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ポストジェンダリズムを求める気持ち

実は、ここ数年ジェンダーについて改めて考えている。端的に言ってしまうと、ジェンダー論というか少なくともフェミニズムはその社会的役割を終えたと考えている。(これ現役の人には怒られるんだろうな。多分。)

早いうちに誤解のないように言っておくと、フェミニスト、ジェンダリスト、その他性差別に立ち向かう人たちには、純粋に敬意を感じている。その活動・活躍はとても意義があったと思うし、そのおかげで世界はアップデートされたと思っている。ただ、女性学そのもののアップデートもそろそろ必要な時期に来ていると思っているだけだ。

2014年。エマ・ワトソンが国連でスピーチした内容は、あらゆる人が耳を傾けるべきメッセージだと思う。


1960年代のウーマンリブに端を発し、数多くの女性が尽力・活躍してきたフェミニズム活動。極端な要約をすると「私たち女性の扱い低すぎない?」という訴えだ。僕が思うフェミニズムの最大の功績は、差別の顕在性を明らかにしたこと。それまで人種や国籍といったある意味ソーシャルな文脈のもとで語られることの多かった差別が、実は性別といった当たり前の日常の中にも顕在していることを訴えたその活動は無上の価値がある。

そこから女性の権利回復活動としてのフェミニズムが発展し、時代を経てジェンダーの概念を獲得する。誤解されがちだが、ジェンダーとは「社会的性役割」のことで、何も女性に限ったことではない。「涙もろいなんて男らしくない」「女の子のくせに可愛げがない」「ランドセルは男の子は黒や紺、女子は赤かピンク」みたいな、性別を理由に根拠のない社会的価値観に縛られている状況を指摘した概念だ。

多少、余談にはなるが僕自身、ジェンダーの縛りがないとは言わない。男らしいふるまいをしたいと無意識に思っている節はあるし、女々しいと言われればいくらかムッとすることもある。ただ同時に、それらの感情の出所が性別とは別次元にあるものだと感じている。

とてもささやかな経験だが、それを自認したきっかけは「かわいい」だ。僕自身、比較的母親とは仲が良いほうだと思う。価値観も近く、特に子供のころは母のセンスを吸収して育ってきた。(親父が少々変わり者で参考にしづらかったのもある。といいつつ、年々父親に似てきている自覚があるのが悩ましいところだが。)なので、割とかわいいものは好きだし、普段身の回りに使うものもいわゆる男の子的なカッコいいものというより、かわいさ重視の傾向がある。ただ、ずっとこれを公言できなかった。要は「これかわいい」という一言が言えなかった。

きっかけは多分、学部時代に受講したジェンダー論の講義だったと思う。ジェンダーの概念を知って、「あれ?"かわいい"って言えないのおかしくね?」と思ったからだ。なんか変だなと。素直に言えばいいじゃないかと。そう思って、「かわいい」を意識的に口にするようにした。初めは照れもあったが、言い続けているうちに「楽っ!」ってなった。ジェンダーの縛りを1つ抜け出した瞬間だと思う。今では同僚の服やアクセを「それめっちゃかわいいやん!」とか普通に言っている。(このご時世、セクハラ認定されないかドキドキすることはあるけどw)

そういったジェンダーの無意識化の圧力を認知したからこそ、女だからとか、男だからとか、あるいはLGBTだからって話は極端なまでに興味がない。心底どうでもいいと思っている。そいつが面白いかどうか、人間的に好めるかどうか、信頼できるかどうか、それ以外に何が必要なのかまったくわからない。「男(女)らしさ」ってなにさ?「自分らしさ」「その人らしさ」いがいの「らしさ」って、いらなくない?

だからこそ、フェミニズムは役割を終えたと思っている。その女性差別が社会的に認知された今、「女性」というカテゴリーにこだわる限りは、対男性、対他性という構図にならざるを得ない。だって、少なくとも現代日本において女性は一大マーケットなわけで、各種女性向けサービスや商品が整いつつあるわけで、「女性が虐げられている」という言説はある条件下においては間違いのない真実ではあるけれど、結局のところ女性と男性どっちが不利かみたいなチキンレースにしかならないとは思いませんか?その先には、男女がお互いに平等に不利な社会の在り方しか僕には想像できないし、それは社会のダウングレードという外ないだろう。

二項対立に持ち込む戦略は、プロパガンダ初期には有効だけれども、長期的戦略としては悪手だ。それを続ける限り、その先にあるのは焦土戦しかかなく、全く生産的ではない。ましてや今はLGBT等々を含めたダイバシティ(多様性)の時代だ。男性 vs 女性 vs L vs B vs G vs T vs・・・で第三次世界大戦でも始めるつもりですかと。


というわけで、もうやめましょう。男性が女性を搾取する社会構造は過去の歴史上確かにありました。そのいくつかは、皆さんの活動によって前進し、いくつかは今も続いています。そこは疑いようのない事実でこれからの課題です。でももはや様々な性多様性が社会に認知され、受け入れを検討し始めている段階で、いままでの対立構造を引きずったところで、もう世の中はアップデートされないと思いませんか?むしろ性的趣向や性自認を含めたあらゆる性差別に立ち向かう意思こそが、これから社会、女性学のアップデートに必要な要素ではないでしょうか?

「フェミニストの皆さん、ジェンダリストの皆さん、今まで長い長い闘いお疲れさまでした。皆さんの活動を糧に、これからはあらゆる人々が自分らしく生きていける権利を獲得するために、さらにもう1段階社会をアップデートしていきましょう。」
そんな風にいつか言えたらいいなと思うし、是非とも誰かに言って欲しい。

だからこそ、リブ→フェミ→ジェンダーという流れの先のポストジェンダリズムを切望している。それは、皆が幸せに生きるために必要な鍵の一つだと信じているから。

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