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「断絶への航海」とユートピア

昔から個人的に提唱している「文明指数」というものがある。「全活動時間」のうち、「必要に迫られて行う作業時間」の割合で定義される。エンゲル係数のように、低いほど文明レベルが高い。「必要に迫られて行う作業時間」は、収入を得るための仕事の他、通勤や掃除、ゴミ捨て、炊事、洗濯等、「やりたくないけどやらなきゃいけないこと」全てを含む。しばらく前に「シンギュラリティ」みたいな言葉が流行って、「AIが人類の仕事を奪う」みたいなことが盛んに喧伝されたが、未だにAIはゴミの分別一つしてくれない。で、そんなことをTwitterで書いてたら、ふと、「文明指数がゼロ」、つまり「生産活動その他全てをロボットがやってくれる理想郷」を描いたSFを思い出した。J. P. ホーガンの「断絶への航海」だ。

J. P. ホーガンと言えば、「星を継ぐもの」シリーズが有名だが、「断絶への航海」も根強い人気がある(ただし、人を選ぶと思う)。僕が読んだのは20年以上前で、いま現物が無いままこの記事を書いているので、以下の記述には記憶違いがあるかもしれない。

「断絶への航海」はこんな話である。

第三次世界大戦の傷もようやく癒えた2040年、アルファ・ケンタウリから通信が届いた。大戦直前に出発した移民船〈クヮン・イン〉が植民に適した惑星を発見、豊富な資源を利用して理想郷建設に着手したというのだ。この朗報を受け、〈メイフラワー二世〉が建造され、惑星ケイロンめざして旅立った。だが彼らを待っていたのは、地球とはあまりにも異質な社会だった……

先に地球を出発していた移民船は、惑星ケイロンにおいて非常に安価な物質製造技術とエネルギー生成技術を手に入れる。生活に必要なものは全てロボットが生産してくれるので、ケイロン人は毎日好きなことをしており、文明指数はゼロである。全てのものがノーコストで手に入るため、個人所有の財産や通貨が意味を持たない。そこで、彼らは「人々から得られる尊敬」を通貨の代わりにする。音楽が得意なものは音楽で人を楽しませ、狩猟が得意なものは狩猟を行う。こうして人々から得られた敬意により、自分がふさわしいと思う物を手に入れる。上下関係はなく、完全にフラットな社会。そこに、地球から旧態依然とした後発隊がやってきて・・・という話。

この本を読んだ時に「これぞ、世界のあるべき姿だ」と思ったのを覚えている。何もしなくても生きていけて、欲しいものが全てタダで手に入る世界では、人には「承認欲求」のみが残る。人は、他人からの敬意を得るために努力し、自分を磨く。僕がこの思想に共感したのは、当時、僕がフリーソフト作家をしていた時期と重なったのも大きい。フリーソフトとは、自分が作ったアプリケーションを無料で公開し、他の人にも使ってもらうものだ。自分が作ったものを、他人が楽しんでくれたり、便利だと思ってくれたりしたらうれしい。フリーソフト作家は、そんな人々の反応だけを報酬として、決して少なくない時間を開発に費やす。

しかし、時は流れ、社会人となってそれなりの経験を積んでからもう一度「ケイロン」という世界を思い返すと、素晴らしいばかりに見えた世界が、「あれ?実は結構厳しい世界なのでは?」と思うようになった。ケイロンの様々な物品が置いてある場所で、「後発隊」が「全てタダで持って行って良い」と聞かされ、あれもこれもと手に取る様子をみて、ケイロン人は「あんなに物を持って行って、どうやって釣り合う敬意を手に入れるつもりなんだろう」と疑問に思う描写がある。つまり、ケイロン人は望めば全ての物が手に入る世界であるにも関わらず、「自分の価値」を考え、それに釣り合うものしか手に取らない。つまり、空気を読んでいる。

我々がジュースを買う時、「自分はそれに値するか」などと考えない。通貨があるからだ。多くの人は、通貨を給料として得ている。給料をもらうとき、その多寡で自分の価値が決まるような気がするかもしれないが、一度もらってしまえば、それを使うのには全く遠慮はいらない。100円玉には100円の価値があり、100円の価格のものと交換できる。それが通貨だ。しかしケイロン人は、ジュース一つ手に取る時でさえ「自分はそれに釣り合うか」と自らに問いかけなければならない。

通貨がなく、個人財産もない世界と言えば、「トマス・モア」の「ユートピア」も思い出す。

ここで描かれる世界にも、個人財産はない。全ては共有財産であり、家でさえ交代で使う。「断絶への航海」よりはストイックな世界だが、根底に流れている雰囲気は似ていると思う。

もう一つ、「断絶への航海」には気になる描写がある。ケイロン人は、常に「自ら考え、行動する」するのだが、そのような思考になるよう、ロボットが教育を行う。これも、トマス・モアのユートピアに似たような記述がある。ユートピアでは、原則として宗教は自由だ。無神論者も許されてはいるが、「神を信じないものは、来世も信じず、その結果、現世をないがしろにする可能性があるため国家の脅威である」と軽蔑されており、聖職者との討論によって「間違いに気づく」ことが奨励されている。

僕はいわゆる「気づき」という言葉が好きではない。人に何かを気づかせるとは、正解が既に用意されており、それに本人が(形式的にでも)自分の意思でたどり着くよう誘導することだ。よく「気づき」を大事にしようみたいな教育が謳われるが、結局のところ教師から与えられる断片的なヒントから、いかに「用意された答え」を導くか、というゲームになっていることが多く、「教師の顔色をうかがうのがうまい子」しか生産されない。

先にも述べた通り、ケイロン人は極めて強く「空気を読む」ことが求められる。全てが他者からの敬意に依存している以上、他者からの敬意を失うことは全てを失うことだからだ。他者が軽蔑するような思考や哲学を持つことは難しい。そういう意味で、強い「同調圧力」がかかっている。ケイロンには、「意識の高い人」しかおらず、ただ食っちゃ寝するだけの人はとても住み心地が悪いと思われる。

欲しいもの全てがタダで手に入るユートピア、ケイロン。そこは、Twitterの「いいね」の数が通貨となったような世界であり、「意識の高い人」しかいない世界であり、自分の幸せが強烈に「他者」に依存する世界であった。僕がそこに行ったら窒息してしまうであろう。

結局、「ユートピア」とは何か、どうあるべきか、僕にはまだわからない。

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