「萌え」はほんとうに性差別なのか? アニメ/マンガ/ノベルのなかのセンス・オブ・ジェンダー

 2017年に執筆して、同人誌なり電子書籍で発表するつもりであった『「萌え」はほんとうに性差別なのか? アニメ/マンガ/ノベルのなかのセンス・オブ・ジェンダー』の全文をここに公開します。

 全77414文字。ほぼ新書1冊ぶんほどのボリュームがあります。

 テーマはアニメ/マンガ/ノベルにおける「ジェンダー」の描写。しかし、これは類書と異なり、ほんとうにアニメやマンガの「萌え」描写が性差別といえるのか、と疑問を呈する形で論を進めています。

 序章を含め全7章構成で、第1章までを無料公開します。ぜひ、お買い求めになって全文をお読みいただければ、と思います。

 序章「旅路への招待」
 第一章「『新世紀エヴァンゲリオン』と男の子の挫折」
 第二章「『カルバニア物語』と少女マンガの系譜」
 第三章「『涼宮ハルヒの憂鬱』とポスト「男の子の物語」」
 第四章「『風立ちぬ』とスタジオジブリの王国」
 第五章「『グイン・サーガ』と日本ファンタジーの課題」
 第六章「『この世界の片隅に』とこの世界の片隅」

 よろしくお願いします。



『「萌え」はほんとうに性差別なのか? アニメ/マンガ/ノベルのなかのセンス・オブ・ジェンダー』

 序章「旅路への招待」

 はじめまして。この本を手に取っていただき、ありがとうございます。

 この『機械じかけの性と生』は、ぼくの最初にして、いまのところ最高の一冊です。

 もちろん、ロジカルに考えるなら最低の一冊といってもかまわないわけですが、少なくともぼくは最高の本になれと願って書きました。叶うことなら、その願いがきちんと形になっていますよう。

 さて、それではまず、ぼくがなぜ、何のためにこの本を書いたのか、そこから話を始めましょう。

 この本のテーマは「性」です。この本では性とは何なのか、それはどのようにして人を縛り、あるいは人格を形成しているのか、その点について語っています。

 英語では性という日本語に対応する言葉は、大きく分けてふたつ存在します。「セックス」と「ジェンダー」です。

 この言葉が併記されるとき、多くの場合、セックスとは生物としての肉体的な性差である、と説明されます。そして、それに対してジェンダーとは社会的/歴史的/文化的な性差のことだとも語られるでしょう。

 どういうことでしょうか。つまり、ジェンダーとは「わたしたちがしばしば当然のもののように思い込んでいる男性と女性の性の差、男らしさとか女らしさといったものは、実は社会的、あるいは文化的に形づくられたものであるに過ぎない」とする考え方のことなのです。

 ジェンダーの理論に従うなら、なよなよとした「軟弱な」男性が低く見られがちなのも、牛丼屋でタバコをすぱすぱ吸っている女性が冷たい視線を向けられることがあるのも、すべては決して「自然」で「あたりまえ」のことではなく、そういうふうに社会と文化ができているからだということになります。

 あるいはこのように書くと、ほんとうだろうか?と思われるかもしれません。そう、疑いをもつことは良いことです。しかし、この本を最後まで読んでいただければ、その疑問も氷解することでしょう。そうだといいな、と思っています。

 ここではあっさり「過ぎない」と書きましたが、じっさいにはジェンダーの影響は強力です。ジェンダーが既存の映画や文学作品にどのような影響を及ぼしているかについては、既に女性学(フェミニズム)の論者を中心とした優れた研究がいくつも存在します。

 そこで、この本では、いわゆる「ポップカルチャー」に属するSFアニメやファンタジーノベルのなかのジェンダーを見て行きたいと考えています。

 実は(できれば秘密にしておきたかったところですが)、ポップカルチャーのなかのジェンダーについて考察した本も既に何冊も出ています。ただ、この本ではそれらの本とはまた少し違う視点でジェンダーを考えています。

 まず、この本で目ざしたのは、既存のアニメやマンガやライトノベルをリスペクトし、可能な限りポジティヴに評価することです。

 ジェンダーというものさしで測ると、いまの日本で発表されている作品の多くが何かしら問題を抱えていることは事実です。

 ですが、この本ではあえてそれを高みから一刀両断して良しとすることは避けました。そういう行為はいかにもぼくが愛する作品たちにふさわしくないと思えたからです。

 エンターテインメント作品は、まず第一に面白く楽しめることを目指すものであり、何らかのイデオロギーの模範となることに挑んでいるわけではありません。

 したがって、アカデミックな目で見ていくらか粗があるとしても、必ずしも最大の問題だとはいえないとぼくは考えます。まず面白くあることこそがエンタメの最大の存在理由なのです。

 それなら、何のためにわざわざジェンダーなどという堅苦しいものさしを持ち出すのかと思われるかもしれません。

 それは、ぼくがまったく逆に考えているからです。エンターテインメントはジェンダーの視点を持ち込むことによってもっと面白くなる。ぼくは心からそう信じているのです。

 ジェンダーの視点で作品を捉えるとき、ありきたりの「男らしい」だけの男性像やひたすらに「女らしい」のみの女性像はあまり魅力的に見えなくなります。

 ぼくは、そのことによって、ありふれたジェンダーに縛られた造形を超えた、もっと複雑な、あるいは深遠なキャラクターを生み出されるようになっていくだろうと期待しています。

