民主主義は無条件に正しい価値基準ではないという話

今回から数回、「田舎の牢獄」とは一見関係なさげな話をしますが、最終的には関係がわかるのでしばらく我慢しておつきあいください。

民主主義! というと何か無条件で真であり善であり守られるべきものであるというように考えがちですが、世界にはそう考えない人々が相当数存在します。

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引用文の出典は飯山陽(イスラム思想研究者)著の「イスラム教の論理」です。

いわゆる西欧民主主義国でも日本でも「信教の自由」は少なくともタテマエ上は「当然」の大前提ですが「イスラム圏に信教の自由は存在しない」「イスラム教は、宗教というよりは民主主義と対立する価値基準として認識した方が理解しやすい」というわけです。

こういうことを書くと「それは一部の過激派の主張であって、真のイスラムではない」とか「イスラムは本来は寛容な宗教である」とか、逆に「西欧的価値観を無条件に正しいとする西欧至上主義的なものの見方だ」とかのさまざまなリアクションがありますが、少なくとも

民主主義を当然に価値あるものとは考えない勢力が多少なりとも存在する

ということは認めましょう。それが地球上で1万人なのか1000万人なのか10億人なのかという議論はあっても、ゼロではありません。

ゼロではないのには何か理由があるはずです。彼らはなぜそのように考えるのでしょうか? ここでわりとありがちなのが「遅れているからだ」という発想です。

「かつての社会では権力は一部の王侯貴族に独占されていた。それが市民革命を経て「民衆」が力を持つ民主主義社会へと進化した。それはより良い方向への進化であり、どのような社会もいずれこの道をたどるのだ。今だに民主主義を実現していない国々は遅れているのであり、先んじて民主主義を実現した我々先進国は送れた国々へ民主主義を教え花咲かせなければならない」

という感じの発想です。大航海時代の宣教師はキリスト教を布教するにあたって似たような論理を用いていましたが、それが「民主主義」に代ったものと考えればほぼ同じ構造です。

余談ですがこの論理の変形に、「日本には本当の民主主義はない」というものがあります。理由は、「日本では市民革命(イギリスの清教徒革命・名誉革命、アメリカ独立戦争、フランス革命)が起きず、民主主義は第二次大戦後に外圧で与えられたものだからだ」というわけです。

この発想の奥底には「世界の歴史は1つの理想形に向かって進んでいく」という無前提の思い込みがあります。だから、「市民革命がなかった日本には本当の民主主義はない」という日本disりでメシを食う評論家がいる一方で、「では日本に市民革命を起こせば良いではないか」と考えたのが共産党およびそこから分派した新左翼の系譜でした。ちなみに私が子供の頃、日本共産党の機関紙ではよく「共産主義は民主主義よりも進化した最も先進的な政治形態であり、(ある程度は)民主主義が実現している日本でこそ真の共産主義を実現しやすい」・・・という感じの論説を見かけたものです。世界に共産主義を輸出しようとしたコミンテルン、国際共産主義運動などもやはりキリスト教の宣教と似た構造ですね。

ところが、現実の民主主義というのはそんな普遍的な価値などではありません。ヨーロッパと日本の地理的特徴および気象条件が重なってたまたま成立した社会思想なのです。それを自覚しておかないと、今後の国際政治動向を読み誤るでしょう。

そこで次は、「ヨーロッパと日本で民主主義が成立したのはなぜか?」と問わなければなりません。

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