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重度知的障がいと向き合う我が子と ”わたし” の歩み <パルタン星人さん>

子どもをケアするお父さん・お母さんに「自分らしい暮らしのコツ」について伺うインタビュー企画。

今回は、ファロー四徴症という心臓の病気や複数の障がいを持って生まれたお子さんのお母さん「パルタン星人」さんにお話を伺いました。看護師として働くパルタンさんの仕事と育児・ケアに関するお話や今後に思い描くことから “自分らしい暮らし” のヒントを探ります。

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笑顔の素敵なパルタン星人さんと7歳の息子さん
(名前の由来は秘密だそうです...!気になる...!笑)

パルタン星人さん
夫と2人の息子と4人暮らし。職業は看護師。7歳の次男さんは、心疾患・難聴・遠視斜視・重度知的障害・成長ホルモン分泌不全などの病気や障がいをもって生まれた。現在は、次男さんが特別支援学校に通う間に、訪問看護ステーションで週3~4日勤務。障がいを持った子ども達が楽しい人生が送れるような居場所づくりや親子ともに働ける環境を整えたいと模索中。 


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まずは、「お子様とのこれまでの歩み」についてお話を伺っていきたいと思います。


病気の宣告から出産まで

ーー 現在、特別支援学校に元気に通われている次男さんですが、心臓の異常が見つかったタイミングはいつ頃だったのでしょうか? 

妊娠19週目の検診でお腹の超音波検査をした際に分かりました。検査技師さんによる検査がなかなか終わらず、医師にも交代したため不安でドキドキしていたら「お子さんはおそらく『ファロー四徴症』でしょう」と宣告されます。

医師からは続けて「産むか産まないかの選択ができる時期だから、夫婦でよく考えてみて」とも言われました。検診には一人で行っていたので、帰宅後主人に相談します。「産まない」という選択肢が出たことで、私たちはとても悩みました。夫婦で話し合う時間はかなり設けたと思います。長男を妊娠中はとにかく幸せでいっぱいでしたが、次男の時は全く違うものでした。


ーー 産むか産まないかの選択は、どのような情報を参考に考えられましたか?

心疾患を持つ子どもの生活がイメージできるように、当時働いていた総合病院の心臓血管外科のスタッフに色々と聞きました。インターネットでも情報検索はしましたが、情報が正しいものか分からないので、振り回されないように注意が必要でした。

情報収集していくうちに、出産後のイメージができ徐々に自信が持てるようになりました。そんな時に、担当の産婦人科医より「疾患を治せば元気に育つよ」と背中を押してもらえたことが産む決め手となります。自分のお腹に宿った尊い「命」を守ろうと、強く誓いました。

ーー 仕事も含め、出産までの経過についてお聞かせください。

出産予定日の2ヶ月前から産休を取得しました。そして、産休初日から病院に入院します。職場の病院に入院したため、知り合いに囲まれての入院生活となりました。出産までの入院生活は、赤ちゃんに栄養がいくようになるべく安静に過ごして欲しいとのことだったので、あまり動かないように大人しく過ごします。

職場の仲間が頻繁に会いに来てくれたので比較的穏やかに過ごせましたが、家にいる2歳の長男や家族のことが気がかりでなりません。「ファミリーサポート」という行政がやっている割と低価格の預かり支援を利用しながら、家事は夫が頑張ってくれました。ファミリーサポートはどの地域にもあると思うので、育児で困っている方は調べてみると良いかもしれません。

入院して1ヶ月後、1500g程度まで大きくなっていることが確認されたため帝王切開で出産することになりました。

生まれた瞬間、元気なうぶ声をあげてくれたのでとても安心したのを覚えています。新生児科の先生が、ほっぺに次男を当ててくれて、その温かさと感触に、命の強さを感じて胸がいっぱいになりました。次男は、その後すぐにNICU(新生児特定集中治療室)へ運ばれます。ファロー四徴症の確定診断がつき、呼吸状態が悪かったため数日間人工呼吸器を使用することになりました。

次の日会いに行った時、1500gの割には結構まるまるとして元気そうだなと安心した覚えがあります。人工呼吸器は数日で外れました。NICUで検査していく中で、難聴や肛門狭窄、停留精巣など、複数の病気や障がいがあることも判明します。

NICUで約1週間管理され、私は一旦退院。その後、次男だけGCU(新生児回復室)へ移動し、約2ヶ月間入院生活を送ることになります。その間、私は毎日家から通院しました。

退院直前には、医療的ケア(心臓の病気からチアノーゼになるため酸素の管理や、肛門狭窄に関するケア)を習得するため、小児科病棟に2泊3日で母子入院をしました。そして、念願の自宅退院となります。


退院後の新たな生活

ーー 次男さんと一緒に退院された後の自宅生活は、いかがでしたか?