 ようするに、ぼくもまたさらに面白いエンタメを見たいと思っているひとりであり、そのためにこそこの本を書いたということです。

 この本のなかでは作品を批判的に見ているところもありますが、それでも、なお、作家と作品への敬意は忘れていないつもりです。そのようなものとして以下の内容を読んでいただければ幸いです。

 また、この本で扱う領域はあまりに広く、それぞれのジャンルの作品を網羅的に評することは不可能と判断せざるを得ませんでした。したがって、この本でまったく名前を出していない各ジャンルの重要作品がいくつもあるとは思います。

 しかし、それはぼくの無知のせいばかりではなく、本の趣旨のためでもあるのだとご理解ください。

 じっさい、このテーマで取り上げることが可能な作品は数えきれないほどであり、とてもぼくひとりの手に負えるものではありません。いつかだれかが同じテーマで新しい本を書いてくれたら、と願うばかりです。

 さあ、それでは「性」と、そして「聖」を巡る冒険へ旅立ちましょう。それは、ぼく(たち)が愛してやまないエンターテインメント作品に、ジェンダーがどのような影響を与えているのか、その秘密を確かめる旅です。

 そのプロセスのなかで、多くの有名作品を取り上げることになるでしょう。たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』、あるいは『機動戦士ガンダム』、『グイン・サーガ』や『この世界の片隅に』。

 それらの作品がどのようにしてジェンダーの政治(ポリティクス)を扱っているのか、なるべく詳細に見て行きたいと思います。準備はできましたか? それでは、行くとしましょう。性と性差が支配する領土の、その、さらに先へ。

 第一章「『新世紀エヴァンゲリオン』と男の子の挫折」

 1.『エヴァ』の時代。

 それは、いまとなっては「過去」であり「伝説」、しかしその当時はまさに日本全国を熱狂の渦に叩き込んだ「現象」であったのでした。

 そう、『ふしぎの海のナディア』、『トップをねらえ!』などの傑作アニメーションで知られる天才監督・庵野秀明と有名アニメスタジオGAINAXによって制作された破格のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のことです。

 『エヴァ』は1995年から翌96年にかけて全26話が放送され、その謎(エニグマ)に満ちた展開と深刻きわまるドラマツルギーによって、その頃、膨大なファンとアンチファンを生み、さらには多彩な「考察」までも発生させたのでした。関連書籍は実に数十冊に達し、その内容は真摯な学問的論及からシニカルな嘲笑的言説にまで及びました。

 この章では、いまとなってはすでに歴史の一部に組み込まれた感があるこの作品を、新シリーズ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の完結編をじりじりと待ちつづけているきょう、あらためて振り返り、いまの目から見て『エヴァ』における「センス・オブ・ジェンダー」とは何であったかを確かめることで、続く章における論考の足掛かりにしたいと考えています。

 さて、『エヴァ』。こうしているだけでも、あの放送当時の熱狂と賛否を易々と思い出せます。あの頃、ほとんどだれもが『エヴァ』について語っている印象がありました。日本アニメ史的には『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』のヒットに次ぐいわば「サード・インパクト」にあたるわけですが、こと多様な「語り」を生んだという意味で『エヴァ』はアニメ史上最大ともいえる「事件」だったでしょう。

 それにしても、いまあらためて考えるに、この作品の衝撃とは何だったのでしょう。なぜ、『エヴァ』はあれほどわたしたちの心を揺さぶったのでしょうか。この問いについては、すでにいくつもの方向からあらゆる分析が行われています。ですが、ここではそのすべてを脇に置いて、白紙の心で『エヴァ』と向き合うことにしましょう。

 2018年のいま、白紙で『エヴァ』を見ると、そこに何が見えてくるのか? まず、あたりまえのことのようですが、この作品の少なくとも前半は、破格に面白い「普通の」エンターテインメントであるということです。

 物語の舞台は、放送当時は近未来であった2015年の第三新東京市(このネーミングが既にきわめて思わせぶりで秀逸)。波乱の第一話は、謎の特務機関〈ネルフ〉の首領である父・碇ゲンドウに呼び出されたシンジ少年がこの町にたどり着くところから始まります。

 折りしも都市は謎の〈第三使徒〉サキエルの攻撃を受けたところ。あらゆる通常攻撃をその無敵の〈ATフィールド〉によって無効化するサキエルを撃破しえるのは、巨大な汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンのみ!

 エヴァの操縦能力をもつ選ばれた〈サードチルドレン〉であるシンジは、父からエヴァに搭乗しサキエルを撃滅するよう命じられます。おお、いかにも男性向けアニメにふさわしい熱い展開です。さまざまな謎に満ちた意匠といい、センスみなぎる命名といい、まさにロボットアニメに新境地を拓く傑作の始まりとしか思われません。

 個々の設定は『ウルトラマン』や『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』といった先行作品を連想させるものの、すべてがひと捻りされていて印象的です。おそらくこの時点では、視聴者のだれもが壮大な物語の始まりを予感してわくわくしたに違いありません。

 とはいえ、王道そのものと見える展開にも、ちょっとした違和感が仕込まれています。たとえば、物語の主人公であり、選ばれたパイロットであるはずのシンジがいったんエヴァに乗ることを拒むことです。

 結局、かれは傷つきながらもエヴァで戦おうとする包帯姿の少女・綾波レイの姿を見て、「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」と呟きながら決戦へ挑むことになるのですが、それにしてもひとたびは戦いを拒みます。

 王道の物語にささやかなつまずきをもたらしかねない小石のような違和。しかし、おそらくこの時点では大半の視聴者には、それすら使徒との戦いの興奮をさらに昂らせるための演出でしかないように思えたことでしょう。

