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無題 (1)

家とおぼしき場所を見つけると、まずは下を向け。

意識的にマンホールを探す。そこから立ち込める下水の匂いの濃淡がその土地を象徴する唯一のものだ。特別誰かから教わった訳ではない。ただ少し人より敏感な嗅覚と、今までの日々が作り上げた経験によるものだ。

排気ガスと細かい塵のような埃が混じった灰褐色の木枯らし一号は、クリアに視界に捉えることが出来そうなほどに澱んでいる。ぴゅうっと、黒崎の痩せこけた頬を風が切りつけた。太陽も雲も何も見えない。なのに、風だけは上から横からと吹き付けられる。もはや排気ガスと風も殆ど変わりは無いのだが、頬を叩く寒風を感じる度に、今は生きているんだと強く感じることができる。黒崎はふと首が凝り固まっていることに気付き、腕と共に上へ伸びをする。視界が薄汚れた橙色の毛布から、灰色の巨大なコンクリートの塊へ。惰眠から目覚めたばかりの乾燥した目をこすってみても変わらない。どんなに目を凝らしてもはるか上にある首都高速道路が見えるだけだ。

頭上から10メートル程上空の首都高を大きく左にカーブする真下、そこに黒崎の「家」はある。家のすぐ横には都心へと続く六車線の道路が伸びており、毎日ひっきりなしに車が行き交っている。首都高と一般道路を上下で繋ぐ大きな支柱は、規則的に道路に沿って並んでいて、終わりは見えず延々に続いているようだ。そこに大人5人が手を伸ばしても囲みきれない程に太いその支柱が根差している。この支柱とリヤカーの荷台部分を麻縄で何重にもくくり付けて出来る約3畳分の場所を「家」と名乗り、3度目の秋が来る。

昨日よりも少し肌寒く感じる所為だろうか、いつもよりも深く眠ってしまったようだ。気付けば夕日は影を落としており、道路照明灯に真っ白の光が灯っている。すぐ傍の道路横には、タクシーの運転手達が縦一列にタクシーを止めて休憩がてらに一服しているのが視界に入った。陽が沈んで夜も更けると、この場所に突如現れるのが、彼らの日課だ。夜になると集まるなんて、まるでゾンビのようだ。だが、そこにはホラーとは程遠い柔和な空気感が包んでいる。各々が顔見知りだと気づいたのは、この光景を見慣れた頃だった。会社の垣根を超えて談笑している背広を着た男達の姿を見ていると、当初は何とも言い難い刹那がよぎっていた。働く男は、今の自分とは無縁の人種。もうかつての父親の陽炎ではない、と何度も言い聞かせてきた。理性と感情を上手に連携させて、意識を起こす。暖かな煙草のオレンジ色の炎があちらこちらで弛んでいる。

「やっぱり、少し寒いな。」

自分でも聞こえない程に小さな声で一人ごちた。ふう、と無意識に溜息をついて1着しか持っていない上着である頂き物の黒いジャンパーに手を伸ばす。他に暖めてくれるものは周りにはない。季節や天気だけは誰にでも平等に訪れることを恨むのは、卑屈なんかじゃないだろう。それ程に服装は、我々にとって死活問題だ。毎年ボランティア団体の人間が季節の変わり目になると大量の服が入った段ボールを担いで来るのだが、結局はいつも何も選べずにいる。着古したこのジャンパーを一年中、片手に携えている。昔からおもちゃや欲しいものを選べない子供だったような気もするが、、もうはっきりとは思い出せない。秋が一番好きだった幼い頃の自分はもう居ない。

PM22:53。今日は少し予定より遅くなってしまったが、今からが黒崎の一日における二度目の活動時間だ。重い腰を上げて、道路を挟んで向かい側の通りにある「光ボクシング」へと、ゆっくりと足を進める。調子が良いときは、徒歩3分も掛からない。ただし目の前の道路は、六車線もあるため信号の待ち時間も長く、ここに引っ掛かると厄介だ。今日は何ともツイてない。

光ボクシングはもう誰もいないようだった。正面はガラス張りになっており、何十年前に書かれたであろう赤色と青色のゴシック体の「光ボクシング」という看板の文字は、積年の太陽光で全体的に色褪せており雑然とした雰囲気を醸し出している。路面に面しているため、誰でも気軽に見学できるようにというのが当初の狙いだったのであろう。その狙い通り、外からは中央に鎮座したリングを囲むように、色鮮やかなサンドバッグやパンチングボールが何個も見える。全景が一目で分かるくらい小さなジムだ。ただ、個人経営で小規模ながらも熱狂的な活気が包んでいる。入口に貼られた「どんな方でもどうぞ。」という紙がまるで全てを物語っているかのように、少年院帰りの子達が多く在籍している。スパーリングはまるでトレーナーが生徒一人一人に対し愛の施しを与えているかのようにも見える。雨が降ろうが、雪が積もろうが、365日毎日飽きることなく、黒崎はこの場所で彼らを傍観し続けてきた。

リング奥の壁に高く掛けられた木目の時計の針が23時に触れかけた頃。いつも深夜まで明かりがついているのに、閑散としているなんて珍しい事もあるもんだなと思いつつ、ボンヤリと正面ガラスの前に立つ。深夜のボクサー達が放つ立ち込める熱い蒸気は消え失せ、かつて夜の小学校に忍び込んだ時によく似た深い藍色の静かな空気だけが揺れている。

「またお前はそんなじっと見て、疲れへんのか?」
突然、背後から聞き馴染みある声が降ってきた。

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