とにかく毎日が不安との闘いでした。心臓の影響で酸素が全身に行き渡りにくいため、常時3Lの酸素を吸っていました。それでも、良い時でSpO2 80%台、悪い時は50%台まで低下します。(SpO2:経皮的動脈血酸素飽和度、正常値は96~99%)

モニターで管理しているのですが、下がる度にアラームが頻回に鳴るのです。いつの間にか心臓が止まって死んでいたらどうしようかと、夜も眠れぬ日々が続きました。ただでさえ顔色が悪いので、夜は余計に不安になります。


ーー 次男さんを連れて外出できるようになったのは、いつ頃からですか?

長男の子ども園への送迎などもあったため、生後3〜4ヶ月の頃には外に出ていたと思います。ベビーカーと携帯用の酸素ボンベを持っての外出です。子どもと酸素を抱えているので、「病気の子を連れているお母さん」という感じで周りからは見られていたと思います。

周りの目は結構気になりました。スーパーに行くと、私が疲れた顔をしていたせいか宗教系の勧誘が増えるなど、いろんな意味で今までにない経験をするようになります。「私たちって特別に見えるのかな!?」と思うようになりました。

ーー「特別に見える」ことや「障がい」について、当時のパルタンさんはどのように考え、向き合われていましたか?

長男の子ども園の送迎に連れて行くようになり、「耳の機械(補聴器)はなあに?」「なぜ目が小さいの?」など、次男に対してお友達から色々と質問されるようになりました。この頃から、「障がいについて知ってもらう必要がある」と感じるようになります。

まずは身近なところから認知してもらおうと行動を開始。育休中に積極的にママ友を作り、生後7ヵ月くらいからは次男を連れて遊びに行くようになりました。もちろん体調の良い時しか行けませんが、みんな当たり前に優しく接してくれ、体調もすごく気遣ってくれたので、非常に良い時間を過ごすことができました。

私は、「どんな人でも(障がいがあってもなくても)1人の人として尊重され生きていける社会」を望みます。誰もが自分を誇りに思える、笑って過ごせる毎日であれば良いなと。

社会の皆さんの、障がいがある方への視線は色々だと感じます。温かく優しい眼差し、自分とは異なる人、かわいそう、理解できなくて少し怖い、などなど。でも、次男を育てる中で分かったのは、知ってもらうことの大切さです。私たちを知って下さっている人たちは、皆さんとても温かくフランクだったのです。障がいがある方が、地域に溶け込めるような環境作りが大切だと感じています。

「元気に生まれていたら」「一般的な成長発達を遂げていたら」どんな姿だったのかなと考えたこともありました。でも、次男の子育て7年目の今、私は大きな病や障害と向き合う日々の彼を、心から愛おしく、尊敬しています。彼は彼でしかない、周りの誰とも違う私の大切な息子です。

彼を育てる中で出会った障がいや病気を持ちながらも力強く頑張っている多くの子どもたちの姿には、たくさんの勇気ををもらい、考えさせられ、この子達の明るい未来を支えたいと思うようにもなりました。

迷いながらの子育ての日々ですが、強い気持ちを持って、社会が良い方向に向かうお手伝いを、いろんな形でしていければと考えています。

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(パルタンさんと次男さん)


二度目の絶望は突然に

ーー 次男さんは心臓の影響で常に酸素が必要だったとのことですが、心臓の治療に関してはどのような経過で進んでいったのでしょうか?

心臓に関しては、2回手術をしました。1回目は生後6ヶ月の時に血管のシャント術、2回目は生後1歳半の時に根治術として4箇所くらいを一気に治す手術を受けました。しかし、2回目の手術の時に、思いもよらぬ悲劇が起きます。

手術が終わって抜管(人工呼吸器を外すこと)をしても、なかなか意識が戻らないのです。一人で息ができず再度人工呼吸器が装着されます。痙攣も起こしていました。心臓の術後でペースメーカーが入っていたため、MRIもすぐには撮れない(頭の検査ができない)状況。意識が悪いままICUで時間だけが過ぎてゆきます。

その後、心臓の状態が落ち着いたタイミングで小児科病棟へ移動しました。そこからは母子入院の始まりです。ようやくペースメーカーが外れ頭部MRIを撮影したところ、なんと、原因不明の「低酸素脳症による脳萎縮」がおこっていました。

元気に手術に向かったはずの息子が、今、目の前にお人形みたいになって眠っています。瞬きするだけの我が子を見て、振り出しに戻った気がしてとても悲しくなりました。この時が、私の人生の最大の絶望期だったと思います。私は塞ぎ込み、体重は5〜6kg減少しました。


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(長男さんと次男さんとパルタンさん)


その後、次男は少しずつ元気になっていきました。食事ができるようになり、表情も少しずつ出るようになったのです。次男の頑張る姿を見て「私も頑張ろう」と思えました。結局、2回目の手術後は3カ月間の入院となりました。家族もバラバラとなり本当に大変でしたが、「離れているからこそ支え合い、家族が一丸となって乗り越えた」そんなことを強く実感した期間となります。

次男は、退院する頃には笑顔がでるようになり、手足もバタバタできるようになっていました。仲の良いスタッフや友人もあの手この手で私を励ましてくれたので、本当に恵まれた療養環境だったなと感じます。



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ここからは、「仕事とケアの両立」や「自分らしい暮らしのコツ」についてお話を伺っていきます。


看護師という仕事について

ーー 次男さんの育児やケアと仕事の両立は、どのようにされていましたか?

