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ミサキ信仰について

ミサキという存在

供え物とミサキ

 お供え物には様々なものがあり、供える対象も多様である。神事で神社に奉納される供物や道端の地蔵に手向けられる花、死者のために仏前へ供えるご飯などがある。食べ物の場合は長く供えておくと腐ったり外にあると動物に食べられてしまう。

岡山市 布勢神社
岡山市 富沢神社

 動物に食べられた場合、人々はその動物を神の使いのミサキであるとして喜ぶ。例えばこれ系の話題では必ず話題に挙げられる福井県のニソの森では供物が食べられると「ネがあがった」と言い、岡山市の深田神社でも供物をミサキに食べてもらう神事がある。食べに来るのはイタチやネコなどだが最も多いのは鳥類である。深田神社では拝殿の屋根に置かれた供物を「オドクウ様」と呼ばれる鳥がとると「おめでとうございます」と言って祭りに移るという。

恐ろしいミサキ

 しかし、ミサキが神の使いであるならば、当然恐ろしい祟り神にもミサキが存在しているのであり、祟り神のミサキとされる動物が現れると良くないことが起こると言われる。ヤブ神と呼ばれる祟り神の、ミサキであるオツカイシメが鳴くと良くないことが起こるなどと言われた。ヤブ神の宿る木を切ろうとするとオツカイシメが鳴き、一家に不幸があったという話がよく残されている。(大正頃まで)
 するとミサキの存在自体が脅威の象徴となる。不幸な死を遂げたもの、何らかの事故で天寿を全う出来なかったものはミサキとなって死後祟ると恐れられた。高梁川流域では水による死者が出るとミサキとして祀る。

総社市水内地区

 さらに、ミサキが憑くとミサキ狂いと言って錯乱状態になりタヒんでしまうとまで言われた。

 しかし、ミサキと称されるもので最も恐れられ、古い記録のあるものは吉備津彦神社の艮御崎だろう。艮御崎は温羅の魂とされることもあり、吉備津彦神社の北東(艮)の方角にある小さな高まりの上に祀られている。この高まりの土は取ってはならないとされ、「山土取べからず」の石が立てられている。

山土取ベカラズ

 この艮御崎は平安時代末期に後白河法皇によって編まれた『梁塵秘抄』にも登場する。

一品聖霊吉備津宮、新宮本宮内の宮、隼人崎、北や南の神客人、艮御崎は恐ろしや

『梁塵秘抄』

恐ろしくないミサキ

 一方でミサキに対してそのような恐ろしい印象がない地域もある。牛窓町などでは一般的に言う餓鬼仏・オショライさん、つまり自分の先祖以外の無縁霊をミサキと呼んで祀っている。自分の墓地の区画内に自然石ないし小さな10cm程度のミニチュアの墓石ないし自然石を設けそこに祀っている。お墓参りの時は必ずそこにも供え物をするという。当然お盆には水棚を作りミサキ専用の供物を用意する。

ミサキの認識

江戸時代のミサキに対する認識

 このようにミサキという存在は、場所や場合によってさまざまな認識が持たれている。それらは一つで言い表すにはあまりに多様で、同じ呼び名の異なる信仰と言っても過言ではない。
 新見市の藤木神社の由緒からは、江戸時代の人々のミサキに対する捉え方がわかる。

天正年間、藤木佐馬之介という修験者が阿弥陀堂にいた。横を流れる高梁川は度々氾濫を起こし人々に甚大な被害を与えていた。そこで佐馬之介は流れを変える工事を行い、更に庚申嶽と呼ばれる突き出た岩を壊そうと計画した。しかし、工事中に庚申嶽の破片が佐馬之介の頭上に落ちて佐馬之介は死んでしまった。村人は工事を中止し、佐馬之介を「藤木御崎」として嶽の中腹に祀ることにした。佐馬之介に落ちた岩は仏ヶ嶽と呼ばれて誰も近づこうとしなかった。その後、時々その仏ヶ嶽の前で難破する船が出た。人々はそれを御崎の下馬落と呼んだ。そのため正徳年間に庚申嶽より約100m上の位置に移転した。

『阿哲郡誌』より要約

 戦国時代の天正年間に不慮の事故で亡くなった佐馬之介を御崎として祀った事例である。注目すべきは
・死亡後すぐさまミサキとして祀られている
・ミサキを祀った場所ではなく佐馬之介に落ちた岩が恐れられている
・祟りを鎮めるためにミサキを移動させている
という点である。

新見市 藤木神社

 佐馬之介が祟りを起こすのを待たずにすぐさまミサキとして祀っている。これは同様の事例が確認でき、上房郡では死に方が酷かったある者をミサキとして祀るように村長から遺族に助言をしている。つまり、祟りそうな、障りがありそうな死者はミサキとして祀られている。これには他に水死者を祀る水ミサキ、流れミサキや自殺者を祀る縄ミサキなどがある。
 岡山県内の他の地域での修験者や神職を祀るミサキには同じように祟る性質が付随している場合が多いが、対照的に祈れば種々の霊験があるとも言われる。
 仏ヶ嶽に近づく者がいないのは近づくと祟りがあると考えられているからで、その後の仏ヶ嶽の前を通った船が難船していることも祟りを連想させている。実際のところ現地はかなりの急流で、川が大きく蛇行する地点であるため川下りでは間違いなく難所のひとつである。しかし、この事故を人々は「御崎の下馬落」と呼んでいる。仏ヶ嶽はあくまで祟りを起こしている地点であって、祟りを起こしているのは藤木御崎という存在なのだ。そこで人々がとった手段がミサキを仏ヶ嶽から離すということになる。距離があれば与える影響が少なくなると思われていたかもしれない。

但し、この時代のミサキに対する認識を考えるうえで重要な資料であることは間違いないが、この伝承が完全な真実を伝えているものとは考え難い。伝承の経過で脚色や改変があればその時代の認識の影響を考慮する必要がある。
 そして、現地の藤木神社があるすぐ近くの石蟹山城は16世紀後半ごろに三村氏が在城していたとされ、左馬之介の存在や関係性を考えさせられる。

参考文献

  • 岡山民俗学会(1975)『岡山民俗事典』日本文教出版社

  • 植木朝子 訳(2014)『梁塵秘抄』ちくま学芸文庫

  • 三浦秀宥(1982)「岡山県のミサキ」『瀬戸内海研究』第一巻 第11号

  • 阿哲郡教育會(1929)『阿哲郡誌』