 ところが、そうではなかったのです。シンジはたび重なる戦闘のなかで、しばしば「男らしく」勇敢に戦うものの、どこまで行っても「成長」しません。最後まで「一人前の男」になって戦いに乗り出したりしないのです。

 それどころか、物語が後半に至ると、かれの勇気は完全にくじかれ、動機も失われ、シンジはその場に座り込んでしまいます。完全なる行動停止。この、アンチクライマックスともいうべき衝撃の展開に、当時、賛否両論の声がかまびすしかったことはあまりにも当然にも思えます。

 気宇壮大なSFドラマ、あるいはひとりの少年の成長物語と見るなら、『エヴァ』は完全に失敗しているのです。

 とはいえ、それではひっきょう、『エヴァ』とは単なる失敗作なのかといえば、それも違う。少年成長物語としての頓挫をあらわにすればするほどに、作中のテンションは異様に高まります。

 タイトな制作スケジュールを示すかのようにまったくの静止画や使い回し作画が増えていくにもかかわらず、そして物語はいよいよ破綻をあらわにしていくにもかかわらず、『エヴァ』は圧倒的に面白いのでした。

 この作劇の失敗と制作の破綻を補ったものは何だったのでしょう。いったい、どんな魔法がこの作品を救っていたのでしょうか?

 ひとつには、庵野秀明監督を初めとする製作スタッフが徹底的に真剣だったことがあるでしょう。どれほど露骨にスケジュールの破綻が見えて来ても、制作陣はシリアスを貫き通し、道化ぶってごまかそうとすることはありませんでした。

 その結果、狂った展開には何か異常な緊張感が宿ります。天才と狂気のありえるべからざる化学結合。まさにあたりまえの常識的な作劇理論から大きく逸脱していたからこそ、『エヴァ』は決して見逃してはならない作品となったのです。

 ただ、ぼくがここで注目したいのは、『エヴァ』を傑作にした黒魔術(ブラックアート)の秘密そのものではなく、この作品におけるジェンダーの描写です。つまり、連綿と続く「男の子の物語」にとってひとつの曲がり角ともいえそうな『エヴァ』において、性差の問題はどのように描かれていたのか?

 これについてはすでに秀逸な解説書が出ています。小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』。小谷は『エヴァ』の魅力を、物語後半における「女性的なるもの(ガイネーシス)」の噴出に見ます。

 これはきわめて的確な見方といっていいでしょう。『エヴァ』の物語的なオリジナリティは、主人公のシンジが戦いに臨む意欲を持っていないこと「ではない」のです。

 その種の、過酷な現実に対峙する意欲を持たない若者の描写なら、村上春樹を初めとして、当時の文学作品をさらえばいくらでも例が見あたることでしょう。

 そうではなく、碇シンジの物語の特色は、かれが何度となく「男らしく」立ち上がろうとし、じっさいに戦いに臨むのにもかかわらず、そのたびに挫折して「男性性」を確立できないことにあるのです。

 もしも『エヴァ』が初めから「男の子のイニシエーション」を放棄してひたすらに戦いから逃げ出すだけの少年を描く物語であったなら、これほどまでに衝撃的ではなかったと思います。

 むしろ、シンジがどこまでも真摯に恐怖と向き合い、「逃げちゃダメだ」と「男らしさ」を振り絞ろうとすればするほどに、結局は「女性的なるもの」に呑み込まれてしまうというこの、「男の子の物語」を完遂しようとしてしきれない展開がまさに『エヴァ』なのでした。

 『エヴァ』の作劇と作画の最後の頂点ともいうべき第19話は、その名も「男の戦い」と題されています。この第19話で、シンジ少年は畏怖する一方でその愛情を渇望する対象である父と正面から向き合い、まさに「男らしく」使徒との戦いに挑みます。

 この回を『エヴァ』全体の最高傑作回と見なす人も少なくないでしょう。それくらい印象的なエピソードであったことは間違いありません。

 恐ろしい父を乗り越え、難敵に向かって立ち上がる少年。まさに「男の子の物語」としかいいようがない素晴らしい展開です。一般的なアニメの作法でいえば、シンジはここからクライマックスの最後の敵との戦いに向けてひと皮剥けた姿を見せることでしょう。

 ところが、『エヴァ』においては、見事に「男の戦い」をくぐり抜けたシンジは結局は一人前の男にも戦士にも大人にもなることができず、自分自身の殻のなかに閉じこもってしまうのです。

 ここで、庵野監督はあえて定石をずらして読者の意表を衝くことを狙っているのでしょうか? そうではないでしょう。この展開はどこまでも真剣な思索の末に導き出されたものであると考えるべきです。

 つまり、かれはここで歴史的に連綿と続いている「男の子の物語」を意図して頓挫させることによって、そのパターンのひとつの限界を示してみせたのです。

 2.男の子の物語の挫折。

 さて、それでは「男の子の物語」とは何でしょうか? それはひとまず、「男の子たちのための物語」であると定義できるでしょう。

 やがては大人になり、ひとりの「男」として社会に旅立っていく「少年」たちを主要なターゲットとした物語群。たとえば、『少年ジャンプ』などに掲載されている少年マンガは典型的な「男の子の物語」にあたります。

 男の子の物語に求められるものは、まず何といっても神話学でいうところの「ドラゴン退治(ドラゴン・ファイト)」です。

 多くの場合、何かしらの不思議な出生をした「英雄(ヒーロー)」が、「竜(ドラゴン)」などの怪物を斃して囚われた可憐な「ヒロイン」を救うといった物語は、広く世界中に存在します。