私は、もの心ついた頃から、母に「女性も自立した人生を送るべき」と言われながら育ち、結婚や出産後も仕事を継続する気持ちでこの仕事についたので、仕事を辞めるという選択肢が頭の中にはあまりありませんでした。

しかし、2回目の心臓手術を終え、次男の発達を促すために親子通園の療育園に入園した時には、育休終了が半年に迫っている状況でした。半年後には保育園に入れて仕事に復帰するつもりでいましたが、次男の成長発達の状況や体調の不安定さを考えると、かなり厳しさを感じ始めます。

職場は、育児制度が従実していて時間短縮勤務を選択することもできましたが、週に3〜4日勤務して、週に3〜4日療育園に通う生活は、2人の子育てをしていた私の体調やメンタルコントロールを考えると現実的ではなく、結局退職という選択をしました。

職場である病院には一生働くつもりでいたし、これまで真面目に働いてきて信頼もそこそこ築いてきたつもりでした。そのため、リセットするのは非常に辛かったです。ですが、親子通園を通して次男が育つ姿を間近で見ることができ、ゆとりを持って関われたので今では良い選択だったかなと思っています。

ーー 最初の病院を退職をされてからは、お仕事自体、しばらくはされなかったのですか?

社会に居続けたい気持ちが強かったので、退職して療育園に通う日々を過ごす中で、次第にモヤモヤとした気持ちが募ってきます。療育園通園と並行して、重症児デイサービスに時々次男を預け、看護協会が行っていた訪問看護ステーションでの研修に参加しました。次男も訪問リハビリを受けており、地域の生活を支える分野に興味があったのが受講の動機です。地域で暮らす色んな方々の生活を見させていただく中で、さらに興味がわいてきました。

研修先のステーションの所長が、私の生活背景を知ってくださった上で「働いてみないか」と声をかけてくださり、次男が3歳を過ぎた頃、小さな社会復帰を遂げます。

週に1回、お手伝い程度ではありましたが、社会参加できることがとても嬉しくて、子育ての張りにもなりました。もっと働きたいという気持ちも膨らみましたが、子育てのためにと退職を決めた気持ちを大切に、まずは子どもたちをしっかり育てることに。現在は次男も成長し特別支援学校に通うようになったので、仕事は週に3〜4回に増やし、残りの日を次男のリハビリや受診に使っています。

仕事では、高齢者からお子さんまで色々な方との出会いがあり、多くのことを教えていただく毎日です。私自身が次男を育てる中で経験した事や感じてきた事は、頑張っておられる皆さまに寄り添う際にとても活かされています。

私らしく過ごすコツ

ーー パルタンさんが「自分らしく暮らす」ために意識して行っていることや、大事にしていることなどあれば教えてください。

次男は重度の知的障がいがあり、食事・排泄・更衣など日常生活全般に支援が必要です。さらに、コミュニケーションの難しさによる癇癪などもあり、家では常に次男の支援をしています。看護師としての仕事と重なる面もあり、プライベートと仕事の垣根を見失いそうになることはあります(笑)

さらに、昨今の感染症で公私共に緊張した生活を送っているので疲れは溜まりやすい状況です。なので、疲れを取るために、たまにはお酒を飲んで気分転換したり、YouTubeでヨガや筋トレ動画を見ながら汗を流したりしています。

その他、子ども達が眠った後にネットフリックスで映画や韓国ドラマを見るなどして違う世界観に触れ、自分のご機嫌をとっています。また、休みの日には家族でキャンプに行くこともあります。


ーー最後に、今後に思い描くことがあれば教えてください。

今後は、仕事はもちろん続けながら、まだまだ充実していない「障がいがある方の明るく楽しい未来作り」のために、微力ながらできることは何か思案する日々です。

障がいを持っている方が安心して過ごせる場所や、社会に出られるような環境を作るお手伝いが出来ればと考えています。また、障がい児の親が、望む形で働ける社会になるよう、働く親の視点で声をあげていきたいです。

一筋縄ではいかないことが多いと思いますが、当事者だからこそ分かる気持ちや課題を深掘りし、より良い未来を築いていきたいです。


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(貴重な経験と熱い思いを語ってくれたパルタンさんと次男さん)


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以上、本日はファロー四徴症という心臓の病気や複数の障がいを持って生まれたお子さんのお母さん「パルタン星人」さんに、ケアと仕事に関するお話を伺いました。

パルタンさんの貴重な声や熱い思いが、一人でも多くの方に届くことを願います。


パルタンさん、本日はありがとうございました。


ケアマガ
介護webマガジン「ケアマガ」では、それぞれの立場で体験した介護者の想い、記憶、経験などを当事者の方が綴っています。また、当事者の方をケアマガ編集部がインタビューをし、想いに迫ります。ケアに関わる方やこれからケアをする方の励みとなり、そして、灯火となりますように。


【取材・文=河村由実子】

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