威と結び付けて、ご機嫌を取るか、皇帝の権威を安定させようとしたのかもしれませんね。

コンスタンティヌスは、ペテロが埋葬されたと言われる墓地/ネクロポリスを覆うようにバシリカ式教会を建てさせました。これがサンピエトロ大聖堂の原型です。史上初の、大聖堂と言うと、その近隣にあるバシリカ・サルウァトロス/救世主大聖堂(21世紀サンジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)です。319年から322年の間に着工されたと考えられていて、内部装飾は5世紀中期までには完成したそうです。一列22本の列柱をもつ5廊式のバシリカは、長さ119m、幅64mでヨーロッパ最大の教会堂でした。中世末までの教皇は、この救世主大聖堂に隣接する邸宅/ラテラノ宮殿に住んでいました。
因みに教会と聖堂は基本的に同じですが、特に礼拝堂のみを聖堂と言うことがあります。大聖堂は、カトリック教会内での地位が高い司教座教会のことを指します。335年の話ですが、ゴルゴダの丘を保存するために、イェルサレムに聖墳墓教会も建てています。


324年、コンスタンティヌスはリキニウスを戦で破って、単独皇帝/統一帝になります。東の都はニコメディアなので、324年~330年まではコンスタンティヌスはニコメディアに住みました。
この頃、教父のアタナシウス、アリウスは神学論争をしていました。
325年、皇帝が主催したニケーア公会議で、アタナシウス派を正統と決めます。
キリストは神性と人性の両方のペルソナ/位格がある=両性説。そして両性は一体となっている。これがアタナシウス派の主張です。ニカイア信条とも言います。
分離でも融合でもなく一体です。のち三位一体説へ進化します。
異端とされたアリウス派の主張は、イエスは人性だけを持っていたという単性説です。つまりイエスさんは神でないと主張するアリウス派は異端と認定されたので、ローマ帝国内で布教できなくなります。それで、帝国の外へ出てゲルマン人へ布教します。
受験生としてはこれがわかりやすいんですけど、実際はコンスタンティヌス帝はアリウスをイリリクムへ追放したんですが、すぐに呼び戻しています。そして、アタナシウスを追放して、死の直前に呼び戻しています。皇帝として社会の安定に教会を利用する目的で裁定をしたんでしょう。宗教的に正統とは何かということでは揺れ動いていたようです。ローマ帝国の西部ではアリウス派が優勢と気づいたからと言う学者もいます。

皇帝がキリスト教の最高の保護者なので、皇帝が公会議(仏典結集のようなものです)を主宰して、皇帝が教義を裁定します。そして、皇帝主導で正統教義を決めます。 皇帝教皇主義と言われて、東ローマ帝国に引き継がれます。入試では東ローマ帝国で始まったこととして出題されます。受験生は入試用の仮の知識と、歴史学の事実とを区別して憶えましょう。西ローマは滅んでしまって、皇帝がいなくなるので、基本的にはローマ教皇が公会議を主宰します。
教皇って何かと言うと、組織なので地位の高い人が統括するようになりますよね。司教の中から大司教というのが作られます。司教や大司教のいる都市は司教座と言われます。五大司教は①ローマ、②コンスタンティノポリス、③エジプトのアレクサンドリア、④西アジアのアンティオキア、⑤イェルサレムにいます。③④⑤の司教座はのちにイスラームに破壊されてしまいます。ラテン語圏で残ったローマの大司教は、自分のほうが偉い、大司教よりも偉いと主張して教皇を名乗ります。ラテン語圏はカトリックと言われるグループでまとまるのでローマ教皇はそのトップの人です。西ローマ帝国が滅びると、ローマ教皇はアリウス派ではないゲルマン人のフランク族に保護を求めます。教皇が公会議を主導します。フランク王国は800年、カールの戴冠で西ローマの皇帝を名乗り、カトリックの保護者になって、オットーも西ローマ皇帝を名乗って、西ローマ帝国の代わりとしての神聖ローマ帝国が成立します。
ギリシア語圏で残ったコンスタンティノポリス大司教は、皇帝の下にいるので大司教を超える存在にはなりませんでした。ギリシア語圏は正教と言われるグループとしてまとまります。地域別にギリシア正教、ロシア正教などがあります。東ローマが滅亡するとロシアがツァーリ/皇帝を名乗り、モスクワを第三のローマと言って、東ローマ皇帝を名乗って、正教の保護者になります。

330年、コンスタンティヌスはビザンチオンへ遷都して、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ改称しました。21世紀のイスタンブールです。「新しいローマ」「第二のローマ」と呼んだ人がいます。第三のローマはモスクワです。ローマではなく、形式的にはミラノから、(実質的には二コメディアに住んでいて)、コンスタンティノープルに遷都です。この流れは、出題されたことがあります。
330年以降は、ローマ帝国の都はコンスタンティノープルなので、皇帝が主導する公会議は都に近い都市で開かれます。つまりアナトリア半島(小アジア)です。エフェソスやカルケドンですね。
337年、コンスタンティヌスは、アリウス派のエウセビオスに洗礼されてから死去します。なぜ死の直前だったのでしょうか。洗礼を受けてからも長い人生なので罪を犯す人はいます。死の直前の洗礼なら穢れなく死ねるということです。当時は多く観られた習慣だそうなので、死の直前に改心した証拠にはなりません。心はとっくにキリスト教徒だったのかもしれませんね。

エジプトなどでは洞窟や柱上で修業する隠者などが現れていて、その後にエジプト人の聖アントニウス(251-356) が砂漠で少人数で暮らす修道院を創始しました。市井から距離を取って修行するのはユダヤ教にもあったので、不思議ではありません。世俗にまみれた都市で暮らしていてはいけないと思ったのでしょう。日本の山岳修行と同じ根を持つのかもしれませんね。

トゥールの司教でのちに聖人とされるマルティヌス(フランスではマルタン)は、元はローマの軍人で355年アミアンに駐屯中,貧者の装いをしたキリストとの出会いにより、禁欲的生活に入ったと言われています。貧者に乞われたのにお金がないので、マント Capellaを破いて半分をあげたそうです。その後夢にキリストが現れて、それは私だったんだよと教えてくれます。マントも元通りになっていました。このカペッラを保存する建物がカペッラ/チャペルと言われるようになって、礼拝堂がチャペルと言われるようになったと言う人がいます。ちなみに雨合羽などのカッパ/capaはポルトガル語でマントの意味だそうです。capaは羽織るケープにも似ていますね。語源が同じだと思います。
マルタンはポアティエで聖職者となって、355年/360年ごろポアティエ近郊にガリア最初の修道院といわれるリギュジェLigugé修道院を設立したそうです。受験生はこれは頭に置いたうえで、受験向けの知識を憶えましょう。入試ではヨーロッパ初の修道院は、529年にイタリアのモンテカッシーノに建てられたベネディクト修道院ということで出題されます。先生は嘘は教えたくないというので、受験向けでない知識も教えてくれます。そのほうがかえって記憶にも残って思い出しやすいので助かります。

ミトラ教に心酔していたユリアヌス帝の時代には、ミトラは当然のこととして、伝統的なローマの神々の復活が図られました。キリスト教徒からは異教の復興と言われたり、背教者ユリアヌスと言われたりしています。ローマ帝国では最後のキリスト教への迫害です。
この人はササン朝との戦で亡くなるのですが、死ぬ間際に「ガリラヤ人よ、お前の勝ちだ」と言った伝承があります。ガリラヤ人はイエスさんのことです。聖書に書いてあるベツレヘムではなくって、ガリラヤ地方の出身だと知っていたんですね。それにしても、わざわざそんなことを言うとは思いません。ミトラに対して何かを願うならわかりますけど。

しばらくするとローマ帝国は統一帝ではなく、またもや分割統治になっていたのですが、東の正帝ヴァレンス帝は暴徒化したゲルマン人の鎮圧に赴いた先のハドリアノポリス(アドリアノープル)の戦でゲルマン人に殺されてしまいます。
その後、テオドシウス帝が正帝の一人になり、380年、正当なキリスト教(アタナシウス派)を信仰せよと、全ローマ市民に命令しました。形式的国教化と言えます。アタナシウス派はこのころから普遍/カトリックと言われ始めました。
381年には、第一回コンスタンティノープル公会議で、三位一体説を正統とします。
神性・人性・聖霊という三つの位格(ペルソナ)は一体ということです。精霊ではなく聖霊です。人の心の中にあって、信仰を導く存在です。宗教的倫理感と言ってもいいと思います。
先生が言うには
「三位一体はふなっしーだ。ふなっしーはふなっしーであり、中の人であり、誰かの家族でもあるが、ふなっしーのときは融合も分離もせず一体化している。イベント/地上ではふなっしー/神としてふるまう」
マリアは神の母と定められたのもこの時です。
キリスト教の聖歌(チャント)とされる「三位一体の聖歌」(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されます。これがヨーロッパ世界の現存する最古の楽譜かもしれないそうです。 五線譜ではなく、文字で音の高さを記しています。例えば 愛の歌。