 ギリシャ神話におけるペルセウスとアンドロメダの物語あたりが最も有名でしょうが、現在のぼくたちにとって最も親しみ深いのは、かの『ドラゴンクエスト』第一作だと思います。

 『ドラクエ』のストーリーは、「勇者ロトの子孫」である主人公が、邪悪な「竜王」を斃し、その旅の途中で救い出した「ローラ姫」をめとるという、まさにドラゴン退治の英雄伝説そのままといった筋立てとなっています。

 カール・グスタフ・ユングが創始したユング心理学によれば、この種のドラゴン退治のエピソードは深層心理的に「母殺し」を意味しているといいます。つまり、ドラゴン退治とは自分の生活を支配している母性的なるもの(グレート・マザー)を「殺し」、一人前の男になるための儀式であるということになるでしょう。

 フェミニストの先達として名高いシモーヌ・ド・ボーヴォワールが遺した有名な「女は女に生まれるわけではない。女になるのだ」という言葉に倣うなら、男もまた男に生まれるわけではなく、何らかの儀式を通して男になろうとする/ならなければならない存在なのです。

 生まれてからずっと自分を支配し管理してきた最大の存在を凌駕する「親殺し」のイニシエーションを通して、自らの男性性を確立するということ。

 それは過去の弱い自分と決別するという意味で、「自分殺し」のイニシエーションであるということもできるかもしれません。ここでは、英雄、つまり一人前の人間になろうとする男の子の前に、親が、ドラゴンのような怪物として象徴的に立ちふさがるわけです。

 ドラゴン退治のテンプレートはきわめて魅力的な物語の原型です。少年マンガや男の子向けのアニメ、ライトノベルのほとんどは、何らかの形でこの形式を踏襲しています。それだけ面白いパターンなのです。

 それでは、『エヴァ』が直面するまで、この「男の子の物語」テンプレートに疑問を抱いた作家や作品は存在しなかったのでしょうか。

 もちろん、そんなはずはありません。アニメの歴史をひも解けば、偉大な先例として『機動戦士ガンダム』があります。富野由悠季監督にのもと制作され、1979年に放送されたこのもうひとつの伝説のアニメでは、主人公であるアムロ・レイの葛藤がこれでもかとばかりに描かれていました。

 その当時のアニメとしては画期的なことに、アムロはわりあい気が弱く内向的な少年です。かれはあるとき、運命的にモビル・スーツ「ガンダム」のパイロットとなります(ここらへんは、碇シンジがエヴァのパイロットとして選ばれたこととよく似ています。男の子の物語の主人公は運命に愛されてロボットに乗り込むものなのです!)。

 そして、かれは天才的なパイロットとしての素質を開花させ、ガンダムを擁する連邦軍の一員として敵対するジオン軍との長い「一年戦争」に参戦し、数々の英雄的な武勲を立て、やがて新人類「ニュータイプ」として覚醒するのです。

 と、こう書くとまさにヒーローとしかいいようがないように見えるかもしれません。じっさい、初めは未熟な戦士であったアムロは、やがてガンダムの性能を超える能力を発揮するほどの超一流のモビル・スーツのパイロットへと成長していきます。それは王道にして非常に魅力的な「男の子の物語」といえると思います。

 しかし、20世紀の物語である『機動戦士ガンダム』の主人公を務めるかれの性格は、神話時代のペルセウスやアキレウスほど単純ではありません。アムロは戦争の意義や戦うことの意味について悩む「近代的自我」を持っていたのです。

 したがって、かれは戦うことそのものを避けようとする「逃走するヒーロー」でもありました。相次ぐ戦いや、周囲との人間関係のあつれきに悩んだかれは、ガンダムを捨てて戦場から逃げ出してしまうのです。

 これは、当時としては非常に画期的な描写であっただろうと思います。そして、のちの碇シンジを予告する行動でもありました。つまり、ここにおいて男の子の物語は紛れもなく危機に陥り、岐路に立っているのです。

 とはいえ、アムロは最終的には軍に戻って来て、ガンダムに乗って戦います。そこに至るまで色々な紆余曲折はあるにせよ、かれは最後には生涯のライバルであるシャア・アズナブルを打ち破り、ジオン軍を打倒して、かれなりの「ドラゴン退治」を成し遂げることになります。

 このとき、アムロの最大のモチベーションとなったのは、かれにとっていまや「家族」のような存在である軍の仲間たちでした。

 すでにニュータイプとして超人類へ進む道も見えていたようにも思えるアムロは、しかし最終話において「ごめんよ、ぼくにはまだ帰れるところがあるんだ」といってひとりの人間として仲間たちのもとへ帰っていきます。

 つまり、この時点ではヒーローはその「近代的自我」によって悩み、苦しんではいるものの、まだかろうじてドラゴン退治へ挑む動機があり、そしてかれには「帰るところ」があったのです。

 富野監督は『ガンダム』に前後して『無敵超人ザンボット3』、『伝説巨神イデオン』、『聖戦士ダンバイン』などの問題作を続けざまに生み出していますが、いずれもきわめて凄惨な展開の筋立てながら、ギリギリのところで主人公は戦うことをあきらめてはいません。

 その意味では富野作品の主人公たちはどうにかヒーローの資格を失ってはいないといえるでしょう。

 もっとも、そういった戦いを通じてかれらがたどり着く結末はハッピーエンドとはいいがたいことがほとんどです。『イデオン』や『ダンバイン』のカタストロフ的な「全滅エンド」の衝撃はいまもよく語られていますが、さらに印象的なのは『ガンダム』の直接の続編にあたる『機動戦士Ζガンダム』です。

