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なぜ日本とヨーロッパでは民主主義が成立したのか?

ヨーロッパと日本で民主主義が成立したのはなぜでしょうか?

モデル化して考えましょう。ある地域に大集団A、Bがあり、そこから少し離れたところに小集団(村ですね)C、Dがあったとします。AとBは離れているがCとDは近い位置にあり、CとDが共通に利用する入会地があるため、しばしば紛争が起きると考えてください。「入会地(いりあいち)」というのは薪炭や肥料の採取目的で複数の人や組織により共用される土地のことで、「おじいさんが山へ柴刈りに」行く山をイメージしてもらうと良いでしょう。

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入会地は共用の土地なので、度が過ぎると「西の村の奴ら、好き放題に使いやがって」と東の村が不満に思ったり、当然その逆もあったりという形でしばしば紛争が起きます。

紛争、といいつつその実態は「戦争」です。戦国時代までの中世日本では「自力救済」が原則でしたから、村の権利が他村に侵害されたときは「武器をとって戦う」のが当然でした。
そんなときにC、D村はそれぞれ手近な大集団であるA、Bに加勢を求めます。こうして複数の村が連合を組んで戦うのが中世日本の常態だった、という話を知りたい方はぜひこの本を読んでください。

さて、そういうことを繰り返していると自然にゆるやかな同盟関係ができます。互いに力を貸し合う複数の村のうちの有力な者が盟主となってC村はA同盟に属し、D村はB同盟に属す、という形になるわけです。

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さてここでもしB同盟側の盟主であるB村が自分たちに比べれば格下の小集団だからとD村を粗略に扱ったらどうなるでしょうか?

誇りを傷つけられた人間は損得を度外視して行動します。「Bの奴ら、わしらをバカにしおって、アタマに来た。わしらはAの側につく!」と、A同盟への寝返りをされてしまうんですね。

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そうするとA同盟とB同盟の力関係のバランスが崩れ、B同盟が劣勢に立たされ、AがBへ攻勢をかけられるようになる、という事態が起こります。

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たとえば一般には「義の武将」として知られる上杉謙信は、関東の北条氏に圧迫された弱小勢力からの救援要請を受けて度々関東に侵攻しています。

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出典:百姓から見た戦国大名

ここだけ読むと、「北条氏に追い詰められた小勢力を救援」するという「義」にもとづく行動のようにも見えますが、一方で

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出典:百姓から見た戦国大名

「謙信の軍勢は関東になだれ込んで掠奪を繰り広げた」のも事実なわけです。もちろん、だからといって謙信は実は悪大名だったというような話じゃありません。当時はそういう時代だったというだけです。

ところが「そういう時代」も長く続くとだんだん変わっていきます。周辺の小勢力を粗略に扱うとこういう事態を招いてしまう、ということをやがて教訓として理解し始めた戦国大名は、それぞれの統治領域内を公平に扱い、生存を保障し、誇りを尊重するという政治を敷くようになりました。

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出典:百姓から見た戦国大名

そうすれば村々は離反せず、平和が保たれるというわけです。

さてここでもう一度

それぞれの統治領域内を公平に扱い、生存を保障し、誇りを尊重する

ということの意味を考えると、要するに

家中の合議を重んじる(独裁は行わない)

ということになり、そのまま民主主義に通じる思想だと言えませんか?

近年の日本史研究の成果によって、従来は「革新的」「専制君主的」と一般には思われていた織田信長についても、現在では実は「家中の合議を重んじ、世間の評判を気にする普通の戦国大名だった」という説が主流です。それに続く秀吉・家康および徳川幕府の体制も「公平・公正」であることを非常に重視していたことが近年明らかになっています。

これが日本の民主主義の源流の1つであり、統治の必要に迫られて江戸時代にはすでにそうした社会思想が一般化していたわけです。だからこそ明治維新を経て議会を設立し選挙制度を導入するのもスムーズに運んだと考えられます。

さて、ここでもう一度「入会地」をめぐる紛争」のモデルに戻ります。
C、D村の紛争が周辺の諸勢力を巻き込んだ戦いになり、しかもそれが終わらず、やがて「民主的な社会思想」を生んでいくためには、ある条件が必要です。それはその地域が「複雑な地形を背後にモザイク状に密集する小集団」という構造になっていることです。

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★狭い地域に密集しているので接触があります。
★共通の入会地から得られる資源に生存を頼っているので、紛争が起きます。
★しかし、複雑な地形のためどちらも相手方を皆殺しにはできません。

実際、関東を制圧した北条家も弱小勢力を完全には駆逐できず、残存勢力を通じた上杉謙信の侵攻を招きました。

だから、どこかで手を打つ必要があるわけです。これからも戦争を続けるぐらいなら、過去のことは水に流して手打ちにしよう。ということです。

そうして、「小勢力が密集して共存」する体制を作っていったのが日本の政治風土の特徴であり、この構造は実はヨーロッパでも同じでした。小邦分立、全域をまたぐ「権威」の存在、封建領主制など、日本とヨーロッパの政治機構に妙に似たところがあるのは、理由あってのことなのです。

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