ラテン語の四大教父の一人、アンブロジウス/アンブロシウスは、蜂が舌に蜂蜜を垂らしたという奇跡によって聖人となっている人です。音読が普通だった時代に、黙読をした最初の人間という学者がいます。なぜなんでしょう。実際はカエサルもしていたのに。テオドシウス帝の相談役的な立場の人でもありました。テッサロニッケでの軍人殺害を契機に市民7000人余りを殺害した事件があったので、テオドシウス帝を破門したこともあります。390年のことです。テオドシウス帝はすぐに懺悔して許されました。神ではなく人が破門して、人がその罪を許すんですよ。
ラテン語の四大教父の一人のヒエロニムス。この人が書いた「ウルガータ聖書」(ラテン語訳された聖書)は、20世紀までバチカン/ローマ教皇庁の聖書の基準になっていました。21世紀は?知りません。ヒエロニムスは旅の途上で出会ったライオンの足から棘を抜きました。以降ライオンは付き従ったという伝説を持っています。ヒエロニムスの絵にライオンが一緒に描かれているのはそこに由来しています。こうした「奇蹟」を起した人間は「聖人」と認められます。逆に言えば、聖人と認められるために奇跡を捏造する人間や、話に尾ひれを付ける人間もいただろうと思います。奇跡の過程を検証し再現することはできないので、奇跡の客観的認定は難しいんでしょうね。
21世紀には、現世での行いがキリスト教徒の立場から考えて目覚ましいものであるなら、死後数年で福者になります。その後に、奇跡などの認定を受けて聖人になります。
カルタゴで生まれて4世紀後半から活躍して、北アフリカのヒッポの司教にもなったアウグスティヌスもラテン語の四大教父の一人で、最大の教父と呼ばれます。教会博士とも言われるので博学だったんでしょう。ミラノ司教だったあのアンブロシウスさんから洗礼を受けて、マニ教から改宗したことが出題されます。母親のモニカさんの影響もあったと言われています。「誤り(マニ教徒だったこと)があると判断するには尺度が必要だ。その尺度、永遠の審理は神のみが生む。だから神は存在する」と言っています。「告白」という本で、「私はかつてマニ教に惹かれた、肉欲に溺れた」と書いています。物心ついたらキリスト教徒だった人と比べて、意識してキリスト教徒になった人は、それだけキリスト教が素晴らしいことを示す生きた証になります。アウグスティヌスやパウロが偉大とされるのは、そうした要素もあるんでしょうね。「神の国」は二元論の本で、「神の国がある。それを地の国(ローマ帝国)で代表するのが教会だ」と書いています。皇帝などの世俗権力<教会の正当性ということですね。ウパニシャッド哲学のような面もあって、こうしたら天国に行けると書いています。それは教会を信じることです。

391年、テオドシウス帝は、アレクサンドリアの司教テオフィロスの要請を受けて、エジプトで非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えました。暴徒は、アレクサンドリアのムセイオンを破壊しました。
392年、キリスト教を除く他宗教の祭礼(礼拝、供犠)を禁止。ギリシアから受け継いだローマの神々(ユピテルなど)も公的な場では神の座を追われました。
実質的にキリスト教を国教化したと言えます。
キリスト教以外の宗教は禁じられたので、オリュンピア大祭も禁じられました。最後の第293回オリュンピア祭は、393年に開催されて、これが古代オリンピック最後の年となりました。この後、ローマ帝国の異教神殿破壊令によって、オリュンピアは神域を破壊されました。361年、365年が最後と言う学者もいます。21世紀のオリンピックの開催年には、オリンピック関連の出来事が出題されやすくなります。
394年、テオドシウス帝はすでに共同統治者として正帝となっていた二人の子に分割統治するという遺言を認(したた)めます。まだ生きています。
395年、テオドシウス帝が死去すると、東西ローマは永遠に分裂します。制度化したのでなく、結果的にそうなったんです。
弟ホノリウスの西ローマ帝国は都をミラノに置きます(402年ラヴェンナに移ります)。兄アルカディウスの東ローマはコンスタンティノポリスに都します。
どちらもローマ帝国を称するのですが、学者は東ローマ帝国、西ローマ帝国と言います。

□□西アジア

ササン卿のササンフクダーイの子がシャー(王)を名乗り、208年にアルサケス朝/アルシャーク朝パルティアに造反します。この人がシャープフル/シャープールです。この時、ゾロアスター教の神殿(拝火神殿)に王が聖火を灯したので、これをササン朝の暦の紀元としています。孫のアルダシール一世(アルデシール一世は発音が違うらしいです)が独立した王国の始祖とされていて、祖父ササンの名に由来して、ササン朝と言います。
ササン家はゾロアスター教のパールス地方の祭祀を司る家です。ゾロアスター教は国の中で勢力を増していきますし、国教になるのも自然な流れです。受験では始祖のアルダシール一世が国教化したということで出題されることが多いですね。「タペストリー第15版」ではp17にシャープール1世が、p61ではアルダシール一世が国教化と書いてあります。同じ本の違うページなのに、違う人が書いたのかな。実際はホスロー一世だと言う学者もいます。受験生はどうすればいいのでしょう。正解ならラッキーと考えて、他の問題で得点しましょう。
ゾロアスター教はペルシア由来なので、インドではパールシー教徒と言われます。中国ではアフラマズダの象徴である火を神聖と考えることに由来して、拝火教と言われます。イラクでは聖地ヤジドに由来して、ヤジディ教徒と言われます。ただ、ヤジディ教徒はイスラームや仏教、キリスト教などの宗教も混じっているので、ゾロアスター教ではないと言う人もいます。ヤジディ教徒はクルド人に多いそうです。クルド人の中では多数派ではありません。

シャー(王) プフル(息子)の名を持つ王が事故死して、子のアルダシール(アルダフシール)一世が後を継ぐ222年くらいから、パルティアでは王の神格化が始まりました。アルダフシールは中世ペルシア語で、当時の発音に近いと思います。教科書に書いてあるアルダシールはアラビア語だそうです。シャーハーンシャー(諸王の王、つまり皇帝)を名乗り、国号はエーラーンシャフル(アーリア人の帝国)とします。
224年5/28、オフルマズダーンの会戦で、主家であったアルサケス朝パルティアを滅ぼします。パルティアは内乱で混乱していたし、一致団結して事に当たれなかったんですね。入試では、この224年がササン朝の成立年という前提で出題されます。
この頃、キリスト教がササン朝領内に伝播しています。

3世紀前半、ササン朝のシャープール一世はローマ、クシャーンに圧力をかけます。そして、メルヴ王、226年にはクシャーンなどを服属させます。パルティアの大貴族だったスーレーン家、カーレーン家なども帰順します。海軍を作って、バーレーンまで征服すると、各地に港も建設してインド洋貿易を手広くします。イラン人コロニーがザンジバル、セイロン、マレーシアにもできました。こうした海外での商売はキリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、ローマ人、ソグド人に任せていました。使用する貨幣は、金貨はディナール/ディルハム、銀貨はドラクムと言って、主にイラン・イラクで流通していました。直轄地である帝国都市でガラス製品や綿織物、精巧な銀器を制作、販売させて税収とします。パルティア系貴族に対抗するためです。ササン朝の代表的工芸品であるガラス容器などは日本にも入ります。正倉院にある白瑠璃碗などがそうです。
都市の周辺には農耕地がありますが、個人でなく共同体の管理です。大麦、ナツメヤシ、ナッツ、コメ、ライムギ、アプリコットなどを生産していました。非直轄地は封建制で、王族かパルティア貴族が拠点にしています。

240年から親と共同統治を始めたシャープール一世は、242年から単独統治(-270年)となります。244年、ローマ皇帝のゴルディアス三世を戦死させて、260年、エデッサの戦でローマ皇帝のヴァレリアヌス帝を捕虜にします。ローマ帝国で迫害されいてるキリスト教徒の捕虜は、信用できるので都市の建設作業員にしています。奴隷もいますが、女奴隷は家内働き、男奴隷が耕作働きです。
また、アルメニアを属国化して、ササン家の王子を王に据えました。251年にはクシャーンを滅ぼします。王家は以降、カブール王という形で存続します。

カーレーン家の傍流の出であるマーニー・ハイイェーは俗にマニと言われますが、215年/245年、マニ教を創始します。仏教・ゾロアスター・キリスト教・グノーシス主義の要素を持っていて、現世を否定して、偶像崇拝を禁止して、禁欲生活が特徴と言われている宗教です。のちにアウグスティヌスや、キリスト教のアルビジョワ派に影響します。マニは皇帝から布教の許可を取っているし、チベットまで布教をしに行っています。
270年-290年、マズダ教団の大神官が力を持つ時代で、宮廷でも皇帝の叔父よりも上席に座り、由緒あるアナーヒター拝火神殿の神官の地位もササン家に代わり兼ねるようになっていました。そんな時代なので、マニはゾロアスター教徒側の嫉妬をかってしまいます。ゾロアスター教祭司団の祭司長のキルデールはホルミズド1世(272年273年)に 讒言(ざんげん。悪い噂を作って耳に入れること)をしたり、バハラーム一世の治世下でマニは刑死になってしまいます。死後の方が、マニ教は広く伝播していくんですけどね。

ナルセフ一世(293年-302年)のころにはローマ皇帝ディオクレティアヌスに負けてアルメニアを取られて、后、皇子も捕虜に取られてしまいました。以降はパルティア系貴族の勢力が拡大し、皇帝の基盤は弱くなっていきます。
アルダフシール一世からシャープール二世は現人神で、ゾロアスター教徒/マズダ教徒でもあり、アナーヒター女神を信仰し、ミスラ教も信仰していました。
千の目を持ち万の耳を持ち死後の裁判をつかさどるミスラはインドでは契約の神ミトラ、ローマでは太陽神と同一視されたミトラス教。新海誠さんが監督した「星を追う子ども」作品に登場する目の多い巨人を思い出しました。百目という妖怪もいましたね。

シャープール二世(309年-379年)
313年のローマによるキリスト教公認で、もはやキリスト教徒は反ローマで一致しない時代になったので、337年からシャープール二世はキリスト教徒への大迫害を開始しました。
363年には、侵入してきたローマ皇帝ユリアヌス帝を返り討ちにして戦死させます。
379年、アルダシール二世の代になると、帝国都市の建設をやめます。100年以上途絶えるんですが、インド洋交易で利益が出たので、必要がなくなったのかもしれません。関税の収入が増えたので、中国の絹を買ったりしました。

□□インド

インダス流域のクシャーン朝(都プルシャプラ)は226年ササン朝に服属し、徐々に衰退して251年には滅ぼされます。キダーラ朝という名称で一時復活するのですが、5世紀にエフタルに滅ぼされます。
インダス下流にはサカ王朝が存続しています。
デカン高原にドラヴィダ人が建てていたサータヴァーハナ朝/サータバーハナ朝アーンドラ王国は236年に滅び、パッラヴァ朝などの小国分立の時代に入ります。
南部では、前期チョーラ朝やチェーラ朝が3世紀になると滅び、パーンディヤ朝も衰退します。
3世紀半ば、セイロン島にアーリア系のシンハラ王国が建てられ、上座部仏教を国教化します。

図式化するとこんな風になります。
パンジャーブ地方 ヒンドゥー(アーリア系 インド人のラージプト族)
インド北部 仏教(アーリア系 4世紀にはインド人と言います)
インド南部 ヒンドゥー教(ドラヴィダ系 4世紀にはタミル人)
スリランカ北部 ヒンドゥー教(ドラヴィダ系 4世紀にはタミル人)
スリランカ南部 仏教(アーリア系 4世紀にはシンハラ人)

インド北部は仏教、南部はヒンドゥー教なので、のちにイスラームがやって来た時に前面に立って戦うのは、パンジャーブ地方のヒンドゥー、北部の仏教です。イスラーム支配が進むと仏教は滅ぼされます。宗教ではなくなって学問化(教学化)していたことも衰退の要素です。ヒンドゥー教は大衆化していたことと、南部では激しくイスラームと戦わなかったことが存続の要素になったと思います。仏教とイスラームの戦は、まるでエトルリアが滅んだ後のローマとガリアの戦争のようです。

3世紀前半、大乗仏教の中で、法華経、般若経、浄土三部経が成立します。
浄土三部経は浄土宗が重視する三大経典で、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経のこと。法華三部経は、無量義経・法華経・観普賢経のこと。
3世紀中ごろ、ナーガールジュナ(中国では竜樹と記述されます)は、大乗仏教を宗教を越えて教学(学問)として樹立しました。入試では、大乗仏教を確立した人は誰かと出題されます。ナーガールジュナは、空(くう)の概念を大成しました。
数字のゼロ/シューニャの概念を発明したのはインド人で、仏教における空の概念もシューニャと言われます。この世界には実体のあるものはなく、すべて因縁でできている、関係性でできているという考え方です。儒教の理・気に似ています。竜樹は「中論」という書物の中で、「直接認識された絶対的な勝義諦/真諦と、言語によって認識された相対的な世俗諦/俗諦の2種の真理(二諦)がある」と書いています。釈迦の悟りは真諦なので、言葉では表現できないと言うんです。経典は言葉で表現された俗諦の扱いになります。
観念(イメージ、閃き)と概念(言語的な定義)の違いなのかな。

この頃、肌の色の違いを身分化したヴァルナ制/種制と、ジャーティが結び付いて、カースト制が形作られていきます。同じ出身・職業(世襲の職業/家業)などで集まった小集団をジャーティと言います。つまり四つの階級だけでなく、階級内に数えきれないくらいのグループ区別ができると、これをカースト制度と言います。21世紀には法的に廃止されていますが、差別は残っています。米国では公民権法が成立しても黒人への差別がありますし、日本では身分制度がなくなっても被差別部落への差別があります。長年生活習慣に組み込まれた価値観は言葉(ああ、あの人たち)や態度(眉をひそめる、顔をしかめる)、判断(あの人と結婚してはいけません)、住居(住む地区が違います)などで親から子へと伝わってしまうんですね。それを矯正する教育もほとんどされていません。日本では、存在さえ知らないで暮らしている人もいます。
自分の暮らす集落/村を部落と言う人もいますね。被差別部落と言うのは日本で言えば、江戸時代に穢多(エタ)非人(ヒニン)と言われた人が集まって暮らしていた部落に相当します。差別を助長するので事実を知らせないでおこう、なるべく曖昧にしたいという考えから、漢字ではなくエタヒニンと書く人もいます。黒人が、白人警官の膝を首に押し付けられて窒息させられて殺されたと書くとショックなので、暴行を受けて死去したと書く気持ちもわかります。ただ、歴史的に差別されていた人たちがいることは事実なので、ひどい実態を明らかにするためにも敢えて漢字で書きます。江戸時代の前からグループとしては存在していて、穢多は死刑を執行したり、肉を捌いたりといった穢れ/ケガレ(霊的な汚れ)が多くなると考えられていた仕事をしていました。必要な仕事ですよね。非人は神に関わる仕事をしていて、神を祀る/祭に関することをしていました。普通の人ではできないので、非人なんでしょう。ギリシアの神に捧げる演劇が娯楽化したように、日本でも芸能化していきました。つまり歌舞音曲に関わる芸能を持つ人たちです。 江戸時代より前からたぶん穢れ/ケガレのせいですでに差別されていて、あまり付き合いたくない、同じ地区に暮らしたくないと思われていました。そうなると自然に決まった地区に暮らすようになりますよね。1700年ころに幕府が制度化したようです。理由は不明です。明治時代に法的には解消されました。行政的には被差別部落を同和地区と言っています。

話をインドに戻します。BC2世紀からAD6世紀にかけて身分外(アウトカースト/カーストの外)の被抑圧民も成立します。ホームレスという意味のパリアは、アウトカーストの俗称です。ガンジーは20世紀の人ですが、彼らをハリジャン/神の子と呼びました。つまり尊重しようと意図が込められていると分かります。ただ実態を表していないと批判をする人もいます。彼らの中には、ダリットと呼んでほしいと言う人もいます。

この時代、バラモン教が衰退して、ヒンドゥー教化していきます。これに伴って神々の下克上も起こって、地方神に過ぎなかった破壊のシヴァ神、維持のヴィシュヌ神、創造のブラーフマー神が最高神と位置付けられます

320年グプタ朝の成立。始祖はチャンドラグプタ一世。都はパータリプトラ(21世紀のパトナ)。この時代からはインド人と言います。アーリア人とドラヴィダ人が十分に融合したんでしょうね。融合しないドラヴィダ人はタミル人と言われます。
この時代にはマイトレア(中国では弥勒と書かれます)などの学者が輩出しますが、大乗仏教は学問化していくので、活力を失います。信者は減っていって、衰退します。

チャンドラグプタ二世(376年-415年)がグプタ朝の全盛期。
東晋(中国)の僧で、インドを訪問した法顕(ほっけん)は「仏国記」の中で、チャンドラグプタ二世を超日王と書いています
サンスクリット語はバラモンの使う公用語でもありますが、この頃、三大サンスクリット文学が出揃います。
戯曲の①「シャクンタラー」です。宗教書の②「マハーバーラタ/マハーバーラター」「ラーマーヤナ」です。
①チャンドラグプタ二世の王宮に囲われていた詩聖カーリダーサは「メーガドゥータ」などの作品でも知られている詩人です。戯曲も書いています。インドのシェイクスピアと呼ぶ人もいますが、カーリダーサの方が時代は早いので、シェイクスピアをイギリスのカーリダーサと呼ぶ方が自然です。
その戯曲「シャクンタラー」。シャクンタラー姫は「マハーバーラタ」の登場人物たちの先祖で、 天女のメーナカーと、クシャトリヤの人間との間に生まれました。メーナカーは幼い姫を捨てたんですが、鳥たちが彼女を守ったそうです。その後、姫に一目惚れした王と苦難の末に結ばれるまでの悲哀に満ちた恋愛劇。
因みにこうした三角関係では王妃は邪魔なだけで、立場はないんですね。小説では、こうした役割の登場人物を余計者と言います。

②ヒンドゥー教の重要文書/聖書で、サンスクリット語で書かれた「マハーバーラタ」は、バーラタ族のマハーバーラタ戦争を題材にしていて、「イリアス」のようなものです。登場するのはビーシュマ、クリシュナなどです。戦争を舞台にダルマ、帰依、ヨーガによる解脱を説く「バガヴァッド・ギータ―/神の詩」も「マハーバーラタ」に収められています。
「マハーバーラタ」は、ちくま学芸文庫から出版されています。
ギリシア神話のように長い時間をかけて口伝されたものをまとめたようなので、伝えられている作者はいますが、はっきりしませんし出題されません。

③ヒンドゥー教の重要文書/聖書で、サンスクリット語で書かれた「ラーマーヤナ」はラーマ王子の英雄譚、オデュッセイアのようなものです。ヴィシュヌ神の化身のラーマはシータと結婚します。スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」を思い出す名前です。魔王(「ラピュタ」ならムスカ?)に奪われたシータを奪還する旅に出ます。御供はハマヌーンという猿です。「ラピュタ」ならドーラ?かもしれませんが、孫悟空のモデルになった、桃太郎伝説の由来だと言う学者がいます。ギリシア神話のように長い時間をかけて口伝されたものをまとめたようなので、伝えられている作者はいますが、はっきりしませんし出題されません。

①②はBC3世紀頃に原形ができますが、編集されて、まとめられたのはAD三世紀。③の「シャクンタラー」(4世紀)を待って、三大サンスクリット文学が出揃ったと言えます。
こうした物語を通じて民にヒンドゥー教が浸透していきます。物語が聖典、経典、聖書というのは感覚としてわからない人もいるかもしれませんが、国家神道の聖書は「古事記」ですし、キリスト教の聖書も物語の部分もあります。ユダヤ教の聖書も天地創造などの物語です。

390年、グプタ朝はサカを滅ぼします。


□□中央アジア

西域では模様のない平織りの絹布を貨幣として使っていました。漢の駐屯地へ装備を届けると、支払いとして銅貨、絹織物、穀物も貨幣となっていました。貨幣についてもっと知りたい人には、「貨幣の「新」世界史――ハンムラビ法典からビットコインまで」(早川書房.2016)という本があります。
ホータン近郊のニヤ(尼雅)ではヒンドゥーのマヌの法典の影響なのかわかりませんが、未亡人が殉死させられていました。クシャーンの衰退に伴って保護を失った仏教徒がホータンへ逃げ布教するので、中国からホータンへ仏典を求めに来る人もいました。7mの高さの仏塔も造られました。ホータン語はイラン系の言語で、語彙の多くはサンスクリット語から借用しています。西域はモンゴル、中国、インド、イランの結節点ということがよくわかります。
220年に後漢が滅亡すると、漢人が多く移住したトルファンでは273年になると地元民も漢字を使うようになっています。西域に移動するというのは、当時はかなりの勇気が要ったと思いますが、戦乱が多いので嫌になってしまったんですかね。

中央アジアでは中国から五胡(五つの異民族)と言われるグループが成立しています。胡人は意味がペルシア人、西域の人、異民族へと変遷してきています。
五胡は鮮卑、匈奴、羯(けつ。匈奴から分離)、チベット系の氐(てい)、チベット系の羌(きょう) 。
鮮卑はのちに北魏、隋、唐を建てます。
匈奴にはもう南匈奴しかいないので、五胡としては匈奴と言います。

この五大民族がこの時代は勢力を持っていました。
同時代の中国は三国時代で、中国の各王朝と協力したり、傭兵になったり、敵対したりもしていました。
西域では、魏の駐屯軍は自分たちで穀物を育てていました。3-4世紀にようやく鉄の鋤、鎌が伝わったようです。地元の住民も徴兵されました。西域では王は地元民、書記はガンダーラ人ということもありました。
3世紀末から4世紀初めにかけて、五胡が中国へ侵入します。300年の八王の乱の際には西晋が都の洛陽を防衛するために、南匈奴を雇いました。
4世紀、五胡が南下したことで勢力の空白が生まれたモンゴル高原には柔然が台頭します
このリーダーを中国では河汗(かがん)と記述しました。
匈奴は単于(ぜんう)で、柔然は河汗(かがん)、モンゴルは王が汗(ハン)で、皇帝/大王が大汗(ハーン)です。きちんと区別しましょうね。
4世紀前半、フン族/人がカスピ海北部に登場します。もうすぐ東ゴートを押さえて、ゲルマン人の大移動を引き起こします。
この時代の口琴がロシア南部のアルタイ地方で発見されています。牛などの骨から作った楽器で、口に咥えて、指ではじきます。口琴は世界中で様々な素材、形で作られています。いくつか欲しいですね。

□□東南アジア

192年、ヴェトナム中部でチャム人がチャンパを建てます。中国では林邑と記載されます。時代によって記載が変化します。林邑-隋のころは環王-唐からは占城です。これも出題されますよ。
サーフィン文化の後継と学者は考えていて、沈香(香木。匂いのする木)、象牙、犀の角を輸出するなど海上交易が盛んでした。
当時は犀がヴェトナムにいたんですね。漢方などに使われるんだと思います。

南部では扶南が200年代の中ごろにヒンドゥー化しました。三国時代の呉と交易をしています。これは頻繁に出題されます。

□□中国

後漢、中央政府の中では、皇帝と姻戚関係(親戚です)になって強大化した門閥貴族(もんばつきぞく)が皇帝の力を弱めていきます。
相変わらず、飢餓、盗賊などに不安を覚える庶民は、讖緯説などの預言や、民間信仰に頼ります。五斗米道や太平道などの道教団への参加者も増えます。飢餓で免疫が働かないので疫病もありました。親戚・家族がはやり病で次々亡くなったことを契機に張仲景「傷寒論」という漢方薬の処方集を著します。この本には葛根湯(かっこんとう)などが記載されています。葛根湯って、少なくとも1800年前から飲まれていたんですね。         .
184年、黄巾の乱。黄色い頭巾を被った張角に率いられた貧農が挙兵します。王家は弱体化しているので、実質的に王朝の軍を担う豪族が鎮圧のために割拠します。つまり、鎮圧の傍らで、豪族同士でも争います。南部には、戦を逃れた流民が増えていきます。難民ですね。
朝廷を専横していた董卓は呂布に殺されます。こういったところは小説の「三国志演義」で知っている人もいると思います。歴史書/史書の「三国志」とは違います。
豪族のうち、台頭したのが魏王で後漢の丞相でもある曹操、名字が同じなのでわかると思いますが王家の血を引く劉備、そして孫権です。劉備には諸葛良孔明という軍師がいますし、関羽(あとで道教の神になって、関帝廟に祀られています)、張飛などの信頼できる武将がいます。魏が最強の勢力なので、個別に戦をしたらかないません。そこで、劉備、孫権は手を組みます。
208年の赤壁の戦で、曹操が劉備・孫権の連合軍に敗れたことで、天下統一をなす勢力はなくなり、天下の三分割が定まります。曹操は220年1月に死去して、子の曹丕(そうひ)が魏王になります。
220年、後漢の滅亡。最後の献帝から、丞相の曹丕(そうひ)へ禅譲がなされます。
この時点で三国時代へ入ったと言えます。
220年、魏の建国。曹丕は王から帝になったと言えます。禅譲なので、形式上は徳を認められての交代、つまり何にも疚しい(やましい)ことはありません。それで都を移す必要はないので、洛陽のままです。
221年、漢の建国。中国史では同名の国が多いので、後世の人が勝手に蜀と呼びました。世界史でも蜀と憶えてください。都は四川省の成都。始祖は劉備です。 曹丕が皇帝?王家の血を引く私こそ皇帝にふさわしいと考えて、一年後に建国しています。
222年、呉(ご)の建国。始祖は孫権です。争っていた二人が皇帝を名乗るなら、私も名乗るぞーということで、220,221,222年と憶えやすいですね。
都は建業21世紀の南京です。南京を都にする王朝が呉を含めて6つ続くので、六朝(りくちょう)と言います。呉は六朝の1番目です。

皆伝11 三国時代 - コピー

後の時代に書かれる小説の「三国志演戯/演義」は蜀を主役、魏を悪役に設定しています。
歴史家が書いた歴史書で、王朝からも正統な歴史と認められた正史の「三国志」は、魏が正統王朝と解釈しています。魏にだけ本紀(皇帝の事績)がついているからです。著者の陳寿は漢王朝に仕えていた人なので、蜀に肩入れした記述もありますが、本紀はつけていません。
それにしてもなぜ「三国史」ではないのでしょうか。史は志と意味は同じなんです。「魏志」・「蜀志」・「呉志」をまとめた本だから「三国志」という学者がいます。

魏が正統王朝で、政治や文化が後の王朝に継承されていくので、内政に関しては魏だけが出題されます。外政では魏は北方で鮮卑、匈奴などからも国を守っているので、そう簡単に蜀、呉を攻めることはできません。

中央の官制では、中書省は勅令(皇帝の命令)の起草(原案作り)と宰相の仕事。後漢の時代からある尚書省は実務機関なので、行政です。財務省、経済産業省、防衛省のようなものです。
審査機関の門下省は晋以降なので、まだありません。南朝から御史台が設置されます。
流民、貧民が多かった時代で、豪族も割拠しています。
魏の田制は、戦乱で荒れ果てて無主となった土地を、豪族に先んじて土地を国有化して、小作人に割り当てる政策を取りました。戦乱で荒れ地になった華北に民を呼び込んで農民/民戸にして、開拓させて、生産地代として5割(耕牛を借りた人は6割)を現物/作物で納めさせます。これを屯田制と言います。とくに民屯と言います。
実際は曹操が始めたのを引き継いだんです。また、異民族に対抗するために辺境では農民から分離させて、世襲の職業軍人の戸籍/兵戸として、この人たちに土地を与えて開拓をさせます。これを屯田制でも、とくに軍屯と言います。民戸と兵戸を分けたものは兵戸制と言います。
税制は戸調制です。村ごとの共同責任ではなく、世帯ごとに納税する仕組みです。
吏制/官吏登用制度は九品官人法/九品中正法です。
中央の官僚が中正官に任じられて、出身地の人を推挙する仕組みです。民を9ランクにわけるのが主な仕事ですが、自分の家族や親戚といった家門に属する人をえこひいきする人が多かったそうです。上位のランクには門が荒れ果てた家の者などいないし、下位のランクは身分の高い者はいないという状況は、当時「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われました。
後期になると、個人の能力ではなく、家柄重視が当然視されるようになります。ほとんどの人が世襲で高官の地位を得るようになるんです。こういう家柄を門閥貴族と言います。

魏、晋、南北朝の時代は、政治の中心には門閥貴族がいます。入試では「門閥貴族は魏から始まる。正文か誤文か」という形で出題されることが多いと思います。正文です。
魏晋南北朝の時代は、世襲で中央政府の官吏を占める貴族政治です。世襲で高級官吏になる仕組みを任子/蔭位(おんい)の制度/恩蔭の制度と言います。
中国史では、周の卿・大夫、魏、晋、南北朝の九品官人法による高級官僚が、門閥貴族と言えます。北宋の官戸も子弟に高い教育費をかけられる富豪(豪族、大土地所有者)がほとんどなので、実質は世襲に近いですね。
論述でも、門閥貴族とは何かを100字で書きなさいなんて出題されるかもしれませんね。貴族は諸侯(王の直属)のように高位な身分です。仕事の内容とは関係がありませんが、中国では秦以降は諸侯-卿・大夫・士の序列がなくなります。つまり諸侯である貴族がいなくなって、彼らの領地世襲も基本的には終わりますた。魏の頃から高官の地位を世襲する実質的な貴族が登場しました。これは官吏という仕事をしていることで貴族になっているので従来とは異なります。身分ではなく地位が高いのです。彼らは身分が高いわけではないので、地位に縋り付いていないといけません。だから親戚・氏族、つまり門閥の中でお互いに推薦して高い地位を世襲しています。これを門閥貴族と言います。

2世紀末には道教団が隆盛を誇りましたが、3世紀前半には、老荘思想が流行します。芸術談義や人物評価などの実用的でないおしゃべりは清談と呼ばれます。戦と権謀術数に明け暮れる現実の世界を前ににして、政治と距離を置く安全な暮らし方、思想の磨き方でもありました。都心を離れて隠遁生活をすることは、自然に身を置いて、老荘思想の無為自然の世界、また仙人にもつながると思われていたんです。この頃、エジプトに世界初の修道院が作られているので、東西の世界において隠居(引退ではなく)を志向した人たちがいたことを、面白いと思います。中国ではこうした隠居思想家のうち7人の名を上げて、竹林の七賢人と言います。阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)です。
出題されるのはたいてい阮籍さんです。他の人を訊かれたら、受験生で解答できる人は100点を狙う人だけだと思います。100点でなくても合格はできるので、気にしないようにしましょう。
この時代、俗世と離れて自然美・女性美を求める詩人や画家もいました。ヨーロッパの1500年代のルネサンスの女性画、1830年-1870年のバルビゾン派や、1860年頃からの印象派の自然美を先取りしています。
何晏(かあん)、王弼(おうひつ)といった帰化僧が活躍するのも、この時代です。異国人の僧侶が中国へ来たいるんです。
229年にはクシャーン(ササン朝の属国)から遣使があったので、親魏大月氏王の金印を下賜しています。また、238年には邪馬台国の卑弥呼に親魏倭王の金印と、銅鏡を下賜しています。東西の勢力と和を結ぶことで、隣国の朝鮮半島や西域の勢力に対して圧をかけようとしたんですね。邪馬台国は海外に派兵できるような国力はなかったと思いますが、それにすら頼らなくてはいけなかったほど、当時の魏は弱っていたと言う学者がいます。

263年頃、蜀が魏に滅ぼされます。カリスマの劉備、才能ある諸葛良孔明が死去すると、第二代の劉禅は統治力が不足していたので、宦官が力を握って「占いによると魏は攻めてこない」などと言って、団結力は失われていました。軍事力としては残っていたんですが、弱気になって降伏したようです。

265年、魏が滅亡。司馬炎のクーデタです。
265年、司馬炎は晋を建てます。歴史的には西晋と言います。西周と東周、前漢と後漢を理解している人はわかると思いますが、西晋から東晋へと遷都せざるを得なくなるんです。形式的には司馬炎は禅譲で皇帝になったので都は移さず、洛陽を都にしました。その後、司馬睿が建康に遷都します。司馬炎から司馬睿という漢字が簡単な順です。都の建康は健康とは違います。にんべんはありません。建築の建です。21世紀の南京です。

魏以来の門閥貴族は健在です。「王と馬と天下を共にす」という言葉があります。門閥貴族の「王氏」と晋の帝である「司馬氏」は一蓮托生で天下を治めた、つまり皇帝だけれど専制政治ではなかったということです。専制政治になるのは北宋からです。

西晋の内政。
官吏登用制度は九品官人法を継承しています。
田制は占田課田制。または占田法と課田法
①豪族を抑えるために、官位に応じて土地の制限を設定する占田法
②屯田兵に対して、耕作義務と課税を行うために、年齢に応じた土地給付の課田法。
呉を滅ぼした280年に実施したと言われますが、内容や実施したかどうかさえ様々な意見があります。
税制は、戸調式と言って、家/土地にかかる税金と、特産品を意味する調(絹・綿)を納める税金があります。

280年、西晋が呉を滅ぼします。220年に始まった三国時代は完全に終わります。280-220なので60年と憶えやすいですね。
どこがどこを滅ぼしたかは出題されます。魏が蜀を滅ぼして、魏は司馬炎のクーデタで滅んで、西晋が呉を滅ぼします。
三国時代が終わったので、歴史書が書かれます。西晋時代に書かれた正史は3世紀末の陳寿が書いた「三国志」です。その中の「魏志」にある東夷伝倭人条は、邪馬台国の様子などを書いているので、日本人には有名ですね。

290年~306年説もありますが、だいたい300年に八王の乱が起こります。恵帝の時代に勃発した王族叛乱です。王族は敵に対する主力なのに、その王族が反乱したので、押さえる軍隊が足りません、それで西晋は都洛陽の防衛に南匈奴を傭兵として使います
異民族の軍を都に置いたり、王族の争いに使うとその王朝は滅ぶというのはよくあるパターンです。犬戎が介入した西周もそうでした。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされる西ローマ帝国もそうです。
中国歴代王朝における王族のクーデタを三つ答えなさいという出題もあります。
①前漢の呉楚七国の乱
②西晋の八王の乱。南匈奴を用いて鎮圧。
③明の靖難の役1399年-1402年。恵帝建文帝から成祖永楽帝へ。

304年、南匈奴の劉淵が漢という独立国を建てます。世界史では前趙と言われます。
この時から五胡十六国時代に入ります。
五胡十六国-5つの胡族と漢族のつくった代表的な国。
鮮卑.匈奴.羯(けつ)と、チベット系の羌(きょう)族、氐(てい)族

入試によく出るチベットTibet系は頭文字T/タ行が多いと思います。氐(てい)、党項(たんぐーと)、吐蕃(とばん)。
もちろん例外はあります。入試によく出るのは前秦、チベット系のたんぐーとがつくった西夏、チベット族とビルマ族との融合した南詔国もあります。
入試にあんまりでない羌(きょう)、後秦、後梁、もチベット系です。
五胡の羌族が四川省のあたりに移住する前には、先住の「戈」(か)/「葛」/「戈邁」/「阿戈」と言われる人たちがいて、伝承では毛が生えた大きな体をしていて、大きな目から緑色の光線を出したり、尻尾もあったそうです。「羌戈大戦」という英雄詩に書いてあります。戈はつるはしの形です。鉱山で石を掘っていたのかもしれませんし、鉱石が緑石だったので、その光が目に反射した様子を言ったのかもしれませんね。呉の孫権は赤い髭、緑の眼だったと言うので、 戈族かもしれないと想像してしまいます。アーリア人がBC10世紀にインドへ侵入するくらいなので、緑の眼をもつ胡人がチベットや四川に入っていてもおかしくはありません。

100点を狙う受験生以外、五胡十六国をすべて憶える必要はありません。短期間に終わった西燕が除外されたりと定義もありませんしね。漢族の冉魏(ぜんぎ)、前趙に改称した匈奴の漢、代及び改称後の北魏(鮮卑が建てて華北統一)を除く15国と言う学者もいれば、山川の教科書では漢人の前涼・西涼・北燕を除いて15国としたり、なぜ15国にこだわるんでしょう。全部数えればいいのにと思います。
鮮卑は戦国の七雄の「燕」周辺から台頭するので、前燕、後燕、南燕を作ります。こうした国名は学者が付けたものですが、位置だけ憶えておくといいと思います。

五胡十六国時代劉淵の漢/前趙に始まって、前秦の華北統一を経て、北魏の華北統一で終わります。その後は南北朝時代に代わって、鮮卑の建てた隋が南北を統一します。中国の統一王朝は西晋の滅亡以後から異民族の隋唐へと担い手が代わります。

この時代は青海など西に鮮卑の吐谷渾、モンゴル高原のある北に柔然、東の朝鮮半島に高句麗、百済が台頭してきます。

311年以降の混乱を永嘉の乱(えいかのらん)と言って、劉淵は310年に死去していますが、南匈奴の漢/前趙が二回も西晋の帝を殺しています。皇族もことごとく拉致されます。311年に捕らえられた懐帝は313年に殺されますし、長安に遷都した愍帝(びんてい)は、316年に南匈奴の族長である劉曜に降伏しています。
この316年を持って西晋は滅びます。そして北部は小国分裂の時代に入ります。
混乱の時代、山東にいて難を逃れていた皇族の一人は南部の建業(かつて呉の都でした)へ移っていました。西晋が滅んだので、この人は晋を再興します。317年の東晋の建国です。始祖は司馬睿(しばえい)。司馬炎、司馬睿という漢字の簡単な順です。
都は建業ですが、建康と改称します。21世紀の南京を都にする六朝の二番目です。

北部では五胡が多くの国を建てましたが、チベット系の氐から台頭した苻健(ふけん)が長安を都に前秦を建てて、376年に苻堅(ふけん)が華北を統一します。ふけんは字が違うので気を付けましょう。
政治面だけでなく、思想的にも統一をしようと考えて、仏教を利用します。
この影響と、混乱した時代に安心したい民の要請もあって、4世紀には、西域から来た僧侶が北部で活躍するんです。西域のオアシス国家亀茲(クチャ。きじ)の仏図澄(ブドチンガ。ぶっとちょう)は羯の建国した後趙や、洛陽(310年)を訪れて、多くの仏寺を建立しました。仏図澄の中国人の弟子は南部で活躍します。道安、孫弟子(道安の弟子)の慧遠(えおん)が高名な僧です。
亀茲はオアシス都市の中でも有力で、 北インドの宰相家の出身だった鳩摩炎がやってきて王の妹と結婚し子をもうけたりもしています。この子、王族だった鳩摩羅什(クマラジーバ。くまらじゅう)も仏僧として高名な人です。377年に前秦の苻堅が呂光将軍に命じて、鳩摩羅什を招くために亀茲を攻めたんです。結局、前秦が分裂した後の後秦の時代に来て、中国で大乗仏典を漢訳しました。漢字で読めるようになったんです。
因みにこのころ、亀茲には尼寺が四つあったそうです。尼寺って、もうこの時代にあったんですね。
372年には前秦から、朝鮮半島の高句麗に仏教が伝えられています。華北を統一している前秦なので、朝鮮半島で北部にある高句麗にというのは、ルートとしては自然です。
南部の東晋からは384年に、朝鮮半島の南部にある百済に仏教が伝わります。これも南部同士で憶えやすいですね。
前秦が支配していた西域の敦煌には千仏洞/莫高窟(ばっこうくつ)と言われる石窟寺院が造られます。崖にたくさんの穴を掘って、その中の壁に仏像を彫ったり、仏の絵を描いたりしました。のとにインドのグプタ様式も中国に伝わりますが、グプタ朝は建国して間もないので、千仏洞/莫高窟はグプタ様式ではありません。以下の四つの選択肢からグプタ様式でないものを選びなさいと出題されます。千仏洞/莫高窟、麦積山、雲崗、竜門。

383年、淝水の戦い。東晋を滅ぼそうと南下したんですが、敗退しました。誰もが前秦が勝つと思っていたようで、軍事研究家もなぜ敗退したのかわからないと言っているそうです。謎ですが、東晋に敗退後は反乱が頻発して前秦は分裂します。元々烏合の衆なので、強いと従いますが、そうでなければ見限ります。その後、華北には後涼、西秦、後秦、後燕などの国家が生まれました。386年には代が建国されます。改称して魏と名乗りますが、学者は北魏と言います。鮮卑の拓跋(たくばつ)氏が作った国家で、始祖は道武帝です。
のち439年に華北を統一します。隋、唐も鮮卑の拓跋氏が作った国です。

その頃、東晋はどうなっていたかと言うと、当時は異民族の侵入してきた北部にはいられないと思って、南に逃げる流民がたくさんいました。この人たちの本籍地は、すでに東晋が支配していない地域にあります。そうなると住所不定の扱いで戸籍にも載っていないので、税金を取れずにいたんです。それで東晋では、移民の戸籍を現住所に移して固定化しました。これによって課税をできるし、小作人も増やせるという政策です。土断法と言います。
この時南に逃れてきて独自の文化を守った人たちがいます。この人たちの子孫は客家(はっか)と言われます。もちろん、北方を異民族が支配する時代には南下して客家に加わる人たちがいます。金の時代がそうですし、元、清の時代にはさらに南下したり、台湾に移ったりもしました。 境遇はドラヴィダ人/タミル人やユダヤ人に近いのかな。客家で有名な人には朱子学の朱熹、太平天国の洪秀全、黒旗軍の劉永福、孫文、鄧小平、シンガポールのリークアンユー首相、作家の郭沫若(詩「女神」、戯曲「屈原」)、台湾の李登輝総統、蔡英文総統、映画監督の侯孝賢(「非情城市」「珈琲時光」)がいます。洪秀全は客家ということが出題されます。

北部では五胡が相争う状況なんですが、南部の東晋では逃げてきた貴族が貴族文化を思う存分に展開します。詩や書、絵などですね。そんなことをしているから100年で滅んでしまうんですが、入試には出題されます。
貴族と言えばパーティ/宴です。書の分野の聖人という意味で、書聖と言われる王義之(おうぎし)は、書を芸術と認めさせました。代表作と言われている「蘭亭序」(らんていじょ)は、蘭亭という会場で行われる宴の準備として作った草稿の序文です。庭園にある小川というかせせらぎに人が乗れないくらいの小舟を流して、小舟が目の前に来た時に歌う遊びを曲水宴と言います。そのために作ったんです。「喪乱帳」は、王義之が書いた書簡の字が素晴らしいと思った後世の人が写して見本にした物です。草書で書かれた「十七帖」、楷書で書かれた「楽毅論」などもあって、唐の太宗李世民は王義之の書の収集家として知られています。
貴族の集まる宮廷文化が花開く時代なので、大奥で仕事をしたい人もたくさんいたんでしょうね。だから絵入りのマナー集、マニュアル本も必要になったはずです。絵画の分野の聖人という意味で、画聖と言われる顧愷之(こがいし)の代表作と言われている「女史箴図」(じょししんず)は中国最古の画集です。女史箴は、大奥/後宮での女性のたしなみを教える本で、これに絵を付けたのが、「女史箴図」です。出題されるとは思えませんが、顧愷之の作品としては、「洛神賦図巻」も有名です。
4世紀後半、東晋から宋にかけて活躍するのが詩人の陶淵明/陶潜です。「帰去来の辞」(ききょらいのじ)という詩で、「金で釣られても官職にはつかないよ」と断りを入れて故郷へ戻る際の心情を歌っています。「桃花源記」(「桃源記」ではありません)では、漁師が雲南省などの山深い地域へ入ると、川沿いに洞穴があって、そこを抜けると社会とは隔絶した桃の花が咲き乱れる楽園があったなどの記録をしています。これが桃源郷の語源なんです。陶淵明は空想を書いたのだとずっと言われてきたんですが、山奥に暮らす人がいたとの記録が、20世紀から21世紀にかけて続々と見つかったので、陶淵明は事実を書いたのだという認識に変わってきています。古来、戦乱の激しい北部から逃れてきた人、王朝の弾圧から逃れた人は山へ入りました。だから、ひっそり山に住む人がいるのは当然です。客家もそうです。21世紀に山岳地帯で暮らす少数民族が、かつて三星堆遺跡の文化を担った人たちではないかと言う学者もいます。三星堆遺跡は目玉の飛び出た仮面で有名で、目から光線を出した表現ではないかとも思いますが、この文化の人たちは縦長の目をしていたとも言われています。古来中国では、「我々横目人はかつて縦目人を征服した。この縦目人がいつか襲ってくる」と言う伝説もあります。三星堆遺跡の人たちと争った漢人が報復を恐れて伝承していったのではないかとも思いますし、五胡の羌が征服した「戈」/「葛」/「戈邁」/「阿戈」の人たちは縦目人だったとも言われるので、その伝承が漢人に取り入れられたのかもしれないとも思います。

宗教面では仏図澄(ぶどちんが)の中国人の弟子が南部で活躍します。道安は般若思想を布教しますし、道安の弟子になった慧遠(えおん)は、阿弥陀仏を信仰する浄土系の祖と考えられています。慧遠は白蓮社という団体を作るんですが、この白蓮社は中国史ではのちのちまで反政府活動の事件に名が登場する団体です。
また、この時代には老荘思想や「易経」に基づく真理の探究をする玄学も生まれました。

□□朝鮮半島

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2世紀後半、北部にはツングース系の高句麗が存続しています。そこへ遼東半島の公孫氏が南下してきて、後漢の支配する楽浪郡を占領して、その南の部分を分離して、204年に帯方郡を設置します。これは南にいる韓族に対抗するためです。公孫氏の圧力を受けて高句麗は209年に鴨緑江流域に移って、その北岸(21世紀の中国吉林省)に丸都城を築きます。
高句麗の歴史を簡単に記述すると、BC37年に五女山城(卒本城)を都として建国されて、AD209年に丸都城に遷都、342年近くの平城に作った国内城に移ります。丸都城≒国内城とするテキストもありますが、別の城です。両方とも都で近くにあるので同じだと表現しているんでしょうね。平城は白登山の戦があった大同の古い名と勘違いしそうですが、全くの別で、大同は山西省にあって、平城は吉林省の通化市内にある集安市です。広開土王の碑文があるところです。427年、平壌に遷都して、668年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされます。


230年代には魏が公孫氏を滅ぼして楽浪郡、帯方郡を支配下に置くと、西晋もこれを継承します。
韓族は南部で78国が馬韓、辰韓、弁韓というグループを作っています。この時代を三韓時代と言います

4世紀-7世紀の朝鮮半島は三国時代と言われます。中国では三国時代が終わったころです。
313年に高句麗が楽浪郡を併合します。多くの漢人は留まったので、吸収されていきます。この313年はローマ帝国内でキリスト教を公認するミラノ勅令が出された年でもあります。
帯方郡は313年/314年、高句麗と韓族に滅ぼされます。
346年に馬韓は百済(日本語の音読みではひゃくさい、当時の読み方かもしれないくだら、21世紀の韓国語ではペクチェ)という国にまとまって、356年に辰韓は新羅(しんら、しらぎ、シーラ)にまとまって、369年に弁韓は金官国の別称である任那(にんな、みまな)を中心とした伽耶(から、かや)という連合になっています。
ちなみに倭は日本列島だけではなく、朝鮮半島の南部を意味していたと言う学者もいます。また、加羅(から)に由来して、外国のことは何でもからと言うようになったので、文化的な影響の大きかった唐を「から」と読んだという学者もいます。江戸時代にも外国産のものを唐物(からもの)と言っていました。唐はとうの昔に滅んでいるんですけどね。

場所や、何という国になったかは出題されます。地図を憶えるときに、どの場所でも上から反時計回りなどと決めておくといいですね。このルールだと、ばかんべんかんしんかんとなるのでリズムもいい気がします。
辰韓=新羅はイニシャルがShinで同じだから覚えやすい。辰韓を構成していた十二国の一つ、斯盧(しろ/サロ)国では、朴氏、昔氏、金氏が交代で王位を務めていたんですが、4世紀ごろから金氏が王位を独占したそうです。これに抵抗した朴氏の赫居世、乗除という夫妻が356年に辰韓を統一して、新羅が成立したという伝承があります。

371年、百済は高句麗の城砦都市である平壌(都ではありません)を攻め落とします。
百済の都は漢城から、熊津、扶余へと移っていきます。

翌年の372年高句麗に前秦から仏教が伝来しています。
384年には東晋の仏教が百済へ伝来しています。中国の文化は朝鮮半島には比較的早く伝播します。

□□日本列島

倭国大乱の後、184年に30余りの国の連合である邪馬台国に女王卑弥呼が立ったことで争いが治まったと伝わっています。邪な馬という悪い字を使われているのは、中国人が周辺の野蛮な人たちにふさわしいと思った文字を使っているからです。音は日本列島の人が伝えて、中国人が漢字を考えているんだと思います。朝鮮、鮮卑という文字も悪い字です。
卑弥呼(ひみこ)は占いをした巫女(みこ)でもあったようで、そういった祭政一致の神権政治を日本では鬼道政治と言いました。
邪馬台国が九州にあったのか近畿にあったのか、わかっていませんが、奈良県の東大寺山古墳から出土した象嵌花形飾環頭大刀には、中国の元号で184年から189年まで使われた中平という文字が金で書かれています。つまり中国から卑弥呼に贈られたものではないかと学者は考えています。読めなくなっている文字は?とすると「中平??五月丙午造作文刀百練清剛上応星宿????」だそうです。「中平年間の??年五月丙午の日に、銘文を作った刀を造った。よく鍛錬した刀なので、星の輝く世界/天の意思に叶うだろうし、(????天下では禍を避けられるだろう)」という意味だそうです。この鉄刀は紀年銘をもつ日本最古の遺物です。

AD200年頃の遺跡から田下駄が出土しています。脚がずぶずぶと田んぼにはまらないようにするものです。西日本では井戸が掘られる時代でもあります。川から遠いところにも集落があったことがわかります。
3世紀、畿内から東は古墳時代に入ります。弥生時代の終わりと表現する学者もいます。時代区分としては、弥生-(古墳)-飛鳥-奈良へと進みます。
これまでの周溝墳丘墓(土饅頭、塚)は複数の人を埋葬していて、政治的な意味もほとんどありませんでした。これが3世紀以降になると首長・王・大王を独りだけ埋葬して権威を示すという政治的な意味を持つようになります。これを古墳と呼びます。円墳や方墳(四角)のものもあるし、前が方墳・後が円墳の前方後円墳もあります。大型化するにつれて、前方後円墳が普及しました。円墳の斜面を登るのは大変なので、スロープを付けたものもあります。このスロープが巨大化して前方後円墳に変化したと学者は考えています。
3世紀中ごろか4世紀中ごろに奈良県の桜井市に造られた箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓かもしれないと言う学者もいます。
鍵穴やホタテ貝にも形が似ていますが、大事なのは遺体が埋葬されている円のほうです。江戸時代に蒲生君平という人が、「横から見ると円が盛り上がっていて、前は平たい。うーん、牛車に似ているなあ」と思ったので、前方後円墳と名づけたそうです。

皆伝11 前方後円墳の図 - コピー

歴史学ではどっちが前かは定めていないそうです。手前にある方から登るので、前方奥円墳墓なら納得しやすいかな。

川が遠くなったからでしょうか、主に水を貯蔵する土器が作られます。米を煮る為にも使っていました。近世になると酒、味噌、酢などを貯蔵するようにもなります。
この時代、関東・東北も弥生文化に馴染んで、「弥生時代」人になったと言えます。縄文土器から弥生土器へと薄く、軽く、装飾が減って、やや焼き上げる温度が上がってくる流れがあります。技術的には大きく変わりません。弥生時代と古墳時代を歴史的に分ける必要はありませんが、工芸分野では、古墳時代以降の弥生土器を土師器(はじき)と呼びます。内容は何にも変わりません。盛付け鉢、木製の高坏、煮炊き壺、貯蔵甕、木製の臼などが作られますし、縄文の土器は飾りが多かったけれど、古墳時代には実用的な持ち手が付けられます。
半島から入ってきた轆轤・窯を使って作った土器を須恵器(すえき)と言います。「陶」を「すえ」と読むことから分かるように、陶器(すえき/とうき)とほとんど変わりません。日本の歴史学的には土器≒陶器。どちらも土から作った器です。磁器はガラス質の多いものです。中国では表面に釉薬(ゆうやく)をかけたら磁器と言うそうです。英国ではある種の磁器をボーンチャイナと言います。
須恵器は窯を使うので、高い温度で焼けます。だから、青っぽく硬いんです。古墳時代以降の副葬品(墓に一緒に入れるもの)の土偶を埴輪(はにわ)と言います。
少なくともこの時期までに、日本列島では墓前に献するための容器が作られます。九州の弥生人には、成人の埋葬用の甕がありました。甕棺と言います。
禊(みそぎ)、祓(はらい)の習俗が古墳時代に生まれています。産土神という概念、祈年祭、新嘗祭、男女がグループに分かれて合コンをする歌垣(交互にからかったりする掛け合いの歌)も生まれています。

即位の年を見ると60歳は越えていそうですが、卑弥呼が朝鮮半島(帯方郡)に遣使をしたら、魏の役人がいて、魏に来るように言いました。それで、朝鮮半島向けの贈り物のつもりでいた生口(せいこう。奴隷のこと)数人をそのまま魏の皇帝向けの贈り物として、239年に魏へ遣使します。すると「親魏倭王」の名をもらいました。親魏の称号はクシャーンの親魏大月氏王だけがもらっていたものなので、たぶん魏周辺の勢力に対して挟み撃ちにしたいから、同盟を求めた表現だと思います。
こうした王号を受け取ると、冊封体制に入ったことを意味します。冊封は王位、官位、元号を受け取ることですが、もらった刀に元号が書かれていることは例外として、邪馬台国では中国の元号を主体的に使っていたかどうかを知りません。邪馬台国を日本の歴史に含まない場合、日本の歴史で初の元号は645年の大化とされているます。
邪馬台国の周辺にも国々があって、邪馬台国は狗奴国(くぬこく)と戦ったという記録があるようです。
卑弥呼の娘(養子かもしれません)の台与(いよ、たいよ)は女王を継承して、266年には西晋に遣使しています。265年に成立した国への遣使なので、魏に遣使のつもりだったのか、西晋と知っていて結びつきを強める理由があったのかは不明です。
こうしたことは、陳寿の著した「三国志」の中の、「魏志東夷伝倭人条」に書いてあります。
369年が有力のようですが、3~5世紀のいつか、百済から七支刀(しちしとう。ななつさやのたち)が贈られます。有名な刀なので写真を見た人もいるかもしれませんね。鉄の剣で、61字が金で象嵌されています。つまり嵌めこまれています。この時代の日本列島に関する文字資料は少ないので貴重です。字の解釈や年代などははっきりしないんですが、大体は「同盟の証に贈る。この剣があれば戦の害を斥けられる」という意味のようです。21世紀の時点では、奈良県の石上(いそがみ)神宮に保管されています。
時期は不明ですが、朝鮮半島から機(はた)織りを得意とする秦(はた)氏、文筆を得意とする東漢(やまとのあや)氏が渡来します。いわゆる渡来人ですね。京都の太(うずまさ)は秦氏と関係があるそうです。文はあやと読みますし、漢は文化の中心と考えられたので、漢をあやと読むのも納得できます。
半島や大陸から剣、鏡に刻まれた漢字が流入。熊本県江田船山古墳から大刀75字、和歌山県の隅田八幡宮鏡に48字、埼玉県稲荷山古墳の鉄剣に115字。

福岡県の沖ノ島には縄文時代から人がいて、弥生時代に入っても漁労の拠点にしていました。朝鮮半島まで140kmほどなので、日本列島との交流・交易の際に目印にもされていたようです。古神道と言われる自然崇拝は山や川や森などを信仰しますが、沖ノ島は島自体が御神体なのですが、島にある巨石も信仰されていました。磐座と書いて「いわくら」と読みます。この時代までは日本列島では岩/磐の上に座って、祭祀をしています。この後に磐を降りて、磐の前で祭祀をするようになって、その後に、社を立てて、磐の神を神社の依り代に移して/憑依させて祭祀をするようになります。神輿(みこし)は依り代の乗り物です。
倭国が高句麗に遠征したり、宗像(むなかた)氏が半島や中国との交易に力をふるった4世紀後半に国家的祭祀が開始されたようです。宗像大社の社が立ったのは17世紀ですけどね。交易品はこの島を通過したので、貴重なものが島に残って、海の正倉院とも言われています。

□□北海道

縄文文化と、本州の弥生時代に当たる続縄文文化には、農耕と古墳がみられます。農耕と言っても、寒い北海道では弥生式水田稲作をできませんので、陸稲だと思います。本州で縄文が終わって弥生化すると、なぜか北海道でも続縄文文化と言うんです。
道南は本州の弥生文化の影響で恵山文化が生まれます。北千島・南樺太へ人口が拡大する一方で、4世紀には、サハリンのオホーツク人が北海道へ移動して来ます。
アイヌ文化、アイヌ人はまだいません。早くても13世紀に形成されます。

□□アメリカ大陸
□□中米  

テオティワカン文化/文明が継続しています。200年‐550年が最盛期で、人口は12-20万人の都市になっています。幅45mの死者の大通りが主要通りで、起点か結点に高さ45mの月のピラミッド、その後ろにセロゴルド山がある構成です。200年ころ、高さ60mの太陽のピラミッドが建てられます。83で割り切れる距離や寸法を採用しました。
建設時に200人の生贄、後ろ手に縛られた神官戦士がいたようです。当時は、陥没して地下水が露出した穴(セノーテ)へ人身生贄をすることが普及していました。生贄をされるほうの神としては、太陽と月の神イツァムナー、羽毛の蛇/ククルカン(アステカのケツァルコルトルになります)などがいました。神=白人説もあり、16世紀にスペイン人が侵攻したときに、神の使いか?と思って後手に回ったという俗説があります。

マヤ文明の古典期前期(250-600年)、ユカタン半島やグアテマラで、マヤ文明が本格化します。大都市が周辺の都市を組織化していきます。都市同盟というのか、中国の商の段階ですね。石碑や、神話や歴史的出来事モティーフとして、ほれぼれするほど美しく見とれてしまう多彩色土器などの宮廷文化が生まれます。低地に都市がたくさん作られます。ティカルは有力な大都市で、ティカル神殿が有名です。292年、ティカルの石碑に長期暦が刻まれます。マヤには様々な暦や時間の計測法があります。一か月を20日として、一年を18か月、つまり一年360日のマヤ暦も作られます。ゼロも発見しますし、手の指はあわせて20本だから20進法も使います。マヤ文字(象形文字)もあります。一部解読されています。
天文学も発展していて、目視で金星などを観測したり、月食、日食を予言しています。
コパンでは150年-400年には階層分化が始まって、石刃核の分配や、実用品の統制が行われていたようです。身分によって、これは持っていい、これはいけないと定まっていったんですね。テオティワカン起源の三脚付き円筒型土器はコパン(ホンジュラス)まで交易品として輸出されていました。
マヤ古典期は多様性、地方性が特徴です。中央権力の欠如を意味します。

□□アンデス

ペルー北海岸では、パカトナムー(パカスマーヨ市近郊)が1㎢に50を越えるピラミッドを建築しています。ぎゅうぎゅう詰めと言うか壮観と言うか、すごいですね。

モチェ/モチカ文化も継続しています。200-300年は、モチェⅡと言われる時期です。二つの神殿を中心に南北600㎞の複数の谷に影響力を持っていて、南米では初の国家と学者は言っています。各地にピラミッド型神殿をつくったり、エリート層が作る土器には神話世界・儀礼・日常が描かれてました。シパンからは錫のビーズ玉、金のマスク、鼻飾り、腰当、木棺が出土しました。人、動物の殉葬などもしていました。
300-450年のモチェⅢの時期には、広場の壁に裸体の囚人、手をつなぐエリート層の全身像が描かれました。
ペルー中央海岸では、リマ文化(200年-700年)が生まれます。チャンカイ谷からルリン谷にかけては、赤地白彩、赤地黒彩の土器や、アドべのピラミッドもありました。

ナスカ文化も継続しています。祭祀の中心地はカワチで、地上絵が平原部に現れます。500㎢のサンホセ台地に集中しています。当初は立っていて見える位置、つまり大地を囲む丘、山肌に描かれますが、だんだんと丘、山に登らないと見えない台地に描かれます。
黒く酸化した大地を削って、下層の白を出すんですね。木の棒で描くだけで、雨の降らない土地なので2000年も残るんです。農耕暦に関係する鳥、シャチ、人、猿、犬がモチーフとしては具象としては多いようです。ただ、台形・ジグザグ、らせん、幾何学模様の方が多いそうです。水源地の山に向かう線も多いので、何を意味しているのか、雨乞いなのではないかなど様々な意見があります。

今回はAD184年からAD395年を書きました。
次回は395年から610年を書きます。古代が終わります。
ユスティニアヌス帝、ホスロー一世、ヴァルダナ朝、中国の南北朝の時代ですね。
次の皆伝12はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/nede0b24e5400

仏教の衰退していく理由が分かった、世界史なのに古代の日本にこんなに詳しいのはすごい、キリスト教の迫害と国教化の因果関係がわかった、受験の役に立ちそう、目からうろこもコンタクトも落ちたと思ったりしたら、下部のスキ(下にある♡)を押したり、本郷りんのツイッターをフォローしたり、コメントを書いたりしてくださると嬉しいです。投げ銭したいと思ったら、下部の「気に入ったらサポート」を押せば寄付できます。お金を持っている人は一年に一回くらいお願いします。この文は頻繁に書きますが、家計の苦しい方はサポートではなく、スキやフォローを通して、宣伝していただければ十分ですからね。そうすればお金を節約して勉強をしたい人が「本郷りんの皆伝」の存在を知ることができるようになります。だから、気兼ねをしたり、引け目を感じずに利用してくださいね。

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