 この作品の主人公のカミーユ・ビダンはアムロに輪をかけてエキセントリックな性格で、何かというと激発します。これはかれが内に抱え、抑圧しているものの存在を暗示しているわけですが、ジェンダー的に見るならそれはつまり「内なる女性性」なのであろうと思われます。

 カミーユの物語はかれが自分の名前を「女の名前」と呼ばれたことに激昂するところから始まります。あきらかにカミーユにとって「男性ジェンダー=男らしい男であること」はきわめて重要なプライドの根源なのです。

 かれは自分の名が「女の名前」であることを指摘されるという形で抑圧した「内なる女性性」を告発されてしまったわけですが、それでもそういった「弱さ」を抑え込んで戦場へ向かいます。

 ところが、カミーユが挑むことになる戦いは、かつてアムロが戦ったそれよりもさらに複雑で奇妙で善悪すらさだかではない「戦争」なのでした。

 かれは恋愛や葛藤や暴力や殺人といった要素がほとんど一見したところではとても整理しきれないほど複雑に絡み合ったストーリーの果ての最終話において、ついに発狂してしまいます。

 何が正しく、何が男らしくあることなのか、それすらわからないまま迷走を続ける物語が最後にたどり着いた血まみれのバッドエンド。

 1985年放送のこの作品において、ドラゴン退治のパターンによる男の子の物語は、すでにどうしようもなく限界に達していたといっていいでしょう。

 いったいなぜ戦うのか? 何のために戦わなければならないのか? かつてであれば「囚われのお姫様を救うため」という正当性があったかもしれません(実はこれは事情が逆で、ヒーローの戦いの正当性を確保するためにお姫様は怪物に囚われなければならなかったわけなのですが)。

 しかし、女性たちもまたひとりの自立した人間として行動している時代においてはこのような古典的パターンを踏襲することは容易ではありません。

 ようするに、近代化した物語においてはどんなヒーローも純粋な意味でのヒーローであることはむずかしくなってしまったのです。

 あるいは、主人公と敵を単純に善悪に分ける二元論を廃した物語は、具眼の批評家には文学的で高度なプロットとして高く評価されるかもしれません。

 ですが、じっさいのところ、『Ζガンダム』などの展開は、善悪という基準の「軸」を失った物語がどれほど迷走するものなのか、そのことを克明に示してしまったのでした。

 シンプルな善悪二元論の物語には立ち返れず、そうかといって複雑怪奇に過ぎる物語はエンターテインメントとしての求心力が弱い。いったいどうすればいいのか。当時、「リアルロボットもの」と呼ばれたアニメ番組は、しばしば何かしらの形でこの問題と直面しています。

 ただ、そうはいっても、どれほどの苦悶と混迷が待ち受けているとしても、この頃は、だれもロボットに乗ることそのものを拒否しようとはしなかったのです。そう――『エヴァ』と碇シンジの登場までは。

 3.崩れ去る王国。

 ロボットアニメのみならず男の子の物語全体の歴史において『エヴァ』が画期であるのは、シンジが脆弱な自我しか持っていないことではありません。

 そうではなく、シンジはだれよりも真剣に男らしくあろうとするからこそ、「男らしさ」そのものの欺瞞に直面してしまうのです。

 かれは男の子の物語の王道であるロボットアニメの主人公として、宿命的にドラゴン退治を求められる立場にいます。そして、アムロやカミーユがそうであったように、だれよりもうまく「ロボット」を操ることができます。

 じっさい、かれは物語のなかで何度かドラゴン退治に成功しているようにすら思えます。

 シンジが立ち上がったのは、そもそもアニメ史上に冠絶する可憐なヒロインである綾波レイを救うためでしたし、第6話においては小谷真理がいうところの「男根的」な兵器であるポジトロン・ライフルを撃って使徒を斃し、エヴァに閉じ込められたレイを救い出します。シンジはむしろ誠実に自分のタスクと向き合っているのです。

 しかし、それにもかかわらず、かれは心理的にも物語的にも親殺しを果たせません。決定的なところで英雄譚のヒーローとなることに挫折してしまいます。

 劇場版において、シンジが自我を喪失した少女アスカの前でひとり自慰する場面は、あまりにも生々しく、かつみじめで、非常に印象的でした。

 仮にポジトロン・ライフルの発射が象徴的な意味での「気持ちいい射精」であり、男性性を強化する行為であるとすれば、このときのシンジの自慰は「情けない射精」であり、男性性のネガティヴな一面を見せつけるものであったといえるのではないでしょうか。

 ただ、記憶をたどるなら、『エヴァ』の放送当時においては、シンジのこうした「脆弱な男性性」は、かれ個人の軟弱なキャラクターであるに過ぎないと見られていたように思います。

 しかし、それから20年以上が過ぎ去ったいま振り返ってみると、一人前の男になれないこと、ヒトとして成熟できないことは決してシンジだけの問題とはいえません。

 『エヴァ』に続くさまざまな作品が、この時代において神話的な英雄譚を生きることがどれほどむずかしいことなのかを証明しています。

 たしかに『エヴァ』を気宇ばかり壮大な失敗作と見ることは容易でしょう。何といっても『エヴァ』は非常に衒学的にさまざまな意匠を用いた作品であり、また「人類補完計画」によってきわめて壮大なSF的ヴィジョンを見せるかにも思われました。

 ところが、物語は最終的にシンジの内面の、いかにも近代的で思春期的な、ある意味では卑小な悩みへと回収されてしまいます。これに失望した人はたくさんいるでしょうし、その展開を「大山鳴動して鼠一匹」とか「幽霊の正体見たり枯れ尾花」などといって冷笑してみせることはたやすいでしょう。

 しかし、ぼくはここで庵野秀明監督は意図して自意識の問題にプロットを収斂させていったのだと考えるべきだと思います。なぜなら、この「いつまでも成熟できないこと」こそが、そのときのかれにとって最も深刻な問題であったと思しいからです。

 30歳を過ぎてなお『ウルトラマン』や『仮面ライダー』を愛してやまない庵野秀明は世間的にいえば、またおそらくかれ自身の目から見ても「おたく/オタク」であり、しかも対象作品を皮肉に冷笑して良しとするシニシズムにも共感できなかったものと思われます。

 その意味で、庵野自身の自画像が「いつまでも大人になれない」少年だったのでしょう。

 だからこそ、14歳の未熟な少年を主人公にして始まった物語は、「どうしても成長できない」という問題に回帰せざるを得なかった。

 それはつまり、「親殺し」を果たして自立できないということでもあります。ここにおいて、傷つき、苦しみながらも続いてきた男の子の物語は、完全な形で挫折したのです。

 しかし、そう、そもそも、ドラゴン退治を完遂できないこと、ヒーローになれないこと、一人前の男として成熟していけないこと、それはほんとうに否定的にばかり受け止めるべきことなのでしょうか?

 たしかにシンジはロボットアニメの主役として、あまりに弱く、情けない造形に思えます。かれは最終的には、ある意味ではきわめてありふれた身内の人間関係の問題に悩む中学生であるに過ぎません。

 シンジの物語の、その、ある意味では「中二的」であるにもかかわらず、べつの意味ではきわめて「反中二病的」な結末は、緻密な謎解きと壮大なヴィジョンを期待した視聴者にとってあまりといえばあまりの肩透かしであったかもしれません。

 ですが、そもそもほんとうに男の子はドラゴン退治をしなければならないのでしょうか? そうだとすれば、なぜ男の子だけがドラゴン退治のイニシエーションを求められるのでしょう?

 世の中には、シンジのように、怪物と戦うことを好まない性格の少年もたくさんいるはずです。それなのに、男の子の物語といえば、まずドラゴン退治、怪物殺しでなければならないとされているのは、なぜなのでしょうか。

 そうです、ぼくは、それが即ち「ジェンダーの呪縛」であると考えます。

 つまり、「男は男らしく戦わなければならない」という「常識」は「社会的、文化的に構築された約束事」であるに過ぎず、決して「自然」で「当然」で「あたりまえ」のことなどではないということです。

 ジェンダー的に見るなら、男の子なら世界を守るために戦うべきだという常識も、決してほんとうの意味での常識ではありません。何といっても、シンジが最終的に戦いを断念したのは、最愛の友人である最後の使徒・渚カヲルをその手で殺してしまったときでした。

 シンジの心理は、ぼくにはあまりに当然のものであるように思えます。世界を守るといっても、その「世界」とは何を指しているのか。親友以上に大切な守るべき世界など、ほんとうに実在しているのか。

 いったん疑問に思ったなら、いままで抑圧してきた矛盾が怒涛のように噴出してしまいます。それが、それこそが碇シンジの絶望。

 その意味では、シンジは必ずしも臆病からエヴァに乗ることを拒んでいるわけではありません。むしろ、かれを萎えさせたものは、男らしく立ち上がり戦うことのとほうもないむなしさ、無意味さ、実感のなさであったでしょう。

 じっさい、かれは戦いに何かしらの大義があると考えられる間はどうにか戦っていました。シンジが致命的に挫折するのは、自分の戦いに何のバリューも見いだすことができなくなったときです。

 かれが単純に友人を殺してしまったことに嫌気が差したと見ることは正しくないでしょう。シンジは自分を立ち上がらせる「軸」の喪失にこそ絶望したのです。

 そもそも、シンジを取り囲む環境は異常なものです。かれはどうしても周囲の人間とまっとうな関係を結ぶことができません。かれのまわりの人間はだれもが何かしらのトラウマを抱えていて、ちょっと近づくと依存か対立に陥るのです。

 この閉塞性、すべての遠近法が狂い、ねじ曲がり、何が近くにあり何が遠くに存在するのかもわからないような世界が、のちに「セカイ系」と呼ばれる作品に受け継がれてゆく『エヴァ』の「狂気」の正体です。

 『エヴァ』の世界は一方で宇宙的規模に広がりながら、他方ではあまりに狭く閉ざされているのです。

 シンジを取り囲む環境のなかで最大の問題は、父であるゲンドウです。かれは世界を救うための組織であるはずのネルフを実質的に私物化し、妻であるユイと再会するというミクロな目的のために私用します。あの作中最大の謎とも見えた「人類補完計画」も何もかも、ただそのための道具に過ぎなかったのです。

 一見すると、ゲンドウはとうにドラゴン退治を成し遂げ、父をも母をも殺して自立した「大人の男」に見えます。しかし、物語が進んでいくにつれ、しだいにゲンドウもまた決して「成熟した大人」などではないということがあきらかになっていきます。

 実は人類救済機関ともいうべきネルフには、人間的に成熟した人物などひとりもいないのです。だれもが傷ついたチルドレンであり、じゅくじゅくに膿んだ精神的外傷を抱えてあがいている。それが『エヴァ』における世界。

 そんなゲンドウが作り上げた家父長制の王国は、まったく当然のことながら、やがてその裏面に隠されていたものを露出させ、さまざまな形で崩れ去っていきます。

 それを小谷のように「女性的なるもの」の噴出と見ることもできるでしょう。ともかくも、初めはいかにも偉大な王に統治された神聖国家とも見えたこの狭隘な国がいかにして崩れ去っていくかが『エヴァ』後半の見どころです。

 4.聖なる性なる生。

 先にも述べた通り、その名も「男の戦い」と題された第19話において、シンジはついに父と正面から向かい合い、「一人前の男」になったかに見えます。

 まさに情念が匂い立つようなドラマティックな展開。しかし、その先にかかれを待っていたものは、さらなる惨劇であるに過ぎません。

 幾たびとなくくり返えされる挫折。『エヴァ』はこのように挫折と再起を反復しつづけます。そして、その果てに『劇場版』において、シンジはついに完全に立ち上がることができなくなるのですが、そんなかれを父・ゲンドウによる「人類補完計画」が待っています。

 人類補完計画。それは人類単位の胎内回帰ともいうべき、すべての人の「個(ATフィールド)」を崩し去り、融解させようとする壮絶な計画でした。ここにおいて、シンジもまた完全に「女性的なるもの」のなかへ取り込まれることになります。

 ところが、シンジは最終的に母を初めとする全人類と一体化した世界を抜け出すことを決意します。戦いの果て、極限状況まで追いつめられたシンジが、ギリギリのところで「母殺し」をやってのけた、という見方も無理ではないかもしれません。

 ですが、シンジが補完世界を抜け出した理由はいったい何でしょう? いったいふたたび歩き出すべきどんなどんな動機がかれに残されていたというのでしょうか?

 それはぼくにはわかりません。あるいは、それはかれの最後に残された男としてのプライドだったと見ることもできるかもしれませんが、おそらくそうではないでしょう。

 そんなつまらないもので過酷な世界へ戻れるはずがない。また、シンジにはアムロにはあったような家族的共同体も存在しません。

 冷静に考えれば、シンジにこの世に戻るべき理由は何もないように思えるのです。じっさい、かれと同じくこの世に戻って来たアスカはシンジに殺されかけて、ひと言呟きます。「気持ち悪い」と。

 『エヴァ』の物語とシンジたちが長い物語の向こうにたどり着いた境地は、この世の地獄とも見まごう暗黒の世界でした。ですが、ほんとうにこの世界で生きることはそのような地獄行なのでしょうか。

 そしてまた、シンジにとって絶対の「他者」である「女性的なるもの」は、かれを抱擁し取り込むか、それとも「気持ち悪い」と徹底的に拒絶するか、そのふたつにひとつなのでしょうか。冷静に考えてみれば、そんなはずはありません。

 『エヴァ』のこの描写は、その時代性を反映してか、あまりに極端なものであるといえます。この世はたしかに楽園ではないけれど、単なる地獄でもありえないはずなのですから……。

 そして、21世紀に入って、『エヴァ』は新たな劇場映画としてリスタートします。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』です。碇シンジの物語は、ここにふたたび一から始まることになります。

 物語が重要な転機を見せるのは、映画第二弾である『破』のクライマックスです。ここでシンジは今度こそ自分自身の欲望に従って行動を開始します。それは使徒のなかに取り込まれた少女・綾波レイを救けたいということ。

 レイは、『エヴァ』公開時に爆発的な人気を呼んだことでもわかるように、男性の理想を凝り固めたアニマ的なキャラクターとも見えます。

 そのレイを救うため、シンジは自らエヴァに乗り、凄まじい苦痛をも乗り越えて使徒を斃します。今度こそ、かれは神話的なドラゴン退治は成功したように見えます。

 『破』の好評は、つまるところ視聴者が見たかったものはこの種の英雄譚であったことを示しているでしょう。結局のところ、どれほど男性性の神話が行き詰まりを見せていても、見る側の欲望はそう変わりはしないのかもしれません。

 ところが、物語はこの時点でまだ全四部のうち半分を消化したに過ぎないのです。続く『急』ならぬ『Q』では、シンジはまたしても絶望の底に叩き落されます。

 かれがレイを救うために取った行動が、エヴァを暴走させて「サード・インパクト」を引き起こし、世界を半壊させてしまったことがあきらかとなるのです。

 ここで、シンジはひとりの「男」として振るった力の代償を思い知らされます。自分のなかに男性性を確立し、ペルセウスよろしくヒロインを救い出せたと思った直後に、その行為の暴力性を突き付けられるのです。

 ここで碇シンジの物語は新たな次元に到達しています。それまでのシンジの苦悩は、どうあってもエヴァに乗れない、つまり男らしくなれないということでした。しかし、ここからその悩みは新たな領域へ突入するのです。

 シンジはどうにかエヴァに乗り、最愛の少女と世界とを救ったように思えたのに、そのことの過剰な暴力性が新たな惨劇を引き起こしてしまったのです。

 ここにおいて、シンジの物語はふたたび完全に行き詰まってしまったように見えます。戦っても、戦わなくても行き着くところは袋小路。いったいかれはどうすれば良いのでしょうか?

 その結論を出してくれるはずの『新劇場版』の完結編はまだ公開されていません。したがって、ここで軽々に断言することはできませんが、おそらく『新劇場版』最終章ではシンジは何らかの新しい境地にたどり着くはずです。

 そうでなければ物語は終わりません。庵野監督とスタジオカラーのスタッフがどのような結論を導き出してくれるのか、いまから楽しみでしかたありません。

 ちなみに、『エヴァ』において徹底的に解体された「男の子の物語」の先には、俗に「空気系」とか「萌え四コマ」などと呼ばれる享楽的な物語群が存在します。

 ほとんど男性キャラクターが登場せず、何人かの女子中高生たちがきゃっきゃと遊びあうまったりとした日常の物語。

 『あずまんが大王』、『らき☆すた』、『ゆゆ式』、『ゆるゆり』、『けいおん!』といった(やたらとひらがなを多用したタイトルの)作品が代表作ですが、これらはつまり限界を見せた男の子の物語を回避した物語であるといえます。

 空気系においては、もはや登場人物はほとんど成長しません。ゆったりとしたストレスフリーな「仲良し空間」のなかで、ただひたすらに楽しく時間を過ごすだけです。

 「男の子の物語」とは、成長の物語であると同時に、征服の物語であり、抑圧の物語であり、多分に暴力性を孕んだドラマツルギーでした。『エヴァ』以降、そこにあるさまざまな問題はだれの目にもあきらかなものとなりました。

 その結果として、暴力がなく、恋愛すらほとんどないフラットな時空間を描く作品たちが注目されたことは、ある種の必然であるように思います。空気系はある意味で『エヴァ』の世界を継承しているのです。

 恋愛といえば、『エヴァ』においても恋愛、というかむしろ性愛は大きなテーマのひとつでした。『エヴァ』ではさまざまな性愛の形が描かれています。

 しかし、それらはいずれも何かしら「依存」の匂いを振りまいています。そして、自分の心にあいた穴を埋めるための何らかの「代償行為」であるようにも見えます。

 たとえば、シンジの保護者である葛木ミサトはかつて恋人だった同輩の加持リョウジと復縁しますが、それも、自分の心の傷を癒やすための行為であるようにも見えます。

 『エヴァ』では(真昼間に放送されたテレビアニメであるにもかかわらず)ミサトと加持のセックスシーンらしき場面が用意されているのですが、その描写は甘美なようでいて何か不穏なものがただよっています。

 隠微に配されたエロティシズムは『エヴァ』のひとつの魅力ではありますが、この作品ではやはりだれも健康な性的関係を築くことができていないように見えます。ミサトと加持にしても、復縁したあとはあっというまに死によって引き裂かれてしまいます。

 この、全編に蔓延するタナトスの空気。そして、饐えたセックスと、爛れたエロスの匂い。たしかにそれが『エヴァ』の強烈な魅力でした。

 テレビアニメーションである以上、直接的な性描写は不可能であるにもかかわらず、『エヴァ』の匂い立つようなエロスはいまでも印象に残っているほどなのです。

 しかし、それはあまりにも不健康なエロスでもありました。シンジは作中で日本中の電力を集めたポジトロンライフルの発射という「気持ちいい射精」と、アスカの裸を見ながらの自慰という「情けない射精」を経験していますが、そのいずれも「聖なる性」といえるほど豊饒な体験ではありえません。

 むしろ、『エヴァ』の世界において、シンジたちは性の豊饒さに対して閉ざされているようにすら見えます。ある意味で、シンジは、生命学者の森岡正博がその著書『感じない男』において描いたような「男性不感症」なのかもしれません。

 そのために生命のエロスに直接触れることができず、ただひたすらにナルシシスティックな苦悩に溺れる。ぼくは、その「己の生命そのもの」の不全が、シンジがどこまでいっても楽にも幸せにもなれない究極的な理由なのではないかと考えています。

 ぼくが思うに、シンジは必ずしも無理に「男らしく」ある必要はありません。それはようするに社会が押しつけてくるジェンダー以上のものではないのですから。

 怖いのなら、怖がってもいい。哀しいのなら、嘆いてもいい。ただ、この過酷な(しかし、過酷なだけではない)世界を生き抜いていくためには、どうしてもそれなりの「生命のエネルギー」がなくてはならない。

 そのエネルギーは自分自身の内側から湧いて出てくるものであり、その意味で、性と生に対する「不感症」は致命的なのです。

 『エヴァ』はさまざまな形であるいはダークな、あるいはデカダンなエロスを描いていますが、いまのところ「生命そのもの」が歓喜するような原初的なエロスを描いた場面はないように思えます。

 はたしてこの物語では、「性」が「生」を駆動し、「聖」へと昇華する、そのような瞬間は描かれないのでしょうか。

 シンジの「気持ちいい射精」にせよ、「情けない射精」にせよ、ようするに男根的、排泄的な快楽の描写であるに過ぎません。

 もっと、生命そのものが躍動するような本質的なエロスを描き出すことはできないものなのか。その瞬間、おそらく「感じない男」は「感じる男」として目覚め、ほんとうの世界そのものと出逢うこととなるのです。

 いま、碇シンジの物語の終着点に待っているものは何なのか、ぼくは心底期待しながら待っているところです。

 このエロスの問題については、のちの章でもういちど触れることになるでしょう。

 第二章「『カルバニア物語』と少女マンガの系譜」

 1.『魔法少女まどか☆マギカ』という神話。

 第一章では、庵野秀明監督&GAINAXの『新世紀エヴァンゲリオン』を中心に、連綿と続いてきたヒロイックな「男の子の物語」が頓挫してゆくプロセスを見てきました。

 この第二章では、まずは新房昭之監督の『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げ、それからいくつかの少女マンガ作品を見て行くことで、それでは「女の子の物語」とは何なのか?ということを考えてみたいと思